2021年11月7日


「信仰による真の服従」
創世記17章9〜14節

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1、「前回」

 神は、アブラムに契約とともにアブラハムという新しい名前を与え、そして、その名前の意味である「多くの国民の父」というその意味の通りに神は、「わたしが、あなたを多くの国民の父とする」と言い、その契約は「あなたがしなさい」という律法の契約ではなく、「わたしがする」という一方的な恵みの契約、つまり福音の約束であることを見てきました。しかも、それはただ血筋による地上の民族や国のことだけを言っているのではなく、「永遠の」ものであることを神は指し示したのでした。それは霊的な天からの賜物を示しており、イエス・キリストとその十字架と復活において実現する約束であり、そのキリストとそのキリストの福音から生まれるクリスチャンによるキリストの真の教会、見えない一つの真のキリスト教会を示し約束しているものなのだと、教えられたのでした。
 さて、そのように契約を語った神は、ここで、再びアブラハムに語りかけ、割礼の命令を与えるのです。


2、「恵みへの信仰の「しるし」としての「割礼」」

「ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」

A,「「しるし」そのものではなく「約束の言葉」の大切さ」
 ここで、神は新たに、守るべき契約として、割礼を命じるのです。それはすべての男性に包皮の肉を切り捨て、そして、12節にありますように、生まれたばかりの子供も8日目に、そして、家で生まれ僕や、外国からの奴隷なども、みな、この割礼を施すようにと神は命じたのでした。これは神からアブラハムとその子孫への命令として与えられていますが、割礼そのものは、11節にありますように、神からの信仰の目に見えるしるしとして与えられているものです。何のしるしであるのかというと、まさにこれまで見てきました、神が、アブラハムを多くの国民の父とし、神がそれを実現し祝福する、という神の一方的な恵み、そして永遠の約束を信じる信仰のゆえの、一つのしるしであるということです。つまり、しるしそのもの、そのしるしを行うことそのものに、重要性や、神の約束が実現されるということではなく、しるしは、その目に見えるものよりも、さらに大きなものを指し示しているのであり、つまり、その指し示すものは、これまで神が約束してくださっていた、神の恵みの約束、神が果たし実現するという永遠の契約であり、その契約が、まさに神からの恵みであり、その契約が恵みであることを信じる、心に刻むためのしるしであるということに他なりません。アブラハムの子孫であるヘブル人の男性は、このしるしに神がアブラハムに約束された恵みと神がそれを実現してくださるということ見ていたのでした。つまり、神は確かに割礼を命令しているのですが、その命令そのもの、体の肉を単に切り捨てる行いや儀式が大切だと、言っているのではなく、どこまでもそのしるしにある神の言葉である約束こそがしるしの指し示すものであり、しるしを信じるとか、しるしに依存するとかではなく、どこまでも神の言葉、神の約束を信じる信仰こそが、この割礼の命令、そしてそれを行うことにおいて、重要であるということなのです。事実、モーセは民に言っているでしょう。

B,「「行い」ではなく、信仰」」
「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわいものであってはならない。」申命記10章16節
 肉の包皮ではなく、心の包皮を切り捨てよと言っていますし、エレミヤ9章にもこのような言葉があります。
「見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。26 エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」エレミヤ9章25節
 割礼はあくまでも神の恵みの約束のしるしであり、そのしるしの指し示す、神とその恵みの約束であるみ言葉、そしてそのみ言葉を信じる信仰が大事であることを、モーセも預言者も教えていたのでした。しかし、モーセもエレミヤも記しているということは、すでに、モーセの時代から、そのように信仰なしに、ただその割礼、しるしだけを誇ったり、しるし、割礼によって義と認められるという間違った慣わしや教えがあったということですし、それは、エレミヤの時代も預言者にとっては、深刻な問題であったということでしょう。そして、それは、新約聖書においてもそうでしょう。ユダヤ教徒になるためには、割礼せずになるということは出来ませんでしたし、そして、それはイエス様の復活の後、教会が始まってからも、キリスト教会の中で、救われるために信仰だけでは十分ではなく、割礼が必要なんだと主張が出てきました。

C,「しるし」強調の間違った教え(他の福音)」ガラテヤ書から
 パウロは、とりわけ、ガラテヤ人へ手紙でそれを痛烈に批判し、否定しています。その手紙の書き出しの1章では、こうあります。
「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」ガラテヤ1章6?8節
 この「ほかの福音」とか「福音に反すること」とあるのが、俗にいう、キリスト教内の割礼派と呼ばれる人々の、救いのためには、信仰だけでは十分ではなく、行い、何より「割礼を受けること」が必要であるという教えであったのでした。もちろん割礼は、神のユダヤ人への命令であり、ユダヤ人であるイエス様もパウロも受けたわけであり、それ自体が悪いものではなく、それは神の恵みの約束の「しるし」です。しかし、「しるし」そのものが、約束でもみ言葉でも、救いや祝福を与えるのでは決してありません。何度も言うように、それはどこまで、神の言葉であり、約束であり、主ご自身であり、それを信じる信仰に他なりません。しかし、そのようにアブラハムに本当の意味を教えられ、モーセや預言者に教えられてきたその子孫でさえも、そこから何度でも逸れてしまうのです。キリスト教会でさえも、それはその逸脱、間違いは起り、そして教会の中で、その間違った教えの方が多くの人の人気や支持を集めさせしてしまいました。それによって人々は混乱し、その間違った教え、つまり、信仰だけでなく、律法による義、割礼による義が、必要だと言う教えを信じる人は、そうではないと言う人に割礼を義務だ、必要だと、受けなければいけない、と強いるようにもなりました。そうなると、もう、どこにも恵み、祝福、救いの確信も平安もないです。確信も平安もないのですから、霊の自由もありません。なぜなら、真の確信、平安、自由を与えることができるキリストと唯一の真の福音が、失われているからです。別の福音である「律法による義、行いによる義」と、キリストにある信仰義認は相入れません。矛盾します。ですから、律法による義、行いによる義が教会に入り込むことによって失われる最大の犠牲は、イエス・キリストであり、信仰による義であり、私たちの確信、平安、自由なのです。パウロは、ガラテヤ5章1〜6でこう教えています。
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。 よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」ガラテヤ5章1〜6


3、「愛によって働く信仰と信仰による真の行い:福音から生まれる真の服従」

A, 「恵みの約束があるからこそ喜んで従うアブラハム」
 割礼は神がアブラハムとその子孫である民に、これまで見てきた、神からの素晴らしい恵みの約束、アブラハムから大いなる国民が生まれると言う永遠の契約、「人が」ではなく「神が」なすと言う恵みの契約を、つまり神の恵みを覚え、神の恵みを受けいれ、神の恵みを信じ告白するための印として与えてくれたものです。つまり、その素晴らしい恵みの約束が語られた「後に」、この割礼の命令が来ていることから分かる通り、その命令、その律法も、神と神の約束、言葉が先にあり、その恵みと約束、福音を覚えてこそ、その福音から生まれる信仰によって、福音によって促され、福音を動機にしてこそ、感謝し喜んで従っていくものとして、与えられています。事実、アブラハムは、最初に約束と恵みがあり、つまり律法ではなく、福音に促されているからこそ、信仰と、感謝と喜びを持って、割礼を行って行ったことでしょう。そう、だからこそ、神の言葉の預言者達は、心に割礼を受けることこそ、真の割礼であることを教えてきました。そのように福音から生まれる信仰によって、喜んで、神の言葉に従っていくことに、まさにパウロがいう「愛によって働く信仰」があったのは、旧約の時代も変わらなかったのです。


B,「信仰義認は、真の服従と良い行いを強調する」
 これは私たちも同じなのです。もちろん、割礼はユダヤ人へ与えられた一つのしるしでありますから、私たちは受けません。しかし、このことは、律法と福音、そして、私たちにとっての律法、良い行い、愛ということにおいては、全く同じことを教えているのです。律法、つまり十戒は、人類のための、とても大事な神の御心であり、神が私たちの幸福のために与えてくださっている御心であり、私たちが服従していくべき、神の命令、神の言葉です。それはクリスチャンになってもそうです。ですから、ルターも小教理問答書を通して、何度も繰り返し、十戒を教えましたし、彼自身も死ぬまで、聖書の生徒として、小教理問答書から十戒を学びました。もちろん、律法は、私たちを救いません。どんなに立派な行いであり、人の前でどれだけ尊敬されるような行いや振る舞いであっても、行いによって救われると言うことは決してありません。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、そのキリストの義のゆえに義と認められます。そして、その信仰さえも律法ではなく、福音によって与えられる神の賜物なのです。だからと言って、人々は間違いやすいのですが、服従は重要ではないと言うことではありません。多くのルター以後の、ルターは物足りないと言う改革者達やその流れにある教派は、ルターは信仰義認を強調しすぎるから、服従や良い行いを軽んじているのだと批判しました。しかしそんなことはないことは以前も伝えたでしょう。むしろルターは服従も良い行いも強調しました。しかし強調したのは、そのような後のルターから別れた改革者やその流れの人々が強調するような、律法を動機とし律法から遣わされる服従や良い行いのことではなく、そうまさに今日のところ、福音によって促され、福音を動機にして、福音から生まれる信仰によって、感謝と喜び、平安と自由で、神の言葉に従っていくこと、まさにパウロがいう「愛によって働く信仰」であり、福音と信仰から生まれる真の良い行い、真の服従であったのでした。

C,「クリスチャン生活の動機は、律法ではなく、福音」
 私たちも同じなのです。多くのなすべきこと、神の御心、十戒の命令があります。大事です。誰も大事ではないとは思っていません。しかし福音によって日々新しいクリスチャンにとって、もっと大事なのは、何を動機にしているかであり、信仰による自由な服従かどうかです。律法は決して福音も自由も真の服従も与えません。パウロは「信仰から出ていないことは、みな罪です。」(14:23)とさえ言います。福音こそ信仰を与え、強め、平安と自由をもたらし、信仰による真の良い行いを生じさせるのです。福音こそが私たちの動機なのです。その福音を受けることから、そのことはすべて始まっていくのです。


4、「聖餐のしるし:大事なのしるしではなくキリストの約束のみ言葉」

 今日、私たちはみ言葉を通して福音を受けていますが、アウグスティヌスは目に見える福音とも言いましたが、このように聖餐も供えられています。聖餐のパンとぶどうも、それ自体は、イエス様が定めてくださり、するように命じてくださっている、まさに「しるし」です。しかし同じようにその「しるし」自体には、何の力でもありません。パンとぶどうが救いや新しいいのちを与えるのではありません。このしるしを定め、命じているそのイエスの言葉、そこにあるイエスの「これはわたしのからだです」「わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」とイエスが約束してくださるからこそ、その御言葉、その約束のゆえに、その御言葉がしるしに結びつくことによって、それはイエスのからだであり、血であり、私たちは、み言葉の結びつたパンとぶどうを受けることによって、イエス様のからだと血を、象徴としてではない、それを「事実」受け、イエスの罪の赦しと新しいいのちに与るのです。決してこれは象徴でもない。ただ覚えて、私たち自身が自分の意思の力で決意を立てるとか信仰を強めるとか、そのようにして自分の義を立てていくとか、何らかの「神のための」行いのための律法の時ではない。それだと、割礼のよる義と変わりません。そうではありません。私たちは、今日も示されるままに罪を悔い改め、そんな砕かれた悔いた心にこそ、イエスは今日もこのしるし、何よるそこにある約束の言葉によって今日も事実としてイエスのからだと血を与えてくださる、福音を与えてくださるのです。受けましょう。信じて受けましょう。そして、福音によって心といのちを新たにされ、平安と自由に満たされ、喜びと感謝を持ってここから遣わされていきましょう。その時、主は私たちを真の良い行い、真の服従をさえ、豊かに用いてくださるのです。




<創世記 17章9〜14節>

9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、
  代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。
10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがた
  が守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。
11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間
  の契約のしるしである。
12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければなら
  ない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。
13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければな
  らない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならな
  い。
14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなけ
  ればならない。わたしの契約を破ったのである。」"