2021年11月21日


「信じられない約束」
創世記17章15〜27節

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1.「前回」


 この17章では、イシュマエルの誕生から13年後に神はアブラムのところに現れ、契約を更新し、そして新しい名前、アブラハム「多くの国民の父」という名を与えてくださったことと、それは神の一方的な恵みの約束であり、「神がすべてする」という素晴らしい福音であり、重要なのは、それはただ血筋の子孫の約束以上に、イエス・キリストにおいて実現する、すべての人々へと向けられた福音でもあったのでした。また、その約束と信仰に伴うものとしてのしるしとして、割礼の命令もありましたが、そこから、しるしそのものや、しるしを行う行為が重要なのではなく、そこに伴っている神の約束の言葉が重要であり、どこまでも福音を動機にしてこそ、恵みの約束を信じる信仰において行なっていく時にこそ、それは幸いなしるしである事を教えられ、それは私たちにイエス様から与えられている恵みの手段であり、約束の言葉のしるしである、洗礼の水や聖餐のパンとぶどうも、同じである事を教えられたのでした。



2.「その名はサラとなる」


 さて、神のアブラハムへの言葉は、さらに続くのですが、その約束の子孫について、神は、さらに具体的に神様の計画と御心を明らかにしていきます。


「また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。」15節


A,「新しい名前」

 神は、アブラムにアブラハムという新しい名前を与えたように、サライにも新しい名前を与えます。その名は「サラ」となるとあります。「サラ」という言葉の意味は、「王妃」という意味がありますが、夫婦は主にあって一つであるのですから、「多くの国民の父」を意味するアブラハムの、その「王妃」「多くの国民の母」としての神の意味が込められていますし、ここでも「その名はサラとなる」とあり「あなたがサラとなりなさい」ではなく、「なる」と、神様が一方的にそのようにするのだ、という、神の恵みの中での計画である事を神様は示唆しているでしょう。事実、この先の未来について、神は神の方から、これからサラを通して、このような事をすると、具体的に約束していきます。


「わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」16節


B,「アブラハムと一体」

 神は、サラを祝福しようと言います。その祝福は、サラに一人の男の子を与え、そしてその子から子孫から多くの国とその民が生まれていき、まさに文字通り、サラは多くの国民の母となるのだという、祝福であったのでしたのでした。それは神がアブラハムに語った、17章5〜6節の

「わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」

 と並行する、同じ約束であることがわかります。そして何より神は「永遠の契約」とも言っているように、それは、ただ血筋の子孫や目に見える国家のこと以上に、イエスにおける成就、イエスが、宣教に遣わす場面、マタイ28章19〜20節で洗礼と福音の約束の教えを通して、「あらゆる国の人々を」と弟子とすると約束されたことに、成就する事を、サラにも同じように語ってくださったのでした。これは、幸いです。もちろん、男女には違いがあり、神がそれぞれに与えた働きや使命もありますが、天地創造の記録は、男は女のために、女は男のために、互いに争い啀み合い自己主張するために存在するのではなく、互いに助け合い、協力しあい、愛し合うために、神は互いを存在させた事を見てきました。何より夫婦については、神は、二人は「一体だ」と言ったように、一つである事を伝えています。神はそのように夫婦を見ていたし、アブラハムとサラも同じでした。アブラハムへの祝福の契約は、サラへの約束でもあり、アブラハムへの恵みは、サラへの恵みでもあるのです。


C,「キリストとその花嫁である教会との一体」

 そして、その関係と一体性は、まさにキリストとその花嫁とされる教会との関係であり、キリストと教会は一体、教会はキリストとのからだとも呼ばれ、キリストのものは教会のもの、私たちのもの、つまり、私たちの罪や汚れは、キリストは自分のものとして、全て負ってくださっている。サラはアブラハムのゆえに同じ祝福にあずかるように、私たちの信仰を与えられてクリスチャンとされている全てのことは、その祝福も新しいいのちの道も、それはどこまでもキリストのゆえである、キリストと一体だからこそであることも教えられるのです。



3.「罪深いアラブハムの現実:義人にして同時に罪人」


 事実、どこまでも、祝福もそのアブラハムとサラの歩みも、彼らの行いや完全さのゆえでもなければ、彼らの何らかの優れた才能や力のゆえでもなく、神のゆえ、恵みのゆえであることの事実を、この後に、モーセははっきりと記録しています。


「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか。」17節


 このサラを通して男の子が与えられるという約束を聞いた時に、サラが笑ったという場面はよく知られていますが、アブラハムもそれを聞いた時、笑ったのでした。その笑いが、喜びのあまりに信じられず笑ったのか、あるいは「まさか」という思いで笑ったのかはわかりませんが、彼は神の素晴らしい約束を、信じられませんでした。心の中で呟くのです。


A,「笑い、そして疑う」

「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか。」

 と。その言葉を聞いた時に、信じることができませんでした。アブラハムは、信仰の父という名称で呼ばれ、彼は完全な信仰で、欠点のない模範的な偉大な父というようなイメージを抱きやすいのですが、実際は、彼も人間であり、私たちと変わらない罪人であり、神の約束を神から直接聞いても、信じられないことがあったのでした。クリスチャンであっても、やはり「義人であり同時に罪人」であるのですから、信仰と不信仰は同時に存在するのです。事実、先ほど述べました。復活の後、皆が、死からよみがえったイエス様に会ってともに過ごしていて、先ほどの宣教の命令で遣わすためにともに山を登っている場面ですが、そんな時でさえも弟子達のことが書かれています。こうあります。


「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」マタイ28章16〜17節


この時でさえ、弟子達の中には疑いもあったのでした。また、子供が悪霊に取り憑かれ、イエスに助けを求めにきた父のこの叫びを思い出すことができます。イエスに「できるものなら」、我が子を助けて欲しいと訴えたのに対して、イエスが「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と言ったのに対して、その父はこう叫んでいます。


B,「信じます。不信仰な私をお助けください。」

「するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」マルコ9章24節


 そう、この叫びこそが、罪深い人間の現実、クリスチャンにもある日々の現実です。「信じます。不信仰な私をお助けください。」ー私たちは「信じます」と告白します。「信じます」と祈ります。事実、信じています。しかし、同時に、疑いも起こる。「信じられない」ということも起こる。不信仰な日々。その事を日々、気づかされる毎日です。自分は信仰も行いも完璧だ、欠点も悪いところもない。と自信を持って言えるクリスチャンはいないでしょう。あるいは、完璧ではなくともそんなに悪くはない、むしろ良い方であるとでも言いたい人はいるかもしれませんが、そう言い切れる人がいるなら、その人は、何より自分が見えていない盲目の状態にあると言えるでしょう。信仰と不信仰は同時に存在します。私たちは自分たちの不信仰さをいつでも気付かされ、そして、私たちも叫び祈るのではないでしょうか?「信じます。不信仰な私をお助けください。」と。アブラハムも同じ人間、罪びとであったのでした。事実、アブラハムの心の中の声は、人の前、人の視点や常識では、その通りです。


「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか。」


C,「「合理的、常識、納得」の誘惑」

 そう、100歳のものに子供なんか生まれない。90歳のサラに子を産むことができない。それが、今もそうですが、当時の常識であり、それが理性的で合理的なことでした。同じ理由でサラも笑います。そのように常識や合理性に照らしてみれば、信じられず、アブラハムの続く神への回答もある意味、人の前では最もな回答です。


「そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」18節


 アブラハムは前回も同じように、子孫が与えられると約束された時に、相続人は、奴隷のエリエゼルのことを示しました。またサラは、アブラハムへの約束の子孫は、自分ではないと勝手に解釈し、神がなさる事を待てず、自分が勝手に行動をし、女奴隷のハガルを通じて、子を持つ事を進めてしまいました。そこにはそれに同意したアブラハムも当然いたわけです。そのように、信じられない夫婦の歴史でもあったわけですが、ここでも、アブラハムは、その神からの今まさに語られた約束を、勝手に解釈し、勝手に決めつけ、その神の約束を自分の常識や願いにあてはめて答えるのです。


「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」


 と。もちろん、イシュマエルは自分の血筋として生まれた大事な子ですし、可愛い愛する子供です。ですから、信じられないような神の約束に比べれば、このように自分の血を引く愛する我が子が、その約束を受け継いていくようにと言いたい気持ちもわかりますし、実に、目の前の現実から判断すればその方が合理的であり、人にとっては納得のいく未来であった事でしょう。しかし、それは明らかに、神は「サラから」と言っている、非現実な約束、それを信じれない現実を打ち消すかのように、自分の願望、自分の思い描く未来、自分の期待するビジョンなどなどに、神の約束を無理やり当てはめてしまっているのでした。それは、人の前では敬虔そうにみえ、信仰的に見えても、自分の願望や期待が中心になって神の栄光を表そうとしている、栄光の神学に他なりません。つまり神中心の真の信仰ではないのでした。しかしそれがアブラハムの罪深い現実であるという事です。



4.「罪深いものにこそ主は変わらず語りかける」


 しかし、神は、そのようなアブラハムの罪深い心、罪深い発言を全てご存知で、全て受け止めて、どこまでもみ言葉で教えてくださいますね。あなたの期待する、あなたの願う、あなたが予想し計算できる、その通りではないと。


A,「イサクの約束:悔い改めと恵みの名」


「すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」19節


 と。神の約束と計画は、変わりません。一貫しています。妻サラから男の子が生まれるのだと。しかもサラに具体的なのは、その名前さえ神は決めて与えてくださっています。イサクと名付けなさいと。イサクの意味は「彼は笑う」という意味がありますが、アブラハムのみならずサラも神の約束を聞いて信じることができず笑う事をも含めて、その事実を映し出すように、神はイサクという名前を与えたのでした。それは、喜びの約束と信じなかった笑いと、まさに神の完全な恵みと同時に人間のどこまでも罪深い現実を描き出した一語です。その名は、アブラハムとサラにとっては、まさに律法と福音。悔い改めと恵みの名でもあると言えるでしょう。そして、神はここでも「永遠の契約」と言っています。そう、それは血筋の約束のみならず、何よりもイエス・キリストにおいてこそ成就する救いと神の国の約束であったという事なのでした。


B,「福音の逆説:知恵やしるしを求める者には愚かで躓きでも」

 神は、イシュマエルのことも蔑ろにしません。彼もアブラハムのゆえに祝福を受け、彼の子孫も増やし、大いなる国民になるのだと約束してくださったのでした。そして、


「しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」21節


 神は、イサクの誕生の時期までも約束してくださいました。「来年の今頃」と。感謝です。神であるイエス・キリストの約束、神み言葉、その福音は、私たちの思いや理性、願いや期待を遥かに超えたものです。人の力や理性では信じることができないものであり、信じさせるようにすることもできないものです。イエスのなそうとすることは、誰もが納得できるものではありませんでした。事実、多くの人々は理解できず、期待外れだと離れていきました。むしろ自分には何もない、自分はどこまでも罪深い、神よただ憐んでください、と叫ぶしかない。ただ子供のように受けるしかない、そのような人々にとっては、納得云々に関わらずに、そのまま神の国とその救いの恵みがその人のものになりました。これもまた福音の逆説です。知恵やしるしを求める、まさに理性的で、常識的で、自分の正しさや行いにも自信があり、救いのために少しでも貢献できるように思って熱心な人にとっては、福音は、納得できない、理解できない、躓きであり、愚かな教えとして受け取られました。そう、自分中心の視点、人間の合理性や、自分の正しさに基づいて、神の栄光を測ろう、見ようとする人には、真の福音は見えない。神の恵みは見えない。隠されているのです。しかし、そのような知恵やしるしを超えて、人の前には愚かで躓きであることにこそ、神は、ご自身を現されるでしょう。飼い葉桶の中に、ガリラヤの大工の子に、罪人の友に、ロバの背に、そして、十字架の上にです。それは人の前には愚かで躓きであっても、神はそこにこそご自身を明らかさにされ、そして、それが本当に素晴らしい福音である事を知らせてくれたのは、イエス・キリストご自身であり、その言葉であり、その福音であり、その聖霊ではありませんか。信じられないアブラハムがイサクの誕生に、悔い改めて、恵に改めて立ち返らされます。そのようにしてまた少しずつ、神の恵みのうちに成長させられていきます。そして、信じることができなかった弟子達も、聖霊によって福音が明らかにされ、律法を動機にしてではない、どこまでも福音を動機にして、礼拝し、聖餐を受け、そこに平安と喜びのうちに彼らはクリスチャンとして日々、生きることによって証し人になったのです。彼らが自らなったではない。聖霊とみ言葉が、彼らに働き、彼らを用い、彼らをそうしてくださったのです。私たちも「義人であり同時に罪人」であり、「信じます。不信仰な私を助けてください」の日々ですが、そんな私たちにイエス様は今日も律法と福音を語りかけ、律法によって悔い改めを起こさせ、そして、悔いる私たちに、私たちが信じるように、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と語ってくださっています。福音のうちに今日も遣わされ、安心してここから出ていこうではありませんか。





<創世記 17章15〜27節>


15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと

  呼んではならない。その名はサラとなるからだ。

16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。

  わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来

  る。」

17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれ

  ようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きな

  がらえますように。」

19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなた

  はその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫

  のために永遠の契約とする。

20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、

  彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼

  を大いなる国民としよう。

21 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」

22 神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。

23 そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、

  アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、

  その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。

24 アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。

25 その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。

26 アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。

27 彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、

  彼といっしょに割礼を受けた。