2021年12月12日


「主に不可能なことがあろうか」
創世記18章9〜15節

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1.「前回」


 アブラハムのところにきた3人の訪問者、その一人は、二人のみ使いを伴った御子キリストであるのですが、彼らは、アブラハムの「どうか、通り過ぎないで欲しい」と言う願いを受け入れ、アブラハムのもてなしを受けます。アブラハムは、自分のような罪深い者のところを訪問してくださったその恵みを喜ぶからこそ、その恵みへの応答として精一杯もてなしをします。しかし、主なるキリストは、そのようにもてなしを受けるためにアブラハムのところに来られたのではありませんでした。それは、約束の言葉を与えるためであり、サラが聞こえるところで、サラに対しても、来年の今頃、サラに男の子が与えられると言う約束を伝えるためであったのでした。そこから、主キリストは、「もてなされるため」に来たのでは決してない、福音書の言葉でもはっきりと、「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10章45節)と言っているように、約束の言葉で仕えるために来られた、そして、そのことは、十字架の死においてこそ、何にもまして実現されているのだと言う恵みを教えられたのでした。だからこそ、アブラハムのところへ来られたキリストは、同じように、私たちのところにもおられ、変わらず、同じように約束の言葉を持って絶えず仕えてくださる。そのような恵みの神であることを教えられたのでした。



2.「主はサラのところへも」


「彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで、「天幕の中にいます」と答えた。」9節

 まず3人は、「あなたの妻サラはどこにいますか」と尋ねています。つまり、3人は、妻サラに会いにきたことがわかるでしょう。その約束の男の子がサラに与えられると言う約束は、すでに前の章でも見てきたように、少し前に、アブラハムがすでに主から受けていた約束でありました。その約束をもう一度、アブラハムにあえて伝えに来たとも言えるのですが、この訪問は、妻サラにも伝えることを目的としていることがわかるのです。アブラハムは、どこにいますかと聞かれていますので、その通りに、「天幕の中にいます」と答えます。彼らはサラをここに連れてきなさいとはもちろん言ってはいません。しかし、10節にこうあります。

「するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。」10節


A,「サラにも約束を伝えるため」

 3人の一人が、アブラハムに再び、この約束を伝え、「必ずあなたのところに戻ってきます」と言う新しい約束も加えられ、それはアブラハムに語っているので、この言葉は確かにアブラハムに対するものです。しかし、サラがその語っている人の後方にある天幕の入り口でその話すのを聞いていたことが書かれています。この約束を語っている主は、「あなたの妻サラはどこにいるのですか。」と始めていますし、この後で、隠れて聞いているはずのサラの心の反応までも知っていることから、主は、サラが隠れて聞いていることを知った上で、語っていることが見えてくるのです。そう、この約束は、アブラハムへの言葉であると同時に、3人がこられた目的である、サラにもこの約束を語っているのです。当時もそうですし、新約の時代のユダヤ人社会もそうですし、現在も、厳格なユダヤ教徒たちにとってはそうですが、女性は、男性よりも身分が低いものとされていました。そのような客人の前でホストであるアブラハムがもてなしている間、アブラハム自身が言っているように、妻であるサラが幕屋にいると言うのが、当時の常識でもあり、アブラハムはその通りに答えただけであったでしょう。しかし、サラは、その突然の訪問者のこと、そしてその彼らが何を話すのか、気になって当然です。しかもその話に「サラはどこにいるのか」と言うので、尚更気になって幕屋の入り口の影で聞き耳を立てていたのかもしれません。主は、「サラをここへ」とも言わず、しかし、そのように興味津々に訪問者とアブラハムの話を隠れて聞こうとしていることをご存知の上で、アブラハムだけでなく、隠れて聞いているサラにも素晴らしい約束を語ってくださる、その恵みを見ることができます。


B,「創造の秩序」

 何度も言うように、主の前にあって、創造の初めから、神は、人は一人でいるのはよくないと言われて、男は女のために、女は男のために、互いに助け合うために、与えられたパートナーです。どちらがより尊いとかそうでないとか、偉いとか偉くないとか、優れている優れていない、の優越や差別、互いに争ったり、罵りあったり、そのようなことのために、主は異性を与えてくださったのではありません。もちろん、主は様々なところで、その役割や働きにおいての区別は設けてはいますが、互いに助け合い、愛し合い、協力して、被造物を治めていくための、存在です。まして夫婦は、神は一つであると言いました。ですから、神様がこのアブラハムとサラと言う夫婦の取り扱い、そしてその素晴らしい約束においても、二人であっても一つとして対処していることが分かります。アブラハムという新しい名前を与えたところでも、妻にもサラという新しい名前を与えました。そして、このサラを通して男の子が与えられると言う約束も、直前に直接、アブラハムに語り、そんなに時間が経っていない時に、一歩下がって幕屋にいるようでしかし隠れて聞いているサラにも語ってくださったのです。これは感謝な恵みではありませんか。



3.「サラも笑う:信じられない主の言葉」


 しかしそのような素晴らしい約束を聞いたサラ本人ですが、こう続いています。

「アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」11?12節

 サラは心の中で笑ったのでした。そして心の中で言うのです。

「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

 17章では、アブラハムも心の中で笑ったことが書かれていましたが、この二人とも、11節や、この心の中の言葉にもあるように、当時の、自分たちの体の状態、年齢の問題、そして、通常ではありえないそのようなことだからこその当然の声であったのでした。アブラハムもそう思ったように、主からのそのような「サラから男の子が」と言う約束は、世の常識や自分たちの肉体の現実から見れば、全く不可能で、ありえないことだったのです。ですから、二人とも、そのような世の常識や目の前に広がる身体的年齢的な現実に照らして、それを判断の基準として、信じなかった、そして笑ったのでした。世の人々、そして私たちの肉の「信じない」「信じられない」の基準もそのようなものです。自分たちの常識や現実が基準になり、その基準による自分たちの判断が信じないと言うものは信じない「信仰」になっているのです。そして聖書のこと、キリストの言葉、を信じられないのも、そのように自分たちの基準や判断に当てはまらないから人々は信じないでしょう。そう確かに、聖書の言葉、キリストの言葉は、私たちの思いや知識や判断を遥かに超えたことが書かれていると言うのは、その通りであり、それは、まさにアブラハムとサラの笑い、そして、このサラの言葉にも現れているのです。



4.「主に不可能なことがあろうか?:主は信じないサラに約束を」


 しかし、そのような現実や反応に、主は、応答します。

「そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。」13節


A,「主は心を見られる」

 主は、サラが、幕屋の入り口の影で聞いていたことだけでなく、まさに「心の中」でのことです、その心の中で笑って、『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言ったことまでを聞こえていたのでした。皆さん、まずここには、主の前に、私たちは恐れなければいけない主の事実がはっきりとわかるでしょう。人の前では、慎ましく、出しゃばらず、もてなしに出ずに、幕屋に下がっていた、立派な妻を演じていたかもしれませんが、神の前には、隠れて聞いていることだけでなく、何よりその心の中を隠し通すことは決してできません。心の中で笑ったことも心の中で言った不信仰な言葉も、主の前には明らかであったのでした。主は外側の容姿や行いよりも、その心を見られると言うのは、実に、一貫しています。私たち、もちろん、私自身もですが、神は私たちの心をしっかりと見られている。人の前から隠し通せているようなことでも、影で誰かと、いや一人でも、こそこそ中傷したり裁いたりするようなその心も、そして信じていない、主を笑う、その心も、主は見ているし、その心が罪深ければ、神は悲しみ、怒っていることを私たちは忘れてはいけないと教えられます。それと同時に、神は、その心を見られるからこそ、私たちが、誰にも言えず、苦しんでいる苦しみや悲しみ、その心の中の祈りをも、主ははっきりと見てくださり、聞いてくださる、そのことも忘れてはいけません。心を見られる主に、恐れと、そして、同時に、希望を教えらる所だと教えられます。


B,「「人の前」に不可能なことは信じない」

 ここでは、サラが心の中で、笑い、そのように、「子を埋めるだろうか」と現実的な判断で、神の約束に勝手な判断をしたその言葉を、主は指摘します。しかしどうでしょうか?主は、ここで、そのように信ぜず、笑い、ありえないと判断したサラを、責め、断罪し、「そんなに信じないなら、笑うなら、そんな不信仰なあなたへのその約束は取り下げる」と言われているでしょうか?そうではないのです。

「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻ってくる。そのとき、サラには男の子ができている。」14節

 主は言います。「主に不可能なことがあろうか」と。アブラハムとサラが、判断した視点は、どこまでも「人の前の」視点でした。「人の前」にあっては、年老いた自分から子供が生まれるわけがない。だから、二人とも笑い、アブラハムは「イシュマエルこそ」といい、サラは子を産めるはずがないと決めつけました。それが、誰か他の人の言葉ではなく、主ご自身からの約束、言葉であるのにです。そう、この夫婦は、まさにアダムとエバの子孫であり、罪人の系図であり、罪人を代表しているのです。主の言葉、主の約束の方が、信じられない。起こり得ない。そして、主以外の言葉、人から、現実から、目に見える現象からも、最もそうな言葉であったり、誘惑であったり、示唆であったり、そこから自分が予想できたり、計算できる範囲のことを信じたい、ありえない、信じられない神の言葉よりもそちらを信じたい。それが罪の力であり、罪の影響です。それは誰にでもあり、誰にでも起こるものです。そう、アブラハムとサラの現実を見れば、それは、不可能なのです。「人の目から見れば」です。しかし、主の言葉、主の約束、主の前にあることは、それとは全く逆であるのです。


C.「主の前」は遠くない、目の前の現実」

「 主に不可能なことがあろうか」

 人の思いや力ではありえないこと、不可能なこと。しかし、主の言葉、主の約束は、それを超えて、どこまでも真実であり、その通りになる。それが、「主の前」の出来事であり、現実である。しかもこれが大事な点ですが、私たちはその「主の前」に、遠く離れて存在しているのではないと言うことです。そう、私たちはその目の前の現実にあって、主の言葉を遠く感じてしまうか、自ら遠くにおいてしまう、そんな罪深い性質と誘惑がありますが、しかし、主は、そんな私たちのところへこそ、きてくださった方です。そうこの場面でも、主の方から、二人のみ使いと共に、アブラハムとサラのところへと、もう一度言います。「主の方から」来てくださっているでしょう。そして、クリスマスのみ言葉も明かししていたでしょう。ヨハネの福音書1章14節の言葉を繰り返して見てきたではありませんか。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1章14節

 そう、ことば、主イエス・キリストは、人となって、私たちの間に、主の方から、私たちの間へとこられたとあるでしょう。「主の方から」私たちのところです。


D,「主の前に罪深くとも約束は放棄されない」

 その現実を、サラは信じられませんでした。主は陰で隠れてしかも心の中で笑ったサラのこと、疑いの言葉を言ったことをご存知で、アブラハムに指摘した時に、サラは思わず、隠れていたところから飛び出してきたのでしょう。それを打ち消します。15節

「サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」15節

 サラは隠れ、主ご自身が自分たちのところへこられ、主の前がそこにあることに気づかず、心の中で笑い、疑いましたが、まさに主の前にあって、すべては明らかであることを知って、彼女は主の前に隠れていることができなかったのでしょう。しかし、それでも、恐ろしさのあまり、なおも自分を隠し、偽り、「笑いませんでした」と打ち消すのです。主の前にあって、恐れを覚えても、なおも不完全な罪深い現実が現れています。しかし、主は主の方からこられ、主の約束を伝え、その約束の真実さは、アブラハムやサラの不完全さ、罪深さに、決して左右されない。それによって不可能になったり、現実しなかったりもしない。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」の言葉は、実現するのです。そうどこまでも、主の約束は恵み。約束の実現も恵み。主ご自身が約束の通りに実現させる。主にとって不可能なことはないのです。



5.「救い主イエス・キリストの予型」


 そして、このことは何より、救い主イエス・キリストの予め定められている型です。あのナザレの大工の許嫁である、マリヤの下にも、主の方から、み使いを遣わし、主の約束の言葉があったでしょう。男の子が生まれると。それは次週見て行きますが、マリヤも信じられなかったことですが、まさに主にとって不可能なことはないと言うその言葉の通りに、主の約束は実現し、救い主は私たちのために生まれ、私たちの間に、主の方から来られるのです。聖書が記す約束の救い主も、私たちは誰も信じられない、思いを遥かに超えたことです。しかし、そのような私たちの罪深い現実の中にこそ、主は来られる。「主の前」の現実と恵みは、事実、今、私たちの前に広がっているのです。ぜひ、その恵みを覚えて、クリスマスを迎えましょう。



<創世記 18章9〜15節>


9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中に

 います」と答えた。

10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。

 そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の

 入口で、聞いていた。

11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに

 止まっていた。

12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみが

 あろう。それに主人も年寄りで。」

13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろう

 か。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。

14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに

 戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」

15 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし

 主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」