2021年8月29日


「さあ、目を上げて見渡しなさい」
創世記13章14〜18節

■音声はこちら


1.「前回」

 前回、アブラムは、甥のロトが選んだ地と逆の方向へ行こうと約束した通りに、ロトとは逆の方向へ行こうとしたのですが、その時、主はアブラムに語りかけ、この地を「あなたとあなたの子孫へ与える」と、約束を更新されました。それゆえにアブラムは、カナンの地域で移動し、天幕を移したことを見てきたのでした。そのことから、アブラムはハランからの出発の時も主の言葉に従って出たのと同じように、このところでも、語りかける主のその言葉に導かれての行動であったのでした。そのように信仰者の歩みの幸いは、主の約束の言葉に導かれてこそであることを教えられたのでした。今日は、その主がアブラムに、語られた約束についてともに見て行きましょう。主はアブラムにどんな約束をされ、そして、そこから何を教えられるでしょうか?

2.「見渡す」
「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」14〜15節

A,「人が見渡す先」
 主は、東西南北全てを見渡すように言われたのでした。この「見渡す」と言うことについては、ロトは、ヨルダンの低地の肥沃な水の潤った地を「見渡して」、そちらを選んで行ったことが書かれていました。前回も触れましたように、人がその肉の目と計算で「見渡す」のは、その通り、目で見える良さ見栄え、そして、期待できる、それが生み出すかもしれない利益のみを、あるいはそれを優先的に見渡すものです。それは当たり前の肉の性質であり、欲求でもあり、だからこそ、多くの人がそこに集まりソドムとゴモラという栄えた都市を築いたとも言えます。アブラムは、その逆を行こうとしていましたが、そんなアブラムに、そのアブラムの思いを超えて、主は「あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい」と言っているのです。

B,「主が指し示す先は、私達の思いをはるかに超えて」
 この所から、主が指し示す先を教えられます。ロトの見渡した地でも、その逆をロトの約束の通りに行こうとして見ていたその地でもない、主が指し示す先は、アブラムの思いをはるかに超えたものです。「あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい」なのです。さらに15節では「あなたが見渡しているこの地全部を」とも言っています。17節では「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい」とは言っていますが、それは、具体的に領土を決めるために、歩かせてその範囲きっちり与えるという意味で言っているのではなく、どれほどの広がりを歩いても、それをあなたに与えようという、計り知れない広さを示すものです。それはロトと逆を行こうとしていたアブラムの思いや、決意や、計画をはるかに超えた神の言葉であり、指示、見渡すように指し示す先であることが分かります。私たちには、当然、意思があり、選択もします。私たちにとっても、とっさに見て、直感的に、こっちがいい、こっちが正しい、これをすべきだと、判断する人もいれば、自分の知識やいろいろなことを計算、深く考慮して、こちらを、と選ぶ場合もあります。私たちも、ヨルダンの低地の繁栄を生む土地を選んでいくよう選択する場合もあれば、その逆を行こうと選択する場合もあります。日常において、様々な判断や決断があるのです。しかし、主の計画、主の指し示す先は、私たちのとっさの感情や選択、それが熟考や綿密な計算であっても、私たちの判断や選択には、決して収まり切らない。私たちの枠にはまらない。想いをはるかに超えたものであり、主が指し示す先は、そのように、私たちの思いをはるかに超えているのです。

C,「聖書が示すこと」
a) 「使徒の働き:パウロは主が見渡していた地へ」
 新約聖書でも使徒の働きの講解で見てきたでしょう。15章でしたが、パウロが宣教の旅行で、現在のトルコである、小アジアを巡って宣教をしようと決めていたのですが、しかし主からの指示は「アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」(使徒15章6節)とありました。それでもパウロは、彼自身の熱心と決断の強さでしょうか、やはり自分が宣教すべき地はここだと思って、アジヤの北のほうへ行こうとしましたが、そこでも「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」(7節)とありました。まさに、パウロが見渡していた地域、行こうとしていたところ、それが彼の熱心や思いから生まれたものであっても、主はそれを禁じました。そしてその主が指し示した先は、海を渡ったマケドニアでした。そこにはこうあります
「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」9〜10節
 一人のマケドニア人の幻を主から与えられた時に、パウロは悟ったのです。主が指し示す先は、マケドニアだと。マケドニアこそ、神が見渡していた地であり、自分にも見渡すように指し示して、「神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信した」その指し示す地であるからこそ、パウロは、マケドニアへ出発したのでした。パウロの思いや計画をはるかに超えています。

b)  「イエス・キリスト、その十字架と復活」
 皆さん、何より、私達の救い主であるイエスが世に来られたこと自体がそうではありませんか。人々は救い主の到来や神の国の実現への期待しながら、どこを見渡していましたか?東の博士たちは、世の救い主を探しにまずヘロデの宮殿を訪れたでしょう。真っ先にベツレヘムの家畜小屋を見渡していたのではありません。世の王の宮殿を見渡していたのでした。救い主を待ち望んでいたユダヤの人々が見ていたのは、バプテスマのヨハネであったり、パンを食べて満腹したから集まったり、ローマ帝国の支配からの独立、イスラエルの政治的な再興を実現する解放者として、救い主を見ていたでしょう。宗教指導者たちは、救い主を待ち望むどころか、彼らが見渡していたのは、律法や伝統、慣習や神殿儀式と、そこに集まる献金であり、自分がどれだけ守っているかと言う自分の誇り、それだけでなく、社会の人々がどのようにその律法と慣習に従って守っているかどうか、誰か破っていないかどうかであったでしょう。弟子たちも、見渡していたのは、誰が一番偉いかであったり、他の誰がイエスを裏切っても自分は決して裏切らないという、自分の決意、熱心、忠実さを、つまりやはり、ユダヤの宗教指導者と変わらない、自分の行いやその誇り、仲間の行いを見渡していたでしょう。しかし、皆、神が真に指し示す先、預言者ヨハネを指し示す先、み言葉が指し示す先は、誰も思いもしなかった、大工の家に生まれ飼い葉桶に寝かされて、貧しく育ったイエス・キリストであり、誰も計画も予想もしない、計り知れない、そのイエス・キリストとの十字架と復活であったでしょう。しかも、その世にあっては嫌悪と絶望と敗北である、極悪人の刑罰である十字架が、なんと、神の前にあって、私たちに罪の赦しをもたらし、その誰も信じなかった復活が私たちにイエス・キリストを通して、新しいいのちをもたらし、さらには、そのイエス・キリストこそが、断絶されていた永遠の神の国に私たちを入れてくれる門となり道となってくださっているということであったではありませんか。まさにそのイエス・キリストとその十字架こそ、神が私たちに、見渡すように、見るように、指し示しているのではありませんか。

c)  キリストこそ、私たちが見渡す先
 私たちは、もちろん人間ですから、いろいろな見渡す先があって当然です。アブラムもロトがしたように、それが私たちの日常です。しかし、それが主となり、優先になり、その私たちの感情や合理性や欲求によるその判断や思いに、主のみ思いや、なそうとすることや、主が見渡しているものを、はめ込んで小さくしてはいけません。主の思い、なそうとすること、見渡しているところ、そこにある計画は、私たちのそれよりはるかに大きいし広い、計り知れず、比べ物にならないほど、大きく広い、そして、主イエスは、その神の視点の、神の約束で、私たちのためにも、見渡すべきところをいつでも、これからも、み言葉、説教を通して、指し示してくださる。それは何よりも永久に変わらず、イエス・キリストとその十字架である。そのことが今日、私たちに教えられるのではないでしょうか。

3.「地のちりのように」
「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」16〜17節

A,「血肉の子孫」
 この「子孫を地のちりのようにならせる。地のちりを数えることができれば」と似たような言葉は、15章にもあり、そこでは「「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」(15章5節)と主は言われました。この主が言われたアブラムの約束の子孫は、二重の意味があり、一つ血肉の子孫であるイスラエルを示し、もう一つは霊的な意味で、救い主イエス・キリストを待ち望み信じる、信仰者たちのことを指しています。この13章の地のちりの数は、聖書で、人がその肉体がちりから取られ、そして、堕落によって死ぬものとなり、肉体はちりに帰る存在ということを伝えている通り、地のちりの数ほどの子孫と言うのは、血肉の子孫であるイスラエルのことを示していると言われています。もちろん、星も被造物であり朽ちゆくものではあるのですが、人間にとっては、星はちり以上にその数は計り知れず、数えることができない存在であり、神だけが真に数え、その誕生も死も知っているものとして、計り知れない神の恵みの新しいいのちの誕生の存在である信仰者は星に例えられているのです。
 何れにしても、神は、ちりも、数えることの極めて難しい存在として、アブラムの子孫を、それほどまで多くならせるのだと約束するのです。事実、この後、ヤコブは男子で12人の部族となる子供を持ち、彼らがエジプトへ行くことによって、その数はエジプトの王が恐れるほどに大きく増えるでしょう。神の言われる通りになるのです。そしてその子孫は、このカナンの地に確かにイスラエルの王国を建てるのです。神はその約束の通りになさるお方なのです。しかしそれがイスラエルの民であっても、何よりその約束がその通りになるのは、神がなさったからこそであり、人の功績やわざではありません。そして、何より彼らが神のみ言葉に支えられ、神のみ言葉を信じて信頼して神の恵みに生きてこそのその成就であり、王国であることを忘れはいけません。

B,「人の何かではなく、神の恵みとみ言葉と信仰のゆえに」
 事実、確かに出エジプトにはモーセという指導者がいて、目に見える存在としては、モーセが導いたというのは事実であったのです。しかし、そのモーセは殺人でエジプトから逃げ、神に語りかけられたときも、自分は口下手でできないから、他の人を遣わしてくださいと、神の命令を拒絶しました。しかしそんな罪深い、弱いモーセを用いて、導いたのは、神とその言葉であったでしょう。そう、指導者モーセが主の言葉によって教えられ、力を与えられ、導かれていたからこそ、モーセはみ言葉の取次手として、用いられ、民は導かれたというのが、聖書の事実です。逆に、その恵みとみ言葉を忘れ、退け、信ぜず、エジプトの繁栄や奴隷状態の方がよかったと、戻ろうといい、金の子牛の像を作って拝んだ民は、それがちりの数の一粒であろうとも、神は、怒りを持って、裁きと滅びをもたらしたでしょう。それは約束の通りに、そのカナンの地にダビデ王朝ができ、立派な神殿が建った後も、そのちりの数のように増えた民が、みことばに背き、神を信じぜず、偶像礼拝に走った時には、同じように、民には裁きと罰が下りました。その地でちりの数のようになるはずが、捕囚に何度もあり、アッシリヤやバビロンに連れていかれたでしょう。そのちりほどの数の子孫の約束は、イスラエルの民を指していても、クリスチャンたちと同じように、恵みの神と、そのみことば、神の圧倒的な約束の真実さを、信じる信仰のゆえであるということがわかるのです。信仰がなければ、神の約束は虚しいものです。神の約束、神の恵みが真実であるという信仰なしには、人は、しるしや知恵を求め、金銀の繁栄を求め、それを優先し、それに神や神の御心を枠にはめ従わせようとして行くのですが、そのような人々にとっては、神の約束は、愚かで、躓きになります。事実、十字架の言葉は、そのようなしるしを求めるユダヤ人、知恵を求めるギリシヤ人にとっては愚かで躓きであったでしょう。しかし、こうありますね
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。?しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」コリント第一1章18、23〜24節
 と。信じる信仰が与えられたからこそ、この救いの約束、十字架の言葉は、私たちにとって、おろかでも、躓きでもなく、救いを受ける神の力だと私たちは告白できるでしょう。だからこそ、私たちはここに集まり、なおも語るかけるみ言葉を聞き、イエス・キリストの恵みを褒め称え、礼拝するのです。

4.「おわりに:神が指し示す地へ」
 アブラムは事実、ここでロトと逆を行こうとした時に、神から語りかけられ、約束を受けた時に、やはりそのみ言葉とその真実を信じるがゆえに、神がその約束を必ずなされると信じるがゆえに、逆方向ではなく、神が示す、この地の、「ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住ん」で天幕を立てたのです。そしてそこでも、主のための祭壇を築いたとあります。祭壇を、彼が行く地、行く地で立てますが、それは神の恵みと真実さを覚えさせられ、それを皆に証をし、ともに礼拝し、賛美するために、そこに立てられ、そこに礼拝と証しがあったことを意味しています。私たちも、主の圧倒的な恵みとその約束、その約束の成就のみ言葉のうちに、救われ、導かれています。礼拝は、その恵みの主から絶えず恵みを受け続ける場所であり、同時に、恵みを褒め称える場所です。今日も、イエスが私たちを恵みのうちに集めてくださり、そのみことばを語ってくださっています。そして律法で遣わすのではなく、最後の言葉は、福音として「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい。」と遣わしてくださっています。今日も、主の恵みを受け、平安のうちに、そして、主の真実な約束に安心して、ここから遣わされて行きましょう。





<創世記 13章14〜18節>
14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたが
  いる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよ
  う。
16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることが
  できれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだか
  ら。」
18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。
  そして、そこに主のための祭壇を築いた。