2021年10月10日


「女奴隷ハガルへの主の恵みの取り扱い」
創世記16章6〜16節

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1.「前回

 前回は、アブラムの妻サライが、神からの「あなたの子孫は大いなる国民となる」という約束がありながらも、自分勝手に約束を解釈してしまい、奴隷のハガルを通じて子供を得ることをアブラムに提案したところを見てきました。それは神に求め神に信頼し委ねる信仰の動機ではなく、罪深さから出た思いであり行動でもあったため、それは、ハガルの罪、サライ自身も妬み、怒り、いじめへと罪に繋がります。そのように、信仰者にも、常に「神を信じさせまい、信頼しないように」と働く悪魔の誘惑があり、人間はどこまでも罪深く、肉においては弱く不完全であることを改めて教えられたのです。しかし同時に、神は、アブラムをも試練や罪深さを気づかせ、日々悔い改めの中で、ますます神に信頼するように学ばせ成長させてきたように、サライにも働いておられる。信仰者は、罪深いものですが、神の恵みのうちに、ますます神に信頼するように成長させられていく、その恵みを見てきたのでした。そして、ハガルもサライも、多いことが祝福であり、少ないことや0であることが祝福でないという勝手な判断ゆえに罪を犯しましたが、しかしそうではなく、まさに子がなく0であっても、サライには神の約束ゆえの祝福があり、人間の思うようにではなく、期待できない疑うようなあり得ないような約束と、0という現実にこそ、イサクが与えられ、人の思いではなく、神の計画と約束こそがその通りになっていく。そしてそのことはイエス・キリストにこそ何より実現しているのだという素晴らしい真実さを教えられたのでした。そして今日のところでは、その神の憐れみと恵みは、女奴隷であるエジプト人ハガルにさえも及ぶことを教えられるのです。前回、サライからいじめを受け、サライの元から逃げ去った、身重のハガルですが、7節からこうあるのです。


2.「主の使いはハガルを見つけ」

「主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」」7〜8節

A,「主の使い:被造物でありメッセンジャー」
 ハガルは、荒野に逃れます。彼女はお腹に赤ちゃんがいて出産前ですから、サライのいじめから逃げたからと自由になったわけではなく、精神的にも肉体的にも、試練からさらなる試練への逃避であったことが想像できます。しかし、そんな孤独で深い失望の中、荒野に一人おかれている女奴隷ハガルを、主は決して見捨てておきません。主の使いがハガルを見つけるのです。「主の使い」というのは、旧約聖書では多く出てきて、63箇所、書かれています。その意味は、「主のメッセンジャー」であり、神のために人々へ神の言葉を伝える働きがあり、まさにメッセンジャーです。そして御使いは神の被造物です。ここに区別をしっかりとしておくことは大事です。まず、天の御使いとか、主の御使いとか、天使とかは、それは架空や空想の存在ではなく、実際として、存在して、神の言葉を伝え、人々を助けるために、働いておられるという事実です。それは旧約聖書では度々登場し、まさに神の言葉を伝えたり、信仰の人々を助けたりしますし、新約聖書でも、イエスの誕生のところなどで神の言葉をマリヤやヨセフに伝えたり、荒野やゲッセマネでイエスを支えていたり、復活の知らせを墓に見にきた女たちに伝えたりなど働いています。そして、もう一点大事な点は、御使いは被造物であるということです。つまり神によって創造された存在であり、決して神ではないし、神から与えられた力はあっても決して完全ではないということです。ですから、天使は、崇めたり、祈ったりする対象ではないということです。天使はどこまでも神に仕え、み言葉を伝えるメッセンジャーであるということなのです。私たちが崇めるのは、メッセンジャーではなく、そのメッセンジャーの指し示すそのお方、神であり御子イエス・キリストのみであるということを、基本的なこととして覚えておくことは大事なことです。

B, 「主は捨ておかず語りかける」
 その神の使いが、ハガルに目を留め語りかけるのですが、ここでもう一点大事な点があります。それは、聖書でみ使いの登場ところの多くでは、主の使いと、主は、相互に入れ替わっているかのように語りかけているのです。まさにこの後の、9、10節などはそうなのですが、10節では、「わたしが大いに増やす」とある通り、主の使いが話しているようでそれは神の言葉そのものを語っているでしょう。ですから、主の使いの語り掛けというのは、まさに「主のメッセンジャー」として、主の言葉をそのまま語り、主も御使いの口を用いてそのメッセージをそのまま語るということであり、み使いの言葉は、御使その人が語ってはいても、主の言葉を伝えているということなのです。ですから、ハガルを見つけたのは、主の使いですが、まさに主がハガルに目を留め、御使を遣わして、そしてその主の言葉を語りかけているということに他なりません。み使いはハガルに言います。
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」
 まず、主は、その名前を覚えてくださっています。そしてその名を呼ばれるのです。ハガルは、アブラムの妻サライに仕える者となって以来、族長であり祭司であるアブラムがその行く地行く地で祭壇を築き、礼拝していたことを知っていましたし、その礼拝は、アブラム のプライベートではなく、族長として祭司として、その一族へと神の恵みと約束を語りかけた礼拝でもありました。ですから、ハガルはアブラムの語る神の律法、神の恵み、神の約束を聞いてきたのです。そして、彼女にも主を信じる信仰があったとも言えるでしょう。だからこそ、彼女が奴隷であっても、惨めな思いで逃げているようなそんな立場や境遇であっても、神はそのような信仰者を決して見捨ててはおかないのです。それは感謝なことです。私たちも人間関係において、それがクリスチャンであってもなくても、互いに罪人であるのですから、様々なことがあります。クリスチャン同士なんだから、完全な人間関係で互いに罪があってはいけないと私たちは思うし、相手に求めたりもするでしょう。確かに罪はあってはいけないのですが、実際は、互いにどちらにも罪はあります。罪はないというなら、まさにヨハネがその手紙で言っているように、神の前で偽ることになります。それがたとえクリスチャン同士であっても互いに罪人でもあるし、罪はある者です。「全く罪もない完全な関係」、と、それはそうであればいいですが、神の前の現実を踏まえない理想は、ただ相手を裁くための律法になるだけです。現実は、様々なことがあるのです。サライとハガルのように、残念ながらいじめやハラスメントもあったりするのです。それが人間の現実でもあるし、教会やクリスチャンの現実でもあります。もちろん、私たちクリスチャンはそこで罪に気づかされ日々悔い改めることが大事になるのですが、しかし、その様な現実の中で経験する、試練、苦難、葛藤、孤独、悲しみを、何より知ってくださるのは、神であるということです。神は決してその様なときの苦しみをわからないのではない。いやむしろ、知ってくださり、見つけてくださり、そしてその名前を呼ぶ様に近しく、語りかけてくださるのです。それをしてくださるのは何より神であるということです。

C,「ハガルの心の思い」
 その神の言葉は、「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」とあります。もちろん神はそれは知っているのですが、あえて尋ねるのは、本人の口からの告白と応答を求めているからであり、神はその様に私たちの声や心を直接、その口から聞きたいし、み言葉と祈りを通して、会話をなされるお方であるということがここからもわかるのです。その御使を通じての神の語りかけに、ハガルはその通り、何も隠すことなく答えます。
「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
 ハガルはその通り、女主人サライのところから逃げていると、伝えます。「逃げている」のは事実ですから、偽りはありません。ただそこには、女主人がいじめという悪を行ったがゆえに自分がそこから「逃げている」という風に、サライのせいであるという彼女の思いを物語っています。自分が女主人サライを蔑んで見ていたとか、横柄であったとか、その様な彼女自身にもあった問題などは口にはしません。これは誰でもあることで、神の前でも、相手ばかり悪いと言ってしまい、自分の問題や罪などは、相手に比べれば軽いとか決めつけて、それに比べれば自分は悪くないとか正しいとしてしまったり、あるいは自分は全く悪くない、相手ばかり悪いとしてしまうことは、誰でもあることだと言えます。その様に相手に責任転嫁をすることが、堕落の時の罪の性質そのものなのですから。しかし、人間は神の前に自分を正しいと主張し出来たとしても、神の前には皆明らかなのです。9節を見るとわかるのです。ハガルは、女主人から逃げているとしか言っていないのに、天の御使は言います。

D, 「ハガルが言わないことさえも知り、道を示される神」
「そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」9節
 主の使いとして神は語りかけますが、まさにどんなことがあったのかを全てご存知であるかの様に、言っています。
「彼女のもとで身を低くしなさい」
 と。ハガルが言うより前に、ハガルが、主人であるサライには子供ができないのに、自分にはできたことに高慢になり、横柄な態度になってしまっていたことを、神は皆知っていたのです。だからこそ、ハガルに、どの様に女主人に対処するかを、伝えています。「サライのもとで身を低くする様に」と。これは「女主人の手の下に自らをおきなさい」という意味になります。適切なアドバイスです。ハガルは言わなかったにも関わらず、全てをご存知で神は、最も良い答えを与えてくださるのです。そして、神は、ハガルにサライのところに帰るよう言うのです。この後見ていくと分かる通り、ハガルは神の言われる通り、サライのところに戻りますが、このあとは、息子イシュマエルのゆえに、またもサライの怒りに触れ、追放されてしまいます。その様な試練があるのに、神はハガルに戻れという意味は何でしょうか?私たちにはこの様に、人の前で、人の価値観や常識や理性で見るなら、理解できないこと、「主よなぜ?」が時々あるのです。


3.「主は試練を通してますます信じるようにさせる」

 ここでまず言えることは、この様に、女奴隷という立場であっても、信仰者を神は見捨てて置かず、そしてこのハガルも、やはりアブラムとサライと同じ様に、彼女の罪深さ、試練、苦難を通して、彼女にも悔い改めの心を起こさせ、彼女の信仰も成長させようとしてくださっているということです。事実、ハガルはこの後、自分自身のことは気をつけます。横柄にならない様にします。再度、引き起こってしまうサライの怒りは、息子イシュマエルが原因です。ハガル自身は、戻るということ自体も勇気のいることであり、御使を通しての神の言葉に反して、戻らないという選択の方が、合理的であったかもしれませんが、ハガルは戻るのです。もちろんこの後の、ハガルの子の祝福の約束もあったからこそですが、ハガルは苦難の道を戻ります。それは信仰がなければできないことです。そう、ハガルも、奴隷だろうとなかろうと、神の前には関係ない、一人の信仰者を神は決して見捨てず働き、ハガルがますます信じることができるように、信頼することができるように、成長させてくださっているということです。Lutheran StudyBibleでは、ここにヘブル12章11節の参照があります
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
 ハガルも信仰者であるからこそ、この恵みにあり、神の取り扱い、訓練の元で、平安の義の実、つまりますます信じ信頼して神が与える平安を受けることができるように導かれているのです。そして神は、戻るように指示を与えることは再び試練の中に導き入れ、事実、追放ということを経験することになりますが、しかし聖書にはこうもあります。
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」第一コリント10章13節
 事実、神は、ハガルにきちんと脱出の道を備えてくださることになり、決して試練のままに終わらせることはないことも真実なことです。そして、その信仰の道を行かせ支えるのは、決してハガルの力とか努力とか意思の力とかでもありません。そう、この後、10〜12節にある通りに、神がハガルにもアブラムへの約束とは異なるけれども、やはり恵みと祝福の約束の言葉を与え、その言葉が信仰を支えていたのです。私たちには信仰を生むことも強めることもできる力はありません。福音のみ言葉と聖霊こそが信仰の力、信仰に歩ませ、信仰から生まれる良い行いをさせる力なのです。ハガルは、御使いの背中に主ご自身の現れを見て、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と言って、サライのところへ戻ったのでした。


4.「終わりに」

 私たちも、どのような立場であっても、どんなに大きな試練の中におかれても、主イエス様は、私たちを決して捨て置いたりはなされません。孤独のようでありながら、決して孤独ではありません。状況が変わらないように思われる中でも、神は意味なく沈黙されているのではありません。神はハガルを見て、全てを知り、教え、働き、支えてくださったように、私たちをも決して見捨てない。私たちの告白する前から、その心、その状況、何が起こったか、私たちが告白しなかったり、認めていないような罪さえも、皆ご存知の上で、私たちのところにきて、み言葉を持って語りかけ、そこではまず律法を持って刺し通し悔い改めへと導きながらも、そこに十字架の罪の赦しを宣言してくださり、復活の日々新しいいのちに立ち上がらせてくださるのです。そのことを通して、何よりも、私たちがますますイエス・キリストを信じるように、信頼するように、教え、育て、常に導いて、約束の通りの恵みを得させてくださるのです。今日も、イエス様は、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」とそう宣言してくださいます。ぜひ安心してここから遣わされていこうではありませんか。




<創世記 16章6〜16節>
6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」
11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。
12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」
13 そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。
14 それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。
15 ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。
16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。