2021年12月5日


「人の子が来たのは何のため?」
創世記18章3〜10節

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1.「3人の訪問者」


 前回から18章に入り、アブラハムを訪れた3人の人のことを見てきました。アブラハムはその一人が主であるとすぐわかり平伏し礼をしました。その主は、人となられて人々の間に来られる御子キリストでありました。そのように、御子キリストは、新約の時代に突然現れ存在したいたお方ではなく、使徒ヨハネの福音書で「ことばは神であった。〜すべてのものは、この方によって造られた」(ヨハネ1:1〜3)「ことばは人となって私たちの間に」(1:14)とあり、またイエス自身の証言でも「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(8:58)とある通り、キリストは創造の初めからおられ働いておられるお方であることを教えられました。そしてその「ことばは人となって私たちの間に」こそ、私たちに与えられているキリストの変わらない恵みであり、キリストはみことばにおいてこそ、私たちの前にもいつでもおられるのであり、ことばであるキリストは今もいつまでも永久までも主の方から来られ、私たちと共にあって、語りかけ、働いてくださっている、その恵みを教えられたのでした。今日も、その3人の訪問者との話を続けて見ていきます。アブラハムはその3人に駆け寄り平伏し礼をした後ですが、こう言います。



2.「どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないで」


「そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。」3節


A,「罪人であることを知って:日々悔い改め」

 「ご主人」と訳されていますが、英語ですと、”O、Lord!”となっていますので、それが主なる神であることを知っての「主よ!」という呼びかけだったと言えるでしょう。それは、族長であるアブラハムでありながら、自分を「あなたのしもべ」と言っており、相手に対して非常に謙った語り掛けであることがわかります。そして「お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでほしい」というこの言葉。これは単なる社交辞令ではなく、アブラハムは、その主が、卑しいしもべである自分のところを素通りされると思ったことを意味しています。つまり、アブラハムは主の前に恐れを抱くからこそ、平伏し礼をしたのであり、自分は神の前に立つことのできないような存在、自分の前は神が通り過ぎるような、心を留められないような卑しい存在であることを、自覚していることの現れた言葉であると言えます。ここからも、アブラハムは、自分がどこまでも罪深い存在であることを知っていた、日々悔い改めの存在であったのです。神の恵みや神の救いの真理は、どこまでも人間の、つまり私たち自身の罪深さと紙一重であり、私たち人間のの圧倒的な罪の現実のゆえにこそ、神の救いの計画があり十字架と復活で完成するのです。ですから、私たちが、キリストの真理や救いに生きると言うのであるなら、その信仰は、自分の罪の現実への悔い改めがあってこそ始まるものであり、私たちが本当に恵みを知り、確信を持って証しができるのも、日々の罪の悔い改めがあってこそであり、罪の自覚と悔い改めなしには、人は、神の恵みも、十字架と復活の真理と素晴らしさも決してわからないし、悔い改めを通らなければ、恵みによる新しい歩みや、本当の霊的な成長も実のりも、ないということなのです。なぜなら、事実、この信仰の父である、アブラハムこそ、自分の罪の現実、罪深さを自覚していたのであり、神は自分を通り過ぎると思ったのであり、自分をしもべと呼び、平伏し礼をするしかない存在であると信じていた、まさに、アブラハムは、日々悔い改めを生きていたのですから。


B,「「悔い改めは必要ない」には、主の恵みは決して知り得ない」

 ですから「悔い改めを伝える必要ない」とか「耳に煩いので聞きたくない」とか「そのようなネガティブなことを語っているから、人は敬遠して避けて集まらないんだ」と言って、教会から、礼拝から、説教から、悔い改めを脇に置いたり、蓋をしたり、排除するような教会は、多いのかもしれませんし、そのような教会は目に見えて繁栄しているように見えるかもしれませんが、しかし、悔い改めを抜きにしては、どんなに繁栄しているように見えても、霊的には死んでいるし、霊的には教会であることを全く放棄していることになるのです。もちろん、自分がどこまでも神の前にも人の前にも罪人であり、悪魔の誘惑に無力な、自分が神のようであろうとする、自己中心さと罪の虜であると認めることは嫌なものですし、罪深さを気づかされる時には、まさに使徒の働きにあるように、刺し通される痛みがあるものです。しかし、それは、病いが見つかりそれを取り除こうとする時の治療の痛みであり、主は病気のまま放置されない、痛みの後に、安らかな癒しを提供するためにこそ、罪の現実、事実に直面させる。自分自身の過ちや自己中心さに直面させる、そして、律法の言葉で、それは罪なんだと刺し通されるのです。しかし、まさに主のその取り扱いがあるからそ、病原が明らかになり、そのための痛みの伴う治療があるからこそ、十字架の罪の赦しという素晴らしい唯一の治療が効果を表し、私たちは罪に死に、新しく生かされていくことができるのです。信仰の父アブラハムも日々悔い改めの生涯でした。日々悔い改めの生涯にこそ、信仰の生活の本当のあるべき姿があり、だからこそ、アブラハムは信仰の父であるということです。決して信仰を律法的に捉え、なんでも自分の力で、罪も犯さず、立派に振る舞えたから、信仰の父ということでは決してないのです。日々、悔い改めの生涯を彼が生きたからこそ、彼は信仰の父なのです。ですから、律法によって、悔い改めに日々導かれるなら幸いです。なぜなら、そこにこそ、イエス様の十字架と復活の福音の素晴らしさと平安が確かにあるのですから。



3.「もてなし:福音から生まれる恵みへの応答と真の服従」


 そのようにアブラハムに突然、会いにきた主キリストをアブラハムはもてなします。

「少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。」4節


A,「精一杯のもてなし」

 足を洗うというのは、当時、正しいもてなしとしてはまず最初にすることであり、当時は宿などはない時代ですから、旅人の滞在を拒んだり、あるいは、このように足を洗うということを疎かにするということは、とても良くないこと、悪いこととされていたと言われています。そして5節こう続いています。


「私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。」5〜7節


 まず、ここで「少しの食べ物を持ってまいります。」とありますが、英語ですと、「ほんのわずかなパン」となっております。しかし、アブラハムは、遜ってそのように言いつつも、急ごしらえではありますが、精一杯、主をもてなそうとします。まず「三セア」の上等の小麦粉でパン菓子を作るように言います。「三セア」は3人が食べるには、かなりの多い量の小麦粉になります。そして、料理するに良さそうな、子牛で、急いで料理するように準備させたのでした。そして急な準備ではありましたが、料理を木の下で涼んでいる3人の前に備えて、もてなしたのでした。


B,「それは、律法からではなく福音から出ている」

 アブラハムは、自分が神の前に罪人であることを知り、日々、悔い改める存在でありました。しかしだからこそ、彼は同時に、その約束の真実さと、そこに溢れる罪の赦しと憐み、その恵みこそを知っており、その神の恵みと憐みにこそすがり、生きるものであったでしょう。彼の信仰は、律法による信仰では決してなく、そのように、彼はどこまでも神の真実な約束と恵み、まさに福音によって生かされて、強められていた信仰であったのでした。ですから、彼は、自分を「しもべ」と呼んでもてなしていますので、このもてなしは、ただ単に旅人へのもてなし以上の意味があり、まさに憐み豊かな主の恵みを覚え、それを喜んでの応答の行為であるのです。イエスは、このようにアブラハムについて証言しているからです。


「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」ヨハネ8章56節


 それを聞いたユダヤ人はイエスに「あなたはアブラハムに会った」というのかと怒りますが、前回も述べましたように、キリストは、まさにこのマムレの樫の木の所に天幕を張るアブラハムに会いにきて、ひれ伏され、招かれ、樫の木の下でもてなしを受けたのです。そうキリストはアブラハムに会い、アブラハムは主キリストに会った。見た。そしてまさに大いに喜んだのです。何度も言うように、その喜びは、決して律法からは生まれません。「絶えず喜んでいなさい」と言うパウロの勧めた言葉は皆さんご存知でしょう。それが命令で書かれてはいますが、喜べと命ぜられて喜ぶ、喜び、強いられて、命令されての喜びは、真の喜びではあり得ないでしょう。そう真の喜びは「こうしなさい」「こうあるべき」「こうでなければならない」「自分が自分の力を振り絞って」と言う律法から、律法を動機にしては決して生まれません。ですから、「絶えず喜んでいなさい」は命令でも律法でも決してない。パウロは、まさに福音が私たちにはあるからこそ、いつでも喜ぶことができるのですよ、と言う励ましを言っているのであり、「絶えず喜んでいなさい」の喜びはまさに福音から生まれるものです。ですからクリスチャンは、喜べ喜べと律法で駆り立てられるから喜ぶのではなく、イエス・キリストがしてくださったその生涯と十字架と復活を、福音を信じるからこそ、その福音から泉の如く湧き上がる喜びを経験できるものではありませんか。ですから、「あなたはいつもなんでも喜んでいないからダメなのです。不信仰なんです。クリスチャンらしくありません」などと言うのは間違いです。「喜びなさい」の言葉は律法ではないからです。福音を知り信じ、神の約束を、恵みを、福音を喜ぶからこその福音から溢れ出る喜びなのです。アブラハムのもてなしには、まさにその喜びが溢れています。喜ぶからこそのもてなし、喜ぶからこそ、主へ応答する。私たちが主の恵みに応答すること、従うこと、服従すること、良い行いも、隣人を愛することもとても大事です。しかしそれは律法に駆り立てられる応答ではなく、主の恵みへの応答であり、律法からはそのような真の応答、服従、隣人愛が生まれるのではない。どこまでも真の応答は福音から生まれる。その応答を主は喜ばれるのだということなのです。



4.「人の子が来たのは何のため?」


 しかし、ここにはさらに大事なことがあるのです。それは、主はそのようにもてなされることを目的としてアブラハムの前に現れたのではないと言うことです。


「彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで、「天幕の中にいます」と答えた。するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。」9〜10節


A,「主の約束を伝えるために」

 主キリストが、アブラハムのもとに、主の方からやってきたのは、もてなされるためではありません。アブラハムが自分をもてなすかどうか、どれだけ立派な料理でもてなすかどうか、テストしにきたのでもありません。それはアブラハムに与えた約束、来年の今頃、サラを通して、男の子が与えられると言う約束、アブラハムがその時、心の中で笑って信じられなかったその約束を、「あなたの妻サラはどこにいますか」と言い、サラに、「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」と言うために来たのでした。アブラハムはサラは天幕にいますと言いますが、主キリストは、サラが天幕の後ろの入り口で聞いているのを知って、そのことを語っていると言えるでしょう。そう、主キリストが、アブラハムのところへこられたのは、もちろんこの後、見ていくソドムの出来事も関連がありますが、まず第一に、サラへ主の約束を伝えるためにやってきたのだと言うことがわかるでしょう。そう、主が来られるのは、約束の言葉を与えるためであり、サラに主のわざを行うためです。決してもてなされるために、仕えられるために来たのではありません。むしろ仕えるためなのです。事実、新約聖書ではイエス・キリストはご自身が世に人となって来られ住まわれた目的を実にはっきりと言われているでしょう。


B,「主は仕えられるためではなく、仕えるために」


「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10章45節)


 と。またパウロもアテネの広場で論じていたアテネ市民にこう言っています。


「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒17章24〜25節)


 と。イエスがご自身がこられた目的を、もてなされるためではない、「仕えられるためではなく、仕えるため」「贖いの代価として命を与えるため」と言っています。そして、今日のところから思い出すではありませんか。アブラハムはもてなしを受け入れてくれた主と二人のみ使いの足を洗いましたが、それが主にとっては大事なことではありません。ヨハネ13章にあるでしょう。主キリストは、最後の晩餐の席で、弟子たちによって足を洗ってもらったのではなく、その逆にイエス・キリストご自身が弟子たちの足を洗ったでしょう。主がまさにもてなし、仕えてくださいました。ペテロはそれに驚きますが、 イエスは「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(7節)と言ったのでした。私たちの人の常識や宗教的な原則、そして律法の視点から言うなら、まさに「主が足を洗う。主が仕えてくださる」と言うことは、それらとは逆のことであり理解できないことです。しかし福音と聖霊によって目が開かれた信仰の目で、イエスのしてくださった十字架と復活こそが真理であり救いでありいのちであるわかった時にヨハネはその意味がわかるのです。私たちの信仰の核心として見上げる先、拠り所として立つところにいるのは、人から仕えられる神ではなく、人のために仕える神がいるのです。それが今日のところにはよく現れている。主のここでの目的も、もてなされるためではない。サラに恵みの約束を伝えるために来た。主は永久に変わらない仕えてくださる神なのです。事実、有名な、アブラハムが「生贄のためのイサクの命」を捧げようとしたときも、主はその命の生贄を受け取らないで、イサクの代わりに主ご自身が礼拝のための生贄さえも備えてくださる(創世記22章11〜14節)でしょう。その実現がイエス・キリストの十字架ではありませんか。まさに私たちの確信でありまさにいのちを与える福音である、その十字架にこそ、キリストがこられた目的、「仕えるため」、「贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」があるのです。今日もイエス・キリストがここにいて御言葉を語り、律法の言葉で悔い改めを起こさせ、そして、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」の福音の言葉で私たちに平安と喜びを与え、遣わしてくださるのです。そのキリストの福音のゆえに安心し喜んで、ここから遣わされて行きましょう。





<創世記 18章3〜10節>

3 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通り

 なさらないでください。

4 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休み

 ください。

5 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を

 続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」

 彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」

6 そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等

 の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」

7 そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い

 者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。

8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に

 供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。

9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中に

 います」と答えた。

10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。

 そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の

 入口で、聞いていた。