2021年10月31日


「永遠の契約」
創世記17章4〜8節

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1.「前回


 前回は、イシュマエルが生まれから13年後の99歳になったアブラムに、主なる神が現れて語り約束された契約の初めの言葉を見てきました。契約と言っても、その契約は、私達が連想するようなある条件を行ったらその益を受けると言うような相互契約ではなく、主なる神からの一方的な恵みとしての契約のことでした。しかも主は、同じ契約を何度でも繰り返し語ることによって、罪深く何度でも忘れやすい「義人であり同時に罪人」である信仰者にその約束を何度でも思い起こさせ、神がその信仰を強めてくださる、神の憐みと恵みが主の契約にはありました。さらには、そこには主が与える「新しさ」もあり、主はアブラムに「アブラハム」という新しい名前を与えました。その名前は「多くの国民の父」という意味であり、主の約束そのものを表しているのですが、大事な点は、4節の「わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」という言葉でした。神は契約で「あなたがなりなさい」という律法を伝えたのではなく、「わたしが〜する」という福音を与えてくださったのであり、信仰者、つまりクリスチャンは、そのように主の恵みの契約において、主ご自身が「わたしが〜する」という福音においてこそ、全ての新しさが始まり、福音においてこそ、日々新しくされ、事実、主ご自身が全ての約束を実現してくださるのであり、そこに私達に与えられている福音の真の素晴らしさ、真髄があるのだということを見てきたのでした。



2.「あなたの子孫」


「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」6節


A,「血筋の子孫」

 主なる神はこれまでと同じように、アブラハムの子孫を増し加え、多くの国々とその王が彼から出てくるのだと伝えます。事実、すでにイシュマエルが生まれ、彼からも子孫と多くの国々ができていくのですが、何よりもこの後、イサクが生まれ、イサクからエサウとヤコブが生まれ、エサウにも多くの子孫ができ国々ができていくでしょうし、そして、約束の血筋であるヤコブにも12人部族の父となる子供達が生まれます。ヤコブの子達は飢饉の間、エジプトへ保護され、そこでその数は大きく増え、まさに一つの民となっていきます。その数の大きさゆえにエジプトでは奴隷にされますが、主がモーセを用いて民に御言葉を語ることによってエジプトから脱出させ、やがて、彼らはイスラエルという国になり、王が立てられるのです。そうその通り、この6節の神の言葉には、そのような血筋としての子孫と国民と王たちのことももちろん示している部分はあると言えるでしょう。8節でも、主は具体的な土地を与えるとも言っているのですから。しかしそれと同時に、主のなさること、主の計画というのは、実は、そのことよりも私たちの思いをはるかに超えた、私たち人間には計り知れない、それ以上の完全な約束であると言えるのです。


B,「永遠:永遠ではないもの」

「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」7節

 「子孫との間に」といい、「子孫の神となる」と言い、代々にわたる契約を立てるとありますが、そこに「永遠の」という言葉があります。8節でも土地のことを言っていますが、「永遠の所有」と書かれています。この「永遠」という言葉は大事な言葉です。なぜなら、その言葉こそ、人間の理性や思いを超えている神の事実を示しているし、人間から永遠なるものは全く生まれ得ないからです。事実、血筋の子孫は、言葉の通り、おびただしく増えていき、国ができ、王が生まれ、繁栄はしていきます。しかし、その地上の政治的な国は、決して永遠ではありません。イスラエルは、確かに繁栄し、ソロモン時代には最高潮になり、素晴らしい神殿も完成します。しかしその国の堕落も同じソロモンから始まり、国は分裂し、捕囚され、神殿も崩壊します。もちろん国自体はイエス様の時代もあり、ローマの属国として存在しました。その後も、世界各国に散らされ、迫害も乗り越えつつ、再びイスラエルという国家は、近代的な独立国家として確立されています。しかし、そのような地上の国や国民は、それでも永遠ではありません。それはイスラエルに限らない現実であり、エジプトのパロの王国も、ローマ帝国も崩壊しました。もちろんその民族は政治形態を変えては、国や民族を存続はさせてきています。しかし、それは現代の国家においても、民族においても、どんなにその政治が変わっても、目に見えるものに、永遠なるものは決してありません。はじめがあれば終わりが必ずあるのです。イエスも言われているでしょう。素晴らしい宮を指差す弟子たちに、イエスは「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マタイ24章2節)と言いました。並行箇所であるマルコの13章1節では「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」とあり、2 節、「すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マルコ13章12節)と書かれています。もちろんそれは神殿のことを言ってはいます。しかし文脈を見ると、イエスは、世の終わりのことを言っていることがわかります。立派な神殿が崩れる真理は、どんな繁栄し強力な民族でも国家でも、目に見える者には、終わりがあり、世の終わりが来るというこです。事実、何より私達一人一人は、皆、永遠ではなく、死んで朽ちて、ちりに帰るものです。ですから、主なる神がアブラハムに与えた契約において、「永遠の契約」とか「永遠の所有」という言葉を使っているのは、私たちが思ったり計画したり判断したりする以上の意味と計画があるということなのです。



3.「永遠の契約:イエス・キリストとその教会」


 では、その私達の思いを遥かに超えた神様の恵みの計画と契約は、地上の政治的な王国ではないとするなら、一体どこに実現しているでしょう。まさにその実現こそが、永遠の昔から存在し(ヨハネ1章)、人間が堕落したその日から、「女の子孫」が悪魔の頭を砕くと約束され(3章15節)、そして、イザヤが、「誰が信じたか」というほどに私たちの思いを超えて実現する「見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない、?さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知ってい」て「人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53章13節)その人、イエス・キリストとそのからだである信じるものの集まりである教会を神は指し示しているに他なりません。イエスは事実、世の人々が期待した、ローマ帝国からの政治的革命的な独立や政治的な王国の実現をむしろ否定し、イザヤ53章の預言の通りに、黙って十字架を背負いすべての国々の人々の罪の赦しと永遠のいのちのためにと死なれます。そして約束した通りに復活された時に、あの堕落の時の神の救いの約束、アブラハムに語った「あらゆる国の人々へ」の永遠の契約の成就を告げるように、その宣教の派遣の言葉で弟子たちに言っているでしょう。


A,「イエス・キリストにおいて成就:恵みにある派遣の言葉(福音として)」

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28章1920節

 まさに「あらゆる国の人々」を弟子としなさいと言います。つまりイスラエルに限らず、あらゆる国の人々に、キリストの福音を伝え、信じるものに父子聖霊の御名によって洗礼を授けて、弟子とするようにとイエスは言い、派遣しているでしょう。このように神の御子である救い主イエスも、その霊である聖霊も、神の言葉の完全な解説者であり説教者として、まさに旧約でアブラハムやその子孫に語られた「永遠の契約」と呼ばれるものを、ここで明らかにしているのです。どんな国も民族も除外されない、あらゆる国の人々のうちに、福音によってキリスト者とキリストの教会が生まれる。それが「永遠の民」「永遠の所有」なのだと。


B,「イエス・キリストにおいて成就:目に見えない真のキリストの教会」

 そして、それがただ目に見えるクリスチャン、その目に見える教会、建物、目に見える集まりのことだけを指して言っているものではないこともわかるのではないでしょうか。そのような目に見えるものは、大いにして民族や文化、人間的な伝統や歴史に縛られた、まさに目に見える根拠や結び付きであることが多いです。教理などをあまり強調しない教団教派などはそのような場合が多いですし、事実、決まっていなくても慣習的に、黒人だけ集まる教会とか、日本人教会、中華教会など、同じ人種、同じ国民が集まる教会などなどもあれば、同じ民族が集まる教会もありますし、アメリカなどは、同じ国から移民した人々などが教会を形成してきた歴史が沢山あるあります。しかし、それらももちろん、キリストを指し示し、福音を正しく語っているならキリスト教会であるのは変わりないのですが、しかしそのような文化とか伝統とか、歴史とか、慣習とか、ただ単に人間的に気が合うとか、価値観が同じだとか、人間的な交わりなど、目に見えるものが教会を規定したり定義するのでは決してありませんし、あってはいけませんし、教会にとって中心でも最も大事なものでもありませんね。弟子を弟子たらしめ、クリスチャンをクリスチャンたらしめ、教会を教会たらしめ、結び付けるものは、それらではないということです。事実、それらは神が言われた「永遠」なるものではありません。それらは、やはり朽ちゆく不完全なそして罪深さを伴うものでもあります。しかし、ここでの幸いな平安なイエス様の派遣の言葉は大事な神の恵みを示して言っているでしょう。


a)「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」

 と。そう弟子を弟子たらしめ、クリスチャンをクリスチャンたらしめ、教会を教会たらしめ、結び付けるものどこまでも「父、子、聖霊の御名によるバプテスマ」であるということだとわかるでしょう。しかもその洗礼も、ただ人の力や行いのわざ、牧師の能力によるわざではなく、はっきりとイエス様は「父、子、聖霊の御名による」と言っているでしょう。それは、父子聖霊のわざとして、つまり、キリストが授け、キリストがその救いの恵みと聖霊を与える洗礼だと言っているのです。しかも、先ほども言いましたように、それは、弟子達を通して証され説教されるイエスの福音の言葉によって、イエスは私の救い主であると信仰とその告白を与えられた者に施すものです。そのように

「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」

というイエスの言葉は、まさに神が遥か昔から約束してきた、永遠の契約、永遠の所有、真のアブラハムの子孫は、イエス・キリストご自身とその福音によって、生まれるキリスト者とその集まり、教会であることにつながってくるのです。


b)「主は「永遠」を指し示す」

 そして、大事な言葉、それは「永遠」です。それは目に見える物質的なことを言っているのではないことがわかります。どこまでも霊的なものを指して言っているのであり、永遠なるものは目に見えるものや私たち自身にはないのですから、それは神から賜る贈り物としての、聖霊と信仰のことを神は意味し指し示していると言えるでしょう。アブラハムに語った主も永遠なる約束を見ていたし、主なるイエスも、永遠なるものを示し、約束し、神は与えてくださったとしています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節

 と。これに限らず、沢山のところでイエスは、もちろん、福音にあって生きる地上のいのちの素晴らしさと平安も教えていますが、地上の目に見える物事だけに栄光や目的を指し示すのではなくて、それ以上に、どこまでも、永遠のいのち、永遠の御国を指し示し、見るように教えたことは随所に書かれています。


c)「キリストにおいて地と永遠はつながる」

 しかもその地上のことと永遠なるものは別々の出来事ではなく、福音と福音による恵みの信仰においてこそ、私たちは永遠なるキリストと共にあり、永遠なるキリストを着ているのであり、永遠なるキリストにあっては、地上にあっても、同時に、もう私たちは永遠の中にも生かされている者でもあります。そのように地上と永遠の天を結びつけるものも、私たちの行いとか力によるものではないし、価値観とか、文化とか伝統とか、地上の何かにその原因があるのでも決してない。どこまでもイエス・キリストであり、そのキリストの福音、そしてそのキリストの福音と聖霊によって生まれる信仰であるということなのです。


d)「わたしは聖なる公同の教会を信じます」

 神はアブラハムにも、そして私達にも、永遠なるものを約束され、永遠なるものを事実、与えてくださっていますし、それこそが、私たちを永遠たらしめ、クリスチャンたらしめ、教会たらしめています。それはどこまでもキリストご自身とその福音であり、そのイエス様が福音によって私たちに賜物として与えてくださっている信仰です。そのキリストと福音にあって、そして信仰においてこそ、真の教会は、あらゆる国を超えて、民族を超えて、文化や伝統、あらゆる人間的な事柄を超えて、一つであり、一つのからだ、私たち個々の教会、個々のクリスチャンは、その見えない一つの真の教会の、一部なのです。世界の多くの教会は、大事なところが逆になり、目に見える、文化的なこと、人間的なことや、人間の行いや誇りや目に見える現象などの方を大事にしたり中心にしたりして、目に見えない真の教会のことを脇に置いたり、忘れたり、信じなかったりするものでです。しかしどの教会も、正統的な教会だという教会は、「わたしは聖なる公同の教会を信じます」と使徒信条を告白しているはずです。それは初代教会から変わらず告白されてきたこと、中心、大事なのは、どこまでもその見えない真の教会であり、そのキリストとその福音、それを信じる信仰において、場所も時間も超えて一つであることにあって、そこに私たちの個々の教会もあり、私たち一人一人もある。地上と永遠、地上と神の国は、このようにキリストにあってつながっているという真の信仰なのです。パウロは言っています。

「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」ガラテヤ3章7節

「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。」ピリピ3章1820節



4.「結び」


 このように、私達はキリストにあってこそ、永遠の約束に与っている。神がアブラハムに約束された約束は、キリストにあってこそ、私たちにも成就し、国籍は天にあると告白でき、そのように喜ぶこと、確信すること、安心することができるのです。私たちの行いや地上の何かではない、どこまでも全知全能の永遠の神である、イエス・キリストのゆえなのです。今日もその永遠の神であるイエスが、十字架のゆえに私たちに「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と宣言してくださっています。安心していきましょう。





<創世記 17章4〜8節>


4「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。

5あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。

 わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。

6わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。

  あなたから、王たちが出て来よう。

7わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫

  との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の

  子孫の神となるためである。

8わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後の

  あなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」