2021年7月25日


「飢饉のためエジプトへ」
創世記12章9〜20節

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1.「ネゲブ、そしてエジプトへ」

 アブラムは、ベテルとアイの間にある山の近くに移動し、祭壇を築きました。しかしアブラムと一行は、そのところから、さらに進んで行き「ネゲブのほうへと旅を続けた」とあったのでした(9節)。このネゲブは、ヘブル語では「南」いう意味でもあり、イスラエルの南の砂漠地域を示しています。アブラム一行は、そのネゲブの方へと向かったところから、今日のお話は始まっています。

「それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。」9〜10節

 この地には飢饉があったと書かれています。終わりには、その飢饉は激しかったとも書かれています。そしてそれを避けるためにさらに南のエジプトへと下ったことが書かれているのです。


A,「カナンの地を離れた」

 このところは考えさせられます。まず第一に、なぜ、アブラムは、神が子孫に与えると約束したカナンの地を離れて、ネゲブの方へ移動したのでしょう。神の約束は、はっきりとしていました。「この地を、あなたの子孫に与える」と。ですから、ベテルから移動しながらも、そのカナンの地域で、カナン人が多く居住する場所とその影響を避けながら自分たちの場所を見つけ、その山の近くの自分たちの場所に止まって、「約束」された通りに、子孫に与えられる日を待つことの方が、人の前、人の目では、合理的でかつ信仰的に、敬虔に当然、見えることでしょう。しかしアブラムは、とどまるのではなく、その約束の地から、南に下り、離れて行くのです。

 しかし、忘れてはいけないのは、神が約束された地とは言え、「あなたの子孫に」と言いました。その通り、まだ与えられてはいませんし、アブラム本人が得た訳でも、得るわけでもありません。そして、そこに定住する隣人であるカナン人の敵意なども当然、あったことでしょう。ですから、何かそのような物理的な危険性や驚異のゆえに、アブラムが家族や僕たちのためにそこを離れて移動する理由があったのかもしれません。それに、その地を受け継ぐ子孫さえまだいない状況で、そのようなあまり隣人環境の良くない危険さえあるような状況で、とりわけ妻のサライに危険が及んで命が損なわれてもいけないことも、アブラムは当然考えなければいけなかったことでしょう。ですから彼も私たちと変わらない人間ですから、そのように周りの状況や危険を様々鑑みて移動することは当然のことと言えるでしょう。


B,「不信仰なのか?」

 そしてそれは確かに示された地を離れると、不信仰のように見えるのかもしれません。しかし、彼は、神の言葉には逆らってはいないでしょう。神は「あなたの子孫に」と言いました。そしてアブラムに与えるとも、与えたとも言っていません。ですから神の約束のために、人が、是が非でもその地にとどまり続け、実現を待つ、まして自ら実現する、などというようなことは、神の命令でもなければ、神が求めるような信仰としても記されていません。それは、ある意味、人間が勝手に付け加え、膨らませた、最もらしく敬虔そうに見える、ただの律法でしかありません。むしろアブラハムにとっては、やがて「子孫に与える」はもちろん素晴らしい約束ですが、それは子孫が具体的に見て与えられることであり、自分自身にとっては、どこまでも、神がどこだかわらかない「わたしが示す地へ」導く、という旅はやはり続いていることを、彼は良く知っていたことでしょう。そして当然ながら、人であれば誰でも、環境、自然や、隣人からの脅威からは、自分や家族を守ることはするのです。この今日の状況下でも、信仰者だからと、このコロナの感染があっても、そんなこと恐れて教会活動を変えたり、礼拝を休むのは不信仰だなどと、そんな馬鹿げた律法を掲げて強いる教会があるようですが、私たちはそんなことはしません。自然や人間の脅威から、家族や仲間を守るのは当然なのです。アブラムも、わざわざ立てた祭壇を離れて、ネゲブへと移動しているのです。だからと言って、アブラムは決して不信仰でそうしたのではないのです。もちろん、信仰は葛藤があっての信仰であることはアブラムも同じです。しかしだからと、ここを離れることが、神の約束に背を向けた不信仰ものだということでは決してありませんし、そんな律法的なメッセージはここにはありません。


C,「主が全てのことを約束の成就に導いてくださる」

 むしろ、アブラムにとってはどうでしょう。まさにハランで、神から「示された地へ行きなさい」と指示を受けて、その通りに出てきた旅は、何か理想通りの何でも準備されて、万事うまく行くようなことを与えられ見せられたなんてことは全くなく、苦しい長い移動と、そして既に定住している人々、その文化、宗教、そして、敵意、そこから生まれる、孤独感、疎外感、葛藤。危険。等々。まさに試練と困難の連続ではありませんか。さらには、この後はネゲブでは飢饉です。アブラムも私たちと同じ人間であるなら、当然、私たちも考え葛藤するように、約束した神が、こんなことに合わせるのか、困難ばかりに導くのか、と葛藤してもおかしくない状況です。いや葛藤し、悩み、誘惑に戦って当然の、信仰者の歩み、クリスチャン生活です。しかしそのような中を通らされても、彼は、神の約束には決して背を向けたりはしない。むしろ信じていて、このカナンの地を離れても、神が「あなたの子孫に与える」と約束したのだから、神は再びここに戻してくださる。たとえ途中、自分が死んでも、神は子孫をここに帰らせて必ず実現してくださる、と、信じるからこそ離れることができたのではないでしょうか。逆に、自分は不完全で罪深く何もできないが、神がそのことをその通りにしてくださる、と神の約束と恵みと力の完全さ、真実さを信じ信頼することができないと、まさに神の約束への警戒心と心配がいっぱいであるかのようになり、自分自身が是が非でも達成しなければならない、去るなんて不信仰だとなり、なんとしてでもここにとどまり続け、子孫が得るまで自分がこの地で果たさなければならないと、人間が勝手に膨らませ作り上げる敬虔らしさという律法に固執する信仰生活になってしまいます。そのような人の行いや力を過信した、高ぶった律法としての信仰より、自分はどこまでも罪深く、日々悔い改めなければならない、神のために何もできないもの、しかし神がして下さる方、そのことを信じる、その福音としての信仰こそを、神は喜ばれるのです。

 それは、この後のネゲブでの飢饉も同じです。アブラムはここで、穀物が安く手に入るエジプトのことを聞き、妻サライや甥のロトや、僕たちや家畜のためにエジプトへと下ることにしたのでしょう。イエスは「「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日の主です。」」(マルコ2:27〜28)と言っているのと同じように、神は、祭壇のために人がある、つまり祭壇のためにアブラムやその家族、あるいは、私たちがいるとは考えてはいません。祭壇も礼拝も教会も、教会のため、神のためではなく、私たちのためであり、私たちの歩みや信仰や召命も、神のためよりも、むしろ隣人や家族のために与えられています。そのように私たちは、家族のために、一人一人、召されてているので、その召命にしたがって、家族を飢饉から守ることは当然のことで、不信仰なことではなにもないのです。しかしそのエジプトで、このように続いていることも書かれています。


2.「エジプトでの嘘」

「彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」11〜13節

 アブラムは、エジプトへ近づいたときに、エジプトの強大な王の力を前に恐れを抱かされました。妻の美しさゆえに、夫である自分が殺されることを恐れたのでした。そこで、サライに妻だとは言わないで妹だと言って欲しいとお願いするのでした。これは確かに、半分は事実でした。なぜならサライにとってアブラムは母違いの兄であったからでした。しかし半分正しいから真実ということではありません。まして妹だと言うことで、エジプトの王の前では、妻ではないことになるので、そこで全くの偽りの証言になってしまいます。そしてそれによりサライの純潔が脅かされるだけでなく、この後見ていくとわかる通り、エジプトの王にも姦淫の罪を犯させることになるきっかけともなるのです。ですから、アブラムの嘘は、嘘ではなく、信仰の父のしたことだから、神聖なわざであり神のとっさの配慮だ、なんて思うのは適切ではありません。人を聖人や神のようにしてしまい、その人は罪を犯さないと考えることほど、信仰にとって危険なことはありません。ましてサライを危険に晒し、エジプトの王を罪に誘う原因を、神聖な神のわざだというなら、義なる神は矛盾することになるでしょう。アブラムはエジプトの力や彼らが異教の人々であることを恐れて、自分を守ろうとし、そしてそのような計画、嘘を利用してしまったのでした。それは紛れもない罪です。まだ十戒が形として与えられていない時代ですが、偽りの証言をしてはいけない、姦淫してはいけない、という神の戒めは、堕落以後、変わらない神の御心であり、その戒めの前に例外は決していない。信仰の父アブラムであっても例外ではないことが教えられます。事実、アブラムのしたことで、この後、エジプトの王パロは、アブラムによくしてやりアブラムは豊かになります。しかしアブラムの嘘のゆえに、知らないでサライを妻として召し入れたパロに、17節、神の怒りと災害が降るのです。そのようにアブラムのしたことが偽りの証言であるからこそ、罪の種が蒔かれることになってしまったことがわかるのです。


3.「神の怒り(律法)と憐れみ(福音)」

 結局、パロは、アブラムの偽りの言葉を知り、18節、

「そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。」18〜20節

 とあるのです。パロはアブラムを責め、サライをアブラムに返し、そしてアブラムを殺すことなく、全ての所有物、つまり奴隷や家畜とともに送り出した、おそらく追放したのでしょう。しかし神からの怒りに対して、エジプトの王は、神を恐れ適切に対応したのでした。

 しかしここで一つ教えられることがあります。罪に例外はないゆえに、知らず知らずのの罪や、人の欺きによるものであっても、罪は罪であるがゆえに、神の怒りがパロに降ったのはわかるのですが、17節で「しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロとその家をひどい災害で痛めつけた。」と、「パロとその家を」とあることです。つまり、嘘をついたアブラムにとは書かれていないことを、みなさんは不思議に思わないでしょうか。神は平等であるなら、嘘をついて、サライやパロを危険に晒したアブラムも怒りや災いを受けるべきではないかと。「人の前」ではそのように疑問が湧いてくるでしょう。しかし、ここに大事な点があるのです。アブラムのしたことは、たとえ、半分事実でも、嘘は嘘です。半分の嘘だから軽いとか、単なる嘘だから軽いなどいうことは神の前にはありません。嘘も、隠れたところでの人への中傷や悪口も、それが心の中での思いであっても、そして殺人も、すべて同じ神の前には重大な罪です。しかしなぜ「パロとその家を」とあり「アブラムとその家を」とはなっていないのか。それは「神の前」に恐れがあるかないかによって、神は律法と福音を区別し用いられるということです。


A,「神の前に罪深いことを恐れない人へ:律法が用いられる」

 パロは天地創造のまことの神を知りませんでした。ですから彼らの神々はあっても、まことの「神の前」では、彼は王でもありますから、自分は罪も間違いもないと高ぶる存在であり、神の前に自分の罪を心配することもなく安心し切っている一人であったことでしょう。そのような相手には、神はまず律法を用いて、罪を知らせ、神を恐れさせるのです。事実、イエスも、自分は良い行いを行っているから、罪はないと安心しきって、罪を心配することなく、自分を誇って、イエスの前にやってきたパリサイ人たちには、律法を語り厳しく語っているでしょう。パロは、律法で刺し通されたからこそ、この出来事の後、彼は神を恐れ、そしてアブラムに悪いようにはしなかったでしょう。神を恐れることを知ったからであり、それは神の律法の働きによるものであったのです。


B,「神の前に罪を悔い恐れ平安のない人へ:福音が用いられる」

 ではアブラムはどうでしょうか。彼は、天地創造のまことの神によって、一方的に語りかけられ約束を与えられ、神を知り、偶像礼拝から救い出されました。その時には、悔い改めが与えられ、そして憐れみ深い神によって罪赦され、そのような自分に祝福を約束してくださる恵みを知ったことでしょう。その約束と恵み、神の真実さを知り信じる、与えられた信仰が、彼がどこへ行くのかわからず、神の示す地へと出発させる力でもありました。そのように彼の信仰生活と旅は恵みから始まっていました。しかしそのようにみ言葉と聖霊に日々導かれているものは、神の前にあり、神の言葉があるのですから、日々、必ず、罪を示され、日々刺し通され、日々、自分の罪に苦しみ、葛藤し、日々、神の前の悔い改めるものなのです。クリスチャンとはそのようなものであり、そのような悔い改めの日々です。しかし、そのように神の前に罪深いことを知り、恐れ、自分の犯してしまう罪に恐れ苦しむ者に対して、神は、なおも律法で刺し通そうなどとは決してなされないということです。アブラムはこの嘘をついた時点で平安がなかったことでしょう。エジプトではうまく行っています。多くの富も与えられます。しかし彼は、神の前の自分の罪ゆえに平安はないのです。神の前にあって、その嘘、自分の罪深さ、平安のなさ、自分の罪ゆえの苦しみを実感し経験しています。そのような罪に打ち砕かれているものに、神は律法のハンマーを降ろしたりはしないのです。そこで必要なのは福音なのです。悔い改めるものには福音が必要なのです。それがここで「アブラムとその家族を」と書かれていない意味だと言えるでしょう。


4.「むすび」

 みなさん。私たちも同じです。私たちにもイエスは、日々、律法と福音の言葉で語ってくださっています。私たちが神の前にどんな小さな罪でも、自分たちには罪はない、正しい、と、罪を恐れないで自分の罪に安心している時には、律法で私たちを責めて刺し通すのです。それは神を恐れさせ、悔い改め、神に立ち返らせるためです。一方で私たちが、もうすでに、日々、みことばによって罪を示され刺し通され、自分の罪に苦しみ悲しみ恐れる時、イエスはそんな私たちにもはや律法ではなく、福音をこの十字架と復活を指し示してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ今日も悔い改めここにいるわけですから、このイエスの十字架と復活の福音を受けましょう。罪の赦しと新しいいのちを受け取り、今日も安心して平安のうちに世に遣わされて行こうではありませんか。





<創世記 12章9〜20節>

 9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するため  に、下って行った。この地のききんは激しかったからである。

11 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。

  あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。

12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あな

  たは生かしておくだろう。

13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あな

  たのおかげで私は生きのびるだろう。」

14 アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。

15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れら

  れた。

16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろ

  ば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。

17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。

18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたの

  か。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。

19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。

  しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」

20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物ととも

  に送り出した。