2021年10月17日


「主の前を歩む全き者とは」
創世記17章1〜3節

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1.「それから13年

 ハガルがその主の言葉を信じ従いサライのところに戻り、男の子イシュマエルを生んだ時、アブラムは86歳であったと結ばれていました。今日のところはそれから13年の長い時間が流れ、アブラムが99歳になったときの記録になります。
「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」1節

A,「約束があっても」
 イシュマエルの誕生から13年経った、アブラムが99歳になった時に、主はアブラムに現れ語りかけるのです。しかしこの長い年月が流れての13年後に主が語りかけられた理由を知るためにも、この何も書かれていない13年は意味深いです。なぜなら、主が15章で語った、アブラムに星の数ほどの子孫を与えると言う約束は、妻サライのハガルを通して子を持つと言う提案よりも「前」であるのですから、13年以上前になります。その時、主は素晴らしい約束を与えてくださったのですが、しかし、それは直ぐになるのではなく、その後、人の目から見れば、あまりにも長く、その時間は、神はその約束のために沈黙されているかのようにさえ思われる年月になります。その約束からどれほど経ったのかは書かれていませんが、16章で見てきたように、サライは、直ぐにならないいつだかわからないその主の約束を、主に信頼して待つことができず、主の約束を勝手に解釈して、奴隷のハガルを通じて子孫を持つことを提案し、事実それを実行したのでした。それによって、ハガル、サライ、アブラムそれぞれの罪深さが浮き彫りになり、ハガルは逃げ、そして主の言葉によってサライのところへ戻るということを通りながらも、イシュマエルが誕生し、13年の経過です。

B,「平穏」
 ルターが創世記講解で少し触れていますが、その13年、紆余曲折がありながらも、アブラムの子供が与えられ、アブラムはもちろん、実の母だけでなく、奴隷によって子を持ったサライもそのことを喜び、イシュマエルを子として可愛がり、そして、「サライのもとで身を低くしていた」ハガルとの関係も次第に回復されたことでしょう。そのような13年は、ある意味、人間的にみれば、あまり大きな問題や試練もない平穏な期間であったことでしょう。イシュマエルも族長アブラムの子として健やかに成長し大きくなって行きます。アブラムやサライのその子への愛情も当然、強くなり、その状態は人間的にみれば平和であり、そして何よりその状態は、人の目から見れば、あたかも、そのイシュマエルこそが、主が約束されたアブラムの子であり世継ぎなのだと、彼らに思えてきてもおかしくありません。もう86歳から、アブラムもサライも、年々、歳をとって行きます。「さらに子供が自分たちから」などとはますます思えなくなり、イシュマエルの成長を見れば見るほど、これが主が約束されたことの成就なのだと思えてもくることでしょう。そのように、人の目には、平穏で神の約束がなっているように見える祝福の13年のように見えて、しかしそれは、実は、神の前では、アブラムとサライにとって誘惑と試みの13年でもあったとも言えるのではないでしょうか。

C,「悪魔の誘惑は、平穏な中にも」
 これまでも自分とサライの年齢やサライが不妊と言う現実と、一方で、神様の約束とを比べてみても、自分たちにはあり得ないとしたからこそ、むしろ奴隷を通して、相続人を、あるいは子供を、と、真っ先に解釈してそれが合理的だと判断した二人なのですから、この平穏の13年の間に、イシュマエルこそやはり神の約束の祝福そのものなのだと思っても全くおかしくないことです。しかしこのことは教えられることですが、平穏で、何も問題もなく、事がうまく行っていると思える時こそ、人は、神と神の約束、神の恵みを忘れやすく、悪魔の誘惑に陥りやすく、そして何より「神よりも自分」、「神のみ旨みことばより、自分の判断、思い、解釈、合理性」、そして、「神の恵みよりも自分のわざ」、「神の福音より律法」になりやすいといえます。事実、ダビデは、自分が王になり権力を持ち、繁栄し、平穏な時こそ、高慢になり、誘惑に負け、バテシェバとの罪や、民の数を数え神の怒りが降る、など大きな罪を何度も犯しています。イエスの弟子達も、まさにイエスの人気が高まり、そして、イエス様のエルサレム入場が歓喜のもとで受け入れられ、自分の先生が褒め称えられ、自分達がそんな人気のある素晴らしい先生の弟子であることにこそ高慢になり、誰が一番偉いかと論じたりしていました。もちろん、大きな苦難と試練の時にも誘惑の落とし穴がありますが、じゃあその逆にはないかと言うとそんなことはないのです。平穏で何も問題もなく、うまく行っているように思うときも、いやそんな人間の目を欺きやすく陥れやすい時こそ、悪魔の格好の攻撃の時でもあるのです。だからこそ、この沈黙の13年の後に、この1節の、神の言葉があったのだと繋がってくるように思われます。


2.「99歳の時に主はアブラムに現れ」

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

A,「わたしは全能の神である:その恵みを忘れる罪人」
 いきなり現れて、いきなりすぎる言葉だと思えませんか?しかし、この13年を主はご存知であればこその言葉です。「わたしは全能の神である」と言う宣言。これはただの自分はこのような神であるという「名のり」のみのようにもちろん思えますが、しかし、「わたしにはできないことはない、不可能なことはない」ことを、思い起こさせるための言葉であるとも言えるでしょう。事実、二人とも、年老いた自分たちであり、不妊の女であるサライから子供が、子孫が、相続人が生まれる「はずがない」と決めつけていたからこそ、二人とも、奴隷を通じて、相続人を立てようとしたり、子を持とうとしたり、いや、実際に奴隷を通して子を持つことを実行したのです。つまり、それは、神の約束の完全さや真実さ、神にはできないこと、不可能なことはないと言う、その全知全能の神よりも、人間の常識、文化的慣習的なもの、物理的現実などの方を重きをおいてしまい、全能の神とその言葉、約束を信じきれなかった、あるいは忘れてしまっていた現実はあったと言うことです。そして、イシュマエルが健やかに育つ平穏な13年は、ますますその約束や神の全能さは忘れさられていたことでしょう。そのような中での、「わたしは全能の神である」なのです。私たちは神の圧倒的な言葉の力によって命を与えられ、恵みの福音の力で信じないものが信じるものへと信仰が与えられ、義ではないものが、私たちの義ではなく、その信じるキリストの義のゆえに、義と認められ、イエス・キリストの救いと平安を知りました。それらは、みな私自身では成し得ない、神の全能の力のゆえです。しかし、同じように私たち、私自身がそうなのですが、その肉にあって罪深い性質は、どこまでも悪魔の誘惑に弱く、自分を過信し、自分が神のようになったように思い、自分の行いで救いを得たかのように、救いを完成させることができるかのようになり、神の恵みと福音の圧倒的な力こそを忘れやすいのです。しかし、神は私たちにも絶えずみ言葉と約束を語り続け、私たちにも常に思い出すようにこの言葉を宣言されるのです。「わたしは全能の神である」と。

B,「わたしの前を歩み、全き者であれ」
 そして神は続けます。「あなたはわたしの前を歩み」と。この言葉の意味ですが、「歩む」という言葉(halak)は、人の人生や生き方を表していて、5章24節で「エノクは、
神とともに歩んだ」ともあります。神は、アブラムに、神であるご自身の前にあって、ご自身とともに人生を生きることを神は命じているのです。そして「わたしの前」で、「全き者であれ」と言う言葉、これはどのような意味でしょう。この「全き者」(tam)はヨブ記1章1節にも「潔白で」と言う言葉ですが用いられています。それは「完全な」と言う意味であり、傷や汚れのないいけにえの動物にも用いられ、人間に用いられるときは「誠実さ」などに用いられます。例えば、ヨシュア記24章14節「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。」が挙げられますし、士師記9章16、19節では「まことと真心をもって」と言う表現で用いられています。ですから、その全き者は、罪のない完全さを表しているのではありません。事実、ヨブも自分に罪があり、罪人であることを認めている箇所がヨブ記には、数カ所ありますし、全き者でああったノアも、そしてこのアブラムも罪深いことは表されているでしょう。ですから、「全き者であれ」は、罪がない完全なものとなれ、と言う意味ではありません。むしろ、人は、自分自身でそのような罪がない完全な者となることも、罪を完全に侵さないようになることもできません。もちろん、神にとっては大きな罪も小さな罪もなく、小さな罪だから多めに見てもらえると言うこともなく、小さな罪さえも大きいこととして忌み嫌われ、罪汚れのない完全さを求めておられます。しかし人はそれを自らでは決して完全であることはできません。むしろ神はそのような現実をご存知であるからこそ、堕落のその日からすでに「女の子孫が」(3:15)と言う救い主の約束を立ててくださいました。そして、そのアダムとエバの子孫である、ノアもアブラムも罪深い存在で、信仰が与えられ召され導かれていても、不完全な彼らに、神ご自身が働かれ、罪深さを教えることで、悔い改めに導き、そして真実な神の言葉、全能の神へますます信頼するようにと育てられてきたでしょう。そして、アブラムは、その取り扱いの中で、神の約束を信じたその信仰こそが、義と認められたとあったではありませんか。そう、神の前の、全き者、完全さ、義は、全能の神を信じることにあることこそが、これまでも見てきたみことばの証しでした。


3.「主なる神の真の意図」

 ですから、この17章1節の神の言葉、
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」1節
は、決して、神の「あなたがわたしがするより先に全てを行い、しかも罪なく完全に全てを達成しなさい」と言う律法のメッセージではないと言うことです。むしろ神は「わたしが全能の神であり、わたしの約束は真実で、全てその通りになるのだから、そしてそれはこれまでもそうであり、そのことを信じたがゆえに、あなたを既に義と認めたのだから、あなたは、これからも、わたしとともに、わたしに真心を持ってますます信頼し、歩みなさい。生きなさい。ついてきなさい」とアブラムを再び信仰に立ち上がらせる福音の言葉であったのです。この福音の言葉によってアブラムの信仰は再び強められ、詩篇119篇1節にある通り、信仰者は、神の律法に強いられてではなく「喜んで」従っていけるのです。
 事実、神はここで戒めではなく、再び契約を伝えます。
「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」2節
 この契約は、4節以下になりますが、大いなる国民とすると言うこれまでの契約、約束の繰り返しであると同時に、アブラハムという新しい名前を与える新しさも更新されて行きます。そのようにこれまでの約束を忘れていた、あるいは、信じきれていないその信仰をさらに強めるために、神は何度でも約束を語ってくださるし、そして前に進めるために、その既に立てていた計画と約束の全貌、を少しずつ、はっきりさせてくださる。それによって、再び信仰の道を進ませてくださる恵みがここにあるのです。そして注目したいのは、3節ですが、その契約を全て伝えるより先に、アブラムは3節、こうあります。


4.「律法と福音」

「アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。」3節
 アブラムは、99歳の時に突然、現れ、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」といい、「契約を立てる」と言われたその時、「ひれ伏した」
のでした。それは悔い改めを表しています。なぜですが、それはこれまでの記録されていない13年を物語っているでしょう。まさに「神の約束」「神は全能である」「約束を信じたその信仰が義とされた」そのことよりも、サライの勝手な解釈によって持った子供イシュマエル、人間的に考えれば最も合理的と思える相続人であり約束の実現と思えてくるような現実に、祝福の道を見ていたアブラムに、主は、まさに正しい道、真の祝福、神の前にあって、神とともに全能の神が約束を実現するのだと、信頼して歩むことこそが、神が教え導いてきた恵みであり神の祝福の道であることを思い起こされた、改めて気づかされた、立ち帰らされたからこそ、ひれ伏した、悔い改めたのです。
 しかし神は自分の罪に刺し通され、砕かれ、心から悔い改めるものにこそ、このように、いつでも福音を語り、与え、そしてその信仰の歩みを進ませてくださることが、ここに現されていることです。そのように神の前に、ひれ伏し、悔い改めるアブラムにこそ、神は、これまでも繰り返し語ってきた、恵みの契約、神が実現してくださる福音を語り、与えてくださり、さらには新しい名前を与え、信仰の道を進ませてくださるのです。そこは、次回見て行きますが。


5.「むすび:福音による平安な派遣」

 私たちは皆その罪の性質のゆえに、日常において、困難な時だけでなく、平穏で上手く行って全て満たされているように思える時も、どちらであっても、神の恵みを、福音にあって進むことも、私たちの核心であり力である、イエス・キリストの十字架と復活の福音そのものをも、直ぐに忘れてしまい易いものです。事実、悪魔は、堕落の時から何千年と変わることなく、今も私たちクリスチャンを誘惑し、信仰を捨てさせよう、神の恵みよりも自分のわざや人間の合理的な判断を信頼させよう、福音よりも律法を動機に行きさせようと、働いています。私たち自身にはそれに打ち勝つ力はありません。しかし、このアブラムに働いているように、私たちの神こそが、そのみことばを絶えず語りかけることによって働き、聖霊がうち勝たせてくださるのです。その律法の言葉で刺し通りし、絶えず神の前にあって、罪人である現実を教え悔い改めさせ、そこに、毎週、そして日々、何度でも、イエス・キリストの十字架と復活を指し示し、福音に立ち返らせ、福音に生かし、福音によって平安のうちに遣わしてくださる。それが信仰者、クリスチャンの恵みあふれる「主の前に歩む」新しい生き方なのです。今日もイエス様は宣言してくださいます。あなたの罪は赦されています。安心していきなさい。」と。ぜひ福音によって安心し遣わされていきましょう。





<創世記 17章1〜3節>

1アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。
 「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
2わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。
 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
3アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。