2021年11月28日


「ことばは人となって私たちの間に」
創世記18章1〜2節

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1.「3人の訪問者」


「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。」1節


 「マムレの樫の木のそば」は、アブラハムがロトと別れ、ロトがヨルダンの低地へと移り住んでいった後に、アブラハムが天幕を張って住んでいた地でした。そこで、彼は、ただ天幕の入り口に座っていた。それだけでした。誰かを待っていたのではありません。ただ座っていたのでした。そこにです。

「彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。」2節



2.「3人は誰か?」


A,「キリスト」

 アブラハムは目をあげると3人の人が彼に向かって立っていたとあります。そして、彼は見るなりその3人を迎えるために座っていた天幕の入り口から走って行き、その場にひれ伏したとあるのです。まずこの3人です。アブラハムが、慌てて出て行き、地にひれ伏して礼をしたとあるように、その3人のうちの一人は主であると悟ったのでした。では、3人とあるので三位一体の神、父なる神、御子、そして聖霊であるという人もいるのですが、それは違います。モーセの記録から分かるように、父なる神をその目で見たものは死ななければいけません。モーセでさえも通り過ぎるその背中しか見ることが許されませんでした。誰も顔を合わせて見ることができませんし、まして聖霊は、主の霊であり、目に見えない助け主です。しかし、神である方が人ととなられ人の前、人の間にその姿を現された出来事は皆さんご存知です。イエス・キリストです。ヨハネ1章にこうあります。


「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1章14節


B,「御子キリストは創造の初めから永遠に存在する」

 その通り、人となって、人の間に来られる神は、神の御子キリストのことに他ならないのです。ですから、神の御子キリストは、新約聖書だけの存在であると思っているなら、それは大きな誤解です。御子キリストは、旧約の神でもあるのです。事実、ヨハネは証ししています。14節の「ことば」とあるのはキリストのことを指しているのですが、その1章の初めでは彼は創世記の出来事に合わせてはっきりとこう書いているでしょう。


「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」ヨハネ1章1〜4節


 使徒ヨハネは、創造の初めにおられて、その天地創造をされたのは、この人となられた「ことば」である方、つまり、神の御子キリストであったことを示しているのです。御子キリストは、創造の初めから、そして、堕落した後も存在し活動されているのであり、常に変わらず「人の間に」来られるお方なのです。ですから、このアブラハムに現れた3人の一人は、御子キリストに他なりません。そして、他の二人は、姿を見ると死ななければいけないような、三位一体の父なる神や、霊である聖霊ではなく、神のみ使いであると言えるのです。



3.「キリストの方からアブラハムの前に」


A,「予期せぬ来訪」

 その人となって現れたキリストが、アブラハムのもとへ現れたのですが、アブラハムは、来るのを予想し、来るのを待って、幕屋の入り口に座っていたのではありません。彼は思いもしない、予想もしない、準備もしていません。迎えに出た、あるいは、迎えに行ったのでもありません。事実、この後のもてなしも、6節にある通り、サラに「パン菓子を作っておくれ」とすぐに作れるようなものを作るようにと、急ごしらえのものを求めているように突然の訪問であったことがわかるでしょう。このようにアブラハムの方からは何もない。ここでも、聖書の一貫した恵みの原則がある。主なる神、キリストの方から、来られる。働かれる。その恵みをここに教えられているのです。さらには、人となって現れた主なる神に、アブラハムは恐れひれ伏し拝むほどなのですが、同時に、その驚きと恵みに、喜んだことでしょう。なぜなら、このことも、ヨハネの福音書にはこのようなキリストの言葉が書かれているからです。


B,「キリストと会い喜んだアブラハム」


「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」ヨハネ8章56節


 アブラハムは人となって人の間に来られたキリストを、「彼はそれを見て、喜んだ」と、すでに、起こったこととして書いているでしょう。そう、アブラハムは人となられたキリストを見たのであり、キリストは、アブラハムと会っているのであり、それを喜んだと、キリストご自身が証ししているのでした。それに対して


「そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」ヨハネ8章57節


 と、ユダヤ人達は理解できません。まだ30過ぎたばかりのイエスがアブラハムに会い、アブラハムが自分に会った時のことを述べているのですから、常識的にもありえないことでした。それに対して、ここでも、イエスご自身が、ご自身が旧約の時代。アブラハム以前からいることをこう語っているのです。


「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」ヨハネ8章58節


 「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」アブラハムの前から、そして、創造の初めからキリストがおられたことの証しは、使徒ヨハネの勝手な予想や推測や学説や仮説、まして思いつきでもないということです。イエスご自身が語っていたこと、イエスご自身からの教え、証言であったということです。


C,「人は自分の力で信じられないこと」

 ヨハネももちろんこのイエスさまの言葉を聞いたときには信じられなかったことでしょう。後に、聖霊の働きでイエスが言われたことは真実であると信じて、聖霊の働きでこの福音書を記しているのですが、そのようなイエスの発言そのものは、それを聞いた時、多くの人は信じられなかったのです。事実、59節では、こう結ばれているからです。


「すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。」ヨハネ8章59節


 人々は、神の御子であるイエス・キリストの証し、それはご自身が神であることを示すような言葉であり、それを多くの人が約束の救い主だと叫んで指し示すその人のその口からの言葉であるのですが、多くの人々は信じられないだけでなく、信仰の父アブラハムを冒涜する言葉であるとしてイエスを殺そうとまでした。それほどの言葉であったのです。


D,「人となられたキリストとそれを信じる信仰は神の一方的な恵み」

 このように、人となられた神が人の前に現れるということ、それは誰も思いもしない。予想もしない。計画も実現もできない。そして信じられないことであり、人のわざ、人の努力、人の功績でもありえないこと。それがアブラハムの目の前に起こったということなのです。神である方が人となられて、人の前に、人の間に来られる。素晴らしい事実がここに起こっている。そしてそれはアブラハムの何らかの功績やわざのゆえに起こったのではない。どこまでも恵みであるということです。そしてそれが主なる神であると分かり、信じ、喜ぶことができたのは、まさにこれまで見てきた、神の一方的な介入、お言葉、そして約束とその実現の恵み、そしてそこに悔い改めが日々起こされ、日々新しくされてきたその賜物としての信仰のゆえであったのです。



4.「今も永遠に変わらないキリストの恵み」


 皆さん。今日のこのところにも、アドベントのメッセージがあります。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1章14節


A,「何かに限定されない、何かの枠にはめられないキリスト」

 私たちの主であるイエス・キリストに私たちはこの言葉の実現を見ます。しかし、主イエス・キリストは、この前には存在せず、突然現れたような限られた、限界のある存在では決してないということです。人となられた神は、決して時代や場所に限定されない。私たちの理解や常識や合理性では決して計り知れないし、計算もできない、説明し尽くせないことではありますが、ベツレヘムの家畜小屋で生まれるより前にも、御子キリストも永遠に変わらない存在として、存在されていた、それも目に見えない存在としてではない、人となられてアブラハムの前に現れてくださった。主なるキリストは、そのような永久に変わらない存在である。そのことを教えられるのです。それは今も同じです。もちろん、それ以後、人となって来られるのは、使徒の働きでみ使いが弟子達に言っている通りです。御使いは、イエスが天に昇られた後に弟子達にこう言っています。


「そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」使徒1章11節


B,「天に昇ったキリスト、しかしともにいるキリスト」

 そのように、人となられたのと同じ姿で私たちが見ることができるのは、再臨の時であるのです。それまで人となられ、死んで復活されたキリストは、天の神の右の座におられます。しかしだからと、御子キリストは限られた有限の力の存在として、私たちには、遥か遠くの存在であると、私たちは思ったらいいのでしょうか。そんなことはありませんね。それでも御子キリストは、アブラハムの前に現れた時のように、そして、創造の時のように、永遠に変わらない、力ある方、そして恵み深いお方として、私たちに働いてくださっているのは決して変わりありません。そう、ヨハネの証しにあるでしょう。


「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」ヨハネ1章1〜5節


C,「ことば」

 「ことば」は、キリストを表していいますね。そして聖書の中でひらがなで、英語では、大文字で”Word”ですが、それはただの私たちの使う言葉や、文字の言葉の言葉ではない、神の口から語られる生ける「ことば」、天地創造をしたキリストの「ことば」を表しています。そう今日何度も繰り返しているこのことば。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1章14節

 「ことば」は人となられた。その人となられたキリストに、私たちは会うことはできませんが、ヨハネは、キリストは、その「ことば」におられる。「ことば」はキリストそのものであり、「ことば」を通してキリストは、私たちに変わらず、働いてくださっている。しかも、その「ことば」は、ただ律法で終わることがではない。裁きと断罪と、絶望の言葉ではない。「恵みとまことに満ちている」ことばであるとヨハネははっきりと示しているではありませんか。マタイもイエスの天に昇られる前の言葉をこう伝えています。


D,「世の終わりまでともにいる」


「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28章20節


 そう天に昇られるはずのイエスが、事実、イエスは天に昇られるのですが、「世の終わりまでいつもあなた方とともにいます」と言っているでしょう。矛盾ではありません。「ことば」に、約束に、福音に、キリストは永久にともにおられることをイエスは約束されたのでした。



5.「十字架と復活のキリスト:私たちの日々新しいいのち」


 人となられたキリストは、アブラハムの前に、キリストの方から現れたように、この罪の世である私たちの前にも、キリストの方から来てくださいました。そして、私たちと同じように、肉体をとられ、同じ体を持ったものとなり、私たちの間に住まわれました。ともに歩まれました。飼い葉桶の上におかれ、大工の子として働き、罪人のところに言って、裁くのではなく、ともに食事をし、友となり、悔い改めて神の国を受け入れるように招きました。そして罪がない方なのに、私たちの代わりに、私たちが負うべき、払うべき罪の代価、裁きである死を、その肉体を持って代わりに支払って死んでくださいました。しかし、そのキリストの死と復活によってこそ、神は私たちに今も罪の赦しと日々新しいいのちを与えてくださっているではありませんか。キリストは、そのことを実現され、そして、今も、キリストは私たちの前におられる。「ことば」のあるところにキリストはおられる。「ことば」の説教されるところにキリストが語り、働いておられるのです。そればかりではない。目に見える形で、洗礼と聖餐というしるし、恵みの手段を与えてくださり、みことばを水、そしてパンと葡萄に結びつけることによって、象徴ではない、イエス様のからだと血を与えてくださることによって、目の前におられるイエス・キリストは今日も明日もいつまでも、私たちにことばを、約束を、実現してくださるでしょう。そう、私たちも、「ことば」である福音と聖礼典においてはこそ「この方は恵みとまことに満ちておられ」ると、告白できるのです。今日も、イエス・キリストはここにおられます。みことばが、説教され、そして、最後の言葉が律法として遣わされるのではなく、最後の言葉は福音の言葉で、イエスは、今日も、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」「わたしは永久にあなたとともにいる」と言ってくださり、安心のうちに遣わしてくださるのです。






<創世記 18章1〜2節>


1 主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口に

 すわっていた。

2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを

 迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。