2021年9月19日


「恐れるな。わたしはあなたの盾」
創世記15章1〜6節

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1.「恐れ

 前回は、アブラムがわずか318人だけで4人の王の軍から捕虜とされた甥のロトを救い出したこと、そして、いと高き神の大祭司であるメルキゼデクは、神がその敵をアブラムの手に渡されたと、神が働き戦ってくださったからこそロトを救い出すことができたのだと祝福を祈った、そのところまでを見てきたのでした。
「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」1節

A,「恐れるアブラムへ主の方から」
 このように主は、アブラムに語りかけるのです。まず「幻のうちに」とありますように、その語りかける言葉というのは、ただ耳に聞こえる言葉だけあったということではなく、どのような姿・形かはわかりませんが、明らかに話しかける者の姿があって言葉があったことを意味しています。その主はまず何を言われるでしょうか。主は、アブラムの名を呼び、そして「恐れるな」と言われているでしょう。ここで不思議なのは、アブラムが恐れている理由は、この「恐れるな」の言葉の後、2節以降でアブラムによって語られているということです。つまりこのところの幸いは、主なる神は、私達がその恐れや心配を口にし告白するより「先に」「前に」、その私達の心の内を、つまり、どんなことを恐れ心配しているかを、既に知ってくださっているということでしょう。

B,「聖徒、同時に罪びと」
 私達も皆、そうであるように、アブラムも心配、恐れがありました。確かに、私達は、これまで彼が、様々な試練を通して、神の約束と助けは真実であるということを経験し教えられ、神にますます信頼する、ということこそを成長させられてきたのを見てきました。だからこそ、アブラム自身の僕たちとロトの僕たちとの間に争いが起こった際も、彼は、律法的に、力や地位やさらなる争いで上から解決しようとするのではなく、信仰による行動として、ロトの前に謙り、別れて住む地を決めるためにまずロトに先に行くべき道を選ばせました。また「主の園のような」肥沃な土地を巡っての王達の争いにも、アブラムは加わらず、ただロトを助けるために、たった318人で救済に行ったのも、信仰から出た行為でしたし、ソドムの王から報酬を受け取らなかったのも、主が報いてくださるという信仰から出たものでした。彼は信仰の人なのです。私たちもアブラハムは信仰の父であり、だからと、聖人のように見ることでしょう。しかし信仰の人ではあっても、神ではありませんし、完全でもありませんし、そして、同時に、全き罪人でもあります。信仰が養われ、成長させられ、ますます神に信頼するようにさせられていっても、恐れもするし、心配もするし、この後も見ていくように、疑いを抱くこともあります。信仰者なのだから、疑ってもいけない。恐れても心配してもいけない。自分たちの意思の力で心を抑えつけ、疑いを消し去り、恐れも心配もなくなるように努力しなければいけない。そのようにしていくことが敬虔なことなんだと、教える教会もあるかもしれませんが、それは全く間違いであります。私たちは、信じる信仰が与えられ、キリストの十字架と復活、キリストの義のゆえに、義と認められ、全き聖徒であるのですが、しかし同時に、肉にあっては、全き罪人でもあります。信じていても、信頼し委ねようとしても、同時に、恐れや不安や疑いから、自由ではありません。いつでも悪魔の誘惑があり、神を疑わせるようにさせ、心配や恐れを湧き上がらせようとするのです。アブラムは、信仰の父だから、そんなことはなかっただろう、なんてことはないのです。私達と同じでした。だからこそ、神は、試練を通して、アブラムにご自身が真実であることを分からせ、神をますます信頼するように成長させているのは、紛れもなく神ご自身であったでしょう。アブラム自ら、信仰を鍛え、自分の肉体や意思の力で従わせ信じるようになってきたのではありません。神の恵みであり、この時でさえもなおも、その神による成長の過程を生きていたのでした。ですから信仰者アブラムにも恐れがあったのでした。

C,「アブラムの恐れ:約束と現実のギャップ」
 その恐れとは何でしょうか?2節にこうあります。
「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。」2?3節
 それは子がないということでした。サライとともにもう75を過ぎているのに、相続人となる子供が一人もいないというのは、それは子供が欲しいと願う夫婦にとっては、悲しみ以外の何物でもありません。そしてアブラムにとってはこれは主の約束と相続人の問題もかかってきます。神はアブラムに何度も約束してきました。12章のところで、アブラムが神の「わたしが示す地へ行きなさい」という言葉に従って、ハランを出た時には、神は、「わたしはあなたを大いなる国民とし」(12:2)と言われ、カナンの地に入った時にも、神はアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」(12:7)と言いました。また13章でも、ロトと別れた直後に主はアブラムに「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる」(13:16)と約束しました。しかし未だ、その大いなる国民となり、地のちりのようになり、約束の地を相続する、子孫のための、たった一人の子さえもまだいないのです。しかもハランを出たときには75歳であり、そこから更に歳をとり高齢という現実もあります。どうでしょう。主の約束と、一方で、人の目から見るならば、全くそうなりそうもない、そんな兆候さえない、そんな現実を前にした時に、私達も疑うでしょう。約束を見れないで現実を見るでしょう。そして恐れ、心配、失望、さらには絶望とさえなる時もあります。アブラムも同じであったのではないでしょうか?主は約束されたのに、その肝心の子供がない。こんな高齢で未だ子供がない。恐れ、心配し当然です。

D,「約束への買ってな解釈」
 そしてそこで誰でも陥りやすいこととして、自分にその約束の責任があるかのように思ってしまい、自分でその約束を担おう、果たそうとしてしまうのです。だからこそ、その子孫を、アブラムは勝手に、血のつながったサラとの間の子供ではなく、その子は諦めて、忠実な僕であるエリエゼルが相続人になるのかとまで言い出します。それは人間の考えとしては合理的な真っ当な考えではあります。しかし、彼はそのようにして、自分には計り知れない、主の成そうとすることを、アブラムが勝手に決めつけてしまっているのです。そして、その彼の判断さえ迷いがあり、確かではありません。「あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」と疑問形です。確かではないのです。まさに不安と恐れが常につきまとっています。その挙句に、主がまず「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言っているのを、彼は勝手に決めつけて、主はそうは決して言っていないのに、「ご覧ください。あなたが子孫を下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と断定してしまっているのです。人間の勝手な断定は、真の揺るがない確信から出るものではなく、むしろ、不安と恐れの裏返しであるのです。アブラムは、恐れがあり、不安があったのです。疑いがあったのです。信仰者であってもです。主に信頼するものであっても、そのように成長させられ、そのように信仰によって行動してきたものでも、同時に、葛藤もある。疑いもある。決めつけもある。罪もある。どこまでも罪人であるのです。


2.「恐れるな」

A,「アブラムが告げる前から知っておられる主」
 しかしどうでしょうか。みなさん。幸いではありませんか。神は、アブラムがそのように打ち明ける前から、そのアブラムの恐れを、不安を、葛藤を、疑いを、すでに、知ってくださっていたでしょう。アブラムが告白する前に「恐れるな」と言っています。恐れていることを知っているからこそ出てくる言葉です。アブラムが恐れているからこそ、その恐れが何であるかを知っているからこそ、主は「恐れるな」と語ってくださっているというとです。そしてその彼の恐れの内容は、2節3節で見ました。約束があっても信じられないアブラムであり、自分で勝手に解釈し、決めつけて、自分で約束を果たそうとするその心です。しかしそれを知った上での神のアブラムへの「恐れるな」は、アブラムを責めるためですか?「何をそんなに疑っているんだ、ダメではないか?なんて不信仰なやつなんだ?」と責める、断罪する、裁く、律法の「恐れるな」という言葉ですか?そうではないでしょう。

B,「責めるためではなく」
「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
 と神は言われているでしょう。「わたしはあなたの盾だ」ー何という恵みであり、平安でしょう。現実は厳しくとも、どんな恐れや不安や誘惑があっても、神はあなたがそれに自分の力で立ち向かって勝利せよとは言わない。わたしがあなたを、恐れから、不安から、悪魔の誘惑から、疑いから、そして、この現実から、守る盾だと。神はアブラムに言って慰め励ましているでしょう。そればかりか「あなたの受ける報いは非常に大きい。」ーそんな今尚、恐れ、心配し、葛藤する罪深いアブラムを責めるのではなく、むしろ、それでもみ言葉に聞き、祭壇を築き、悔い改めと感謝の礼拝をささげ、そのように信じて従ってきたアブラムを、「大丈夫だ、報いは大きいのだ」と、希望を与え励ましてくれているではありませんか。

C,「主ご自身が助けるからこそ」
 みなさん。父子聖霊なる私達の神は、そのようなお方なのです。イエス・キリストを信じる信仰が与えられ、そのイエス・キリストに結びつけられて、恵みのうちに新しいいのちを導かれている私達。私達は恵みのゆえに、イエスの聖徒ですが、同時に罪人です。しかし、神の前にあって、その罪を日々悔い改め、日々新しく生かされている私達は、たとえどんな試練や困難な現実に直面し、恐れ、心配し、葛藤し、疑い、日々誘惑に晒されたとしても、イエスは、まずその恐れを、私達が打ち明けるより先に、知ってくださっている。そればかりではない。アブラムと同じように、私達が打ち明けるより先に、イエスの方から、そのみ言葉を持って、説教で、語りかけてくださり「恐れるな」「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」と言ってくださる。励ましてくださる。約束を常に思い出させ、平安と希望を与えてくださる。そのようなお方が、私達の創造主であり、救い主であり、助け主であるのだということなのです。感謝ではありませんか。私達は、今日もその現実は罪人のままです。約束があり福音があっても、アブラム のような恐れの心に心奪われて、過ごしてきた日々かもしれません。今日もそのような自分の現実を、私自身が教えられ刺し通されます。しかし今日もイエスは、そのような恐れも、そして、悔い改める思いも、全て受け止めてくださり、福音の素晴らしい約束において私達にも言ってくださるのです。
「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」
と。みなさん。感謝なことではありませんか。そのことを信じるからこそ、私達はいつでも恐れから、不安から解放されます。


3.「み言葉の約束で強める」

 そして、そこに神はいつでも絶えずみ言葉を持って励まされていることを忘れてはいけません。そんな恐れるアブラム。「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」と神が言われた後に、まさに恐れを、いわば彼の罪を告白するように、2、3節で自分の思いを語るアブラムに、神は「やはりそうであったのか。ダメではないか。そんな風に疑ったりして、勝手に決めつけたりして」とは神は言いません。
「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」4〜5節

A,「神の約束は変わらない:福音が最後の言葉」
 神は、そんな恐れるアブラム、勝手に自分でことを行うとするアブラムに、きちんとみ言葉で教えてくれています。そして、これまでの約束は決して、無効ではないし取り消しもされないし、まして嘘でもないことを、神は、以前の「地のちり」以上の素晴らしい描写で約束を更新、アップデートしてくださっているではありませんか。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」5節
 と。み言葉は、もちろん律法があり、罪を責め、私たちが神の前に罪人であることを気付かせ、刺し通し、殺す、痛みの言葉です。しかし、神のみ言葉は、その律法が最後の言葉では決してない。それだけが目的ではない。どこまでも、神とその約束を、信じるように、信頼するようにさせるために、何度でも語りかけ、恵みに立ち返らせ、平安と希望を与えるものなのです。事実、恐れと不安と疑いにあってアブラムですが、ここでもまさに神の一方的な介入、神様からのみことばが先にあるからこそ、再び信仰が新たにされているでしょう。6節です。

B,「恵みが先にあるからこその信仰:信仰は律法ではない」
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」6節
 みなさん。この一節だけは有名ですが、この一節だけつまみ食いし文脈も考えないで、まず自分の意思や力で信じれば、そうすれば神は義と認めてくださるのだと、信仰を律法にして理解してしまったり、そのように説教するものもいるかもしれませんが、今日見てきた通りでしょう。アブラムは信仰を、神の恵みとみことばによって、何度でも語りかけられることによって養われてきたのだと。神がアブラムに様々な試練で、神の方から現れ、語りかけてくださり、まず神が働いてくださり、そしてますます信頼するようにしてくださってきている。信仰は、与えられた時も、神の恵みと福音によるものであったし、その信仰に進ませるのも神の恵みであり、それは律法ではない、どこまでも福音であるということが、みなさん、今日のこの文脈からわかります。アブラムが主を信じた、その信仰。私達が主イエス・キリストを信じるということも、決して律法ではない。律法にしてはいけない。それは恵みであり、福音と聖霊による賜物なのです。その信仰を、神はキリストの義のゆえに義と認めてくださる。義認は律法ではない。私達のわざ、行いではない。義認はどこまでも恵みでありキリストによるものなのです。
 私達は、今、その信仰が与えられている恵みを、感謝し、賛美しましょう。今日もイエスは、私たちの信仰を、福音の言葉で、強め、新たにしてくださいました。今日もイエスは、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださっています。安心してここから、世に遣わされて行きましょう。





<創世記 15章1〜6節>
1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラム
 よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子があり
 ません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷
 が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。
4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではなら
 ない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることが
 できるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。