2021年10月3日


「神は人の計画をはるかに超えて」
創世記16章1〜6節

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1.「前回

 前回、神がアブラムに語った「空の星の数ほどの子孫を与える」という約束に対して、アブラムは、「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」と尋ねます。その求めに対して、神は、アブラムに動物を連れてきて、動物を半分に向かい合わせにするように言います。それは旧約においては神と人との契約を示すものであり、その間を通るものは、契約を破った時にその動物のような運命になることを示唆していました。神は、そこでアブラムの子孫に未来に起こることを的確に伝えるのですが、その最後に、二つに引き裂かれた動物の間を通ったのはアブラムではなく、神ご自身であったのでした。そのことは、神の契約はいつでも神からのものであり、神がなし、神が間を通り、神がその責任の運命も背負うものであり、それは神の御子キリストとその十字架を指し示していたのでした。主イエス・キリストは、神の律法を守ることができず破ってしまう私達の違反と罪を代わりにその身に負われました。その罪ゆえに引き裂かれた動物のようになってしまうのは私達であったのですが、まさに神の御子イエス・キリストが、その切り裂かれた動物の間を通って下さった、その違反、罪の責任を、通ったキリストが背負って下さった、引き裂かれて下さった、私たち一人一人の代わりに。その神の祝福を教えられたのでした。そのように、神は、恐れるアブラムにいつでも語りかけ、約束を更新し、その信仰を励まし強めてくださるのですが、だからと、すぐに約束がなるのでもなければ、アブラムやそして妻のサライも、すぐに完全な信仰者になるということではもちろんないのです。まして、神がアブラムに働いてその計画のうちに信仰を養い育てるように、神はサライにも働いているのですが、夫アブラムと同じ計画、同じスピードではないのです。二人は神にあって一つではあっても、同時に、別の人格なのですから。神は、サライにはサライの計画を持ち、アブラムとは別にサライをも試練を通して学ばせサライの信仰を養っていくのです。


2.「サライの企て」

「アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。」1節

A,「奴隷によって子孫を」
 アブラムのところにいたエジプト人の女奴隷ハガルは、アブラムがエジプトへ下って、エジプトを出るときに、エジプトの王がアブラムに財産をすべて持たせて行かせていますが、当時は奴隷は財産ですから、その時に一緒に連れてきた奴隷だと思われます。2節でサライはそのハガルについてアブラムに提案するのです。
「サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」2節
 奴隷を通じて主人が子供を得るということは、当時の文化的な背景としては、当たり前のように行われていたようです。それによって、サライのように子供を持てない夫婦や、子孫を沢山残したい主人などは、家の相続や繁栄のための手段でもあったようです。しかし、もちろん、相手が奴隷であろうとなかろうと関係なく、それは主の前には、決して承認されないことなのです。

B,「約束を勝手に解釈する:アブラムと同じ間違い」
 神はアブラムに、子供のいないアブラムとサライの夫婦に、神が子孫を与え、その子孫が大いなる国民になり、砂の数ほどになり、星の数ほどになると、約束を何度も思い起こさせ、更新してきました。しかも前回は、未来のアブラムの子孫がエジプトの奴隷となり帰ってくるなどと、どうなっていくのかまで具体的に教えてくださり、サライとの間の子供ということに関しても、アブラムが、サライには子供ができないのだから、奴隷のエリエゼルが相続人になると勝手に決めつけて神に答えたのに対して、神は、具体的に「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」(15:4)とも教えてくれていたでしょう。
 確かに、「サライから」とまでは神は言いませんでした。アブラムはこれまでの神からの約束をサラに伝えてきていなかったのでしょうか。いや、アブラムは行く地行く地で祭壇を築き、そこで祭司として、一族に、神のみ言葉を宣べ伝えてきた説教者でもありました。ですから、神の約束、神の恵みを、サライに伝えてこなかった、ということはなかったことでしょう。サライは、神が与えた下さった子孫の約束を知っていました。しかし、このところで、神がアブラムに、確かに奴隷エリエゼルではなく「あなた自身から生まれ出てくる者」とは言いましたが、「サライから」とは言わなかったからと、まさに、前回のアブラムが「奴隷のエリエゼルが」と勝手に解釈したのと同じことをサライはしてしまっています。
「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」
 と。サライもアブラムと同じです。神がはっきりと言わないことを、勝手に解釈して、彼女も奴隷を通じて、子供を得ることを、それが主の御心だと勝手に決めつけてしまっているのです。

C,「神の約束を人の枠にはめて小さくする」
 彼女の言葉は、いかにも表向きは敬虔な言葉です。「主が私が子供を産めないようにしておられます」という言い方です。確かに「それまで」は事実です。神の御旨によらなければ、子を宿すことはできません。ですから「それまで」彼女に子がなかったのは、確かに、主が産めないようにしたのは事実です。しかし、彼女の人生は終わったわけではありません。まだ生きています。そしてその人生には、主が与えた子孫の約束がありましたね。そしてその子供は「サライから」とは言っていないからと、「サライからではない」とは神さまは言っていないのです。主は、これまでもアブラムに約束を少しずつ、新しい情報に更新して下さってきました。神は最初「どこだかわからない地」と言って出発させ、カナンの地では「この地を子孫へ」となり、さらには「この地をあなたとあなたの子孫へ」となりました。子孫の約束も具体的に「奴隷ではなくあなたから」と神は着々とその約束を進めてきました。ですから「アブラムから」と言われた主は、「サライから」と言われる希望もありますし、サライもアブラムも、神に祈り求め、「妻サライからですか」「わたしからですか」と尋ねることさえできたことでしょう。事実、この後ですが、神は「サライから」と具体的に約束を更新されます。しかしサライは、約束を信じてはいても、それに世の中の常識や肉体の現実を考えて、自分が年老いているとか、自分に子供なんかと、勝手な決めつけや思い込みがあったことでしょう。サライはそのように、それら人間の思いに合うように、神の約束を小さく収め、枠にはめてしまって、勝手な解釈をするだけでなく、それを実行に移すべくアブラムに提案までしたのでした。しかもなんとアブラムも、主に尋ねず、そのサライの通りにする、というのが2節の言葉であったのでした。この所からもまた、真実な神とその約束を信じ信頼することができない、人間の堕落の影響、罪の現実を示しているのですが、これは、アブラムもそうでしたし、私自身にもあることであり、まさにそのように考えたり、まさに約束を決めつけてしまったり、自分の想いや願望や決めつけに、神の約束を小さく当てはめてしまい、「主はこうしてられる。これが主の御心だ」としたり、言ったりして、敬虔さを装おうとししまう。私自身にもあること、してしまうことだと、気づかされます。アブラムやサライのことだけではない、信仰者の二人であってもそうであるように、私たちにも常に罪深い現実と、神の約束を小さくし、自分の決めつけや考えを大きくしようとする悪魔の誘惑が常にあることを教えられ、戒められ、悔い改めさせられる語りかけであるように教えられます。


3.「信仰から出ていない行為」

A,「罪の連鎖」
 そのようなサライの計画なのですが、神はそこで「そのようにしてはいけない」とは言わず沈黙されます。それにはそのことを通しても、神の計画があるからなのですが、神はサライのなすことを止めることなく、サライは、3節「彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた」のでした。そして、ハガルは身ごもります。しかし人間の計画で進めたことは必ず問題を孕む者です。
「彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。」4節
 ハガルにとってサライは主人ですから、口でサライに何かを言ったわけではないと思いますが、5節にある通り、ハガルは自分は子供が与えられたものであり、一方でサライには子供が与えられないものとして、ハガルはサライを見下げるようなその罪深い心、5節には、「横柄な」とありますが、そのような態度が、サライにも明らかにわかるように現れてしまったのでしょう。サライは、そのハガルの態度に怒るのですが、その怒りは、ハガル本人に対するだけでなく、妻は夫アブラムを攻め立てるのです。5節ですが、
「そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」5節
 アブラムに何があったのか、何をしたのか、詳しくはわかりません。しかし、事実、この提案は、彼女自身が言っているように、サライ自身から出たことでしたが、そのことを認めながらも、こうなったのはアブラムのせいだと責めるのです。「主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」という言葉は、自分は悪くない、アブラムを主がさばいてくださるようにという意味が込められています。

B,「信仰から出ていない行為の影響」
 ここに、人間の行いや考えや願望が先に立つような信仰とは言えない信仰の怖さがあります。本来、信仰は神の恵みであり、真の信仰から出る行いは、福音と約束から出るものであり、それは、神の約束を人間の枠にはめないので、真の信仰は自由であり、神による平安と希望と愛に満ちた行動であり、誰も責めず、誰も裁かずです。しかし、サライの判断と行動は、見てきた通り、明らかに信仰から出た判断でははなく、人間の思いや決めつけが先行し、神の約束を人間の枠にはめて、そしてまず人間の行いが先行するものであり、「神が私たちのため」ではなく「私たちが神のために」「私たちが神の契約を果たさなければならない」の律法を動機にした行いです。しかし、ルターが「信仰から出ていない行いは、罪である」と述べているように、人から出ている行いや判断、律法を動機とした行いは、罪深い結果を招いてしまっていることがわかります。自分にも悔い改めるべきところがありながら、自分は悪くないという態度と、アブラムへの責任転嫁がありますね。そして、6節、こう続いています。
「アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。」6節
 アブラムの言うことは最もです。サライはハガルの主人であり、ハガルはサライの奴隷であるのですから、アブラムの言う通りサライは「好きなように」すればいいのです。人の前では正しい回答ではあります。しかしそのアブラムの回答の通りにしたのでしょうか?サライはハガルを虐めるのです。信仰の父の妻だから、アブラムの行動も発言も、サライの発言や行動や、そしてこの虐めも、赦されるのだとと言うことは決してありません。小さな罪だから赦されるということでもありません。罪に大きいも小さいもありません。全て大きい重大な罪です。まさに、二人は、信仰者でありながら、しかし同時に、どこまでも罪人でもあると言うことであり、そして、信仰から、つまり福音を動機にして出ていない行動や判断、つまり、律法を動機にしている行動や判断、人間の思いや願望に神の約束を小さくして当てはめてしまうような行いは、どこまでも罪深いし、ハガルを含めて、罪は罪を呼び、このように、隣人をさばいたり、誹謗中傷、イジメなどなどに繋がると言うこと、まさに、木が良ければ良い実を結ぶが、木が悪ければ、悪い実を結ぶと言うことがここに示されているのです。自分の行いが信仰や福音から出ているのか、それとも、そうではなく人から出ているのか、律法を動機にしていないかが、問われているように教えられます。


4.「罪深いサラも悔い改めを通して、ますます信じるように」

 しかしそのようなアブラムとサライの現実、人間の現実がありながらも、しかし何より神の圧倒的な恵みの確かさと福音の力があるでしょう。サライはそれほどまでも罪深い。にも関わらずに、サライもアブラムと同じようにこのような罪と失敗や試練を通して悔い改めさせられ、そして神の恵みの中で、疑いから、ますます信じるようにさせられて行くでしょう。そうこの後も、サライは、さらに具体的な約束があっても、笑って信じなかったりもしますが、それでも神はサライのその人生で、サライの思いや計画ではなく、神の計画と約束の確かさを見せてくださり、そしてサライは悔い改めさせられますます信じるようにさせられて行くのです。そのようにクリスチャンは皆一人一人、神がそれぞれに見合った成長させる恵みの計画があるのであり、それはそれぞれ違います。一人一人が御言葉を通して学ばされて行くのです。ですから、クリスチャン同士、自分の信仰の度合いやレベルを人に強いたり要求することは決してすべきではない。私たちは互いを愛し、互いのために祈り、助ける、それだけなのです。


5.「人が何もないと思えるところに、神は」

 そして、最後に、ハガルもサライも同じ思いで躓いたように、目に見えて、子供を沢山産むことが出来ることは、確かに神がしてくださったことではありますが、しかし神の前では同時に、沢山であっても、子がいなくても神の計画であり、多いから祝福であり、0であれば祝福されていないということ、ではないはずです。ハガルが高ぶりサライが疑い嫉妬したように、人は、多ければ祝福され、少ないとか0は祝福ではないと、それこそ勝手に決めつけてしまいます。しかし「神の前」にあっては、そうではありません。サライはこの時は、まさに0であり、「人の前」、人間の思いや価値観では全く期待できなとか祝福されていない、そんな状況でも、「神の前」では違うでしょう。神には神の計画があり、そして人は笑い信じないことがその通りになるのが、イサクの誕生であり、神の約束された通りになって行くでしょう。そしてまさしく「人の前」では、0だと思えるような状況から、無理だ不可能だ、ダメだと思える現実から、誰がここから何か良いものが生まれようと言う所からこそ、神が変わることのない計画を始めから守り続け、神が全てことを進め、それがついには私達の救い主イエス・キリストの誕生とその十字架と復活に繋がっているでしょう。その世にあっては敗北の刑罰である十字架が、主イエス・キリストのゆえにこそ、それは私達の罪の赦し、救いであり、新しいいのちがあり、それが私達へ既にあるどんな時にも何にも勝る祝福ではありませんか。そこにこそイエスが与えると言われた、世が与える事のできない平安が私達に溢れて出てくるではありませんか。今日もイエスは「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださいます。安心してここから遣わされて行きましょう。





<創世記 16章1〜6節>
1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、
 その名をハガルといった。
2サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておら
 れます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子ども
 の母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
3アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷の
 エジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。
4彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを
 知って、自分の女主人を見下げるようになった。
5そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身
 が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、
 私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
6アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女を
 あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライの
 もとから逃げ去った。