2021年7月18日


「困難を通しての恵みの歩み」
創世記12章8〜9節

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1.「前回」

 前回は、主が言われた言葉に従い、旅を続けるアブラムとその一行が、カナンの地を通った際、既に定住していた異教のカナン人たちの現実に直面した時に、主がアブラムに現れてくださった恵みを見てきました。主はアブラムに、アブラム自身ではなく「あなたの子孫に」と、その与えると言われた約束を彼自身は生きて見ることはないことを示唆したのですが、だからとアブラムは、その約束を自ら実現しようと土地を自ら占領し自らの力で得ようなどとはせずに、その約束を感謝して受けれ、むしろ、その主が現れ語ってくださったその場所に祭壇を築いて感謝の礼拝をしたのでした。そこから礼拝というのは、「しなければいけない」あるいは「人の何かで実現していく」ような「律法」ではなく、「神がしてくださった」キリストとその福音に立ち、生まれ、キリストと福音の言葉に集められる「福音」であり、私達もそのようにキリストの恵みと福音のうちに集められ、今日も受けることができる福音の罪の赦しと新しいいのちと平安の恵みを教えられ遣わされたのでした。さて、今日は8、9節を、ルターの創世記講解を参考に共に見て行きましょう。


2.「そこからベテルの東にある山の方に」

「彼はそこからベテルの東にある山の方に移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のために、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。」8節

 前回7節で、主がアブラムに現れ、アブラムは主が現れてくださったその場所に祭壇を築いたとありました。その場所は6節にあるとおり「シェケムの場、モレの樫の木のところ」とありましたが、アブラムは「主が現れてくださった」その場所に祭壇を築いた後に、そこにとどまるのではなく移動しました。それは、そのその地には「カナン人が住んでいた」とありましたように、カナン人は天地創造のまことの神を信じる人々ではなく、アブラムたちには友好的ではなく敵意や何か暴力的な兆候が見られたようです。アブラムはハランからやってきたよそ者でありましたし、それだけではなくカナン人の神々への偶像崇拝から見れば、アブラムの信じる神のへの信仰は異なる信仰でありましたから、カナン人と同じように集まって礼拝をしたりもしませんし、カナン人の神々に従う事も当然しなかったからだとも言えるでしょう。そこで異教の人々は、アブラムがモレ樫の木のところに祭壇を築いたように、それに対抗するようにベテルに偶像礼拝のための礼拝する場所と祭壇を築いたのではと言われています。このベテルという名の地名は「神の家」という意味の敬意ある名前であるので、カナン人たちはベテルを神を礼拝するために適したところと考えたようなのです。事実、後の歴史でも、列王記12章28〜29節を見ると、王国が分裂しようという時代です。ダビデの家に逆らった北のイスラエルの王ヤロブアムは、自分を王としたイスラエルの民が、南ユダのエルサレムにある主の宮で礼拝するために南に登って行くことになると、南のユダの王レハブアムにみんな戻ってしまうことを恐れてエルサレムに登る必要がないように、金の子牛の偶像を二つ作って「ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる」といって、その金の子牛の一つをベテルに置いたことが書かれています。アブラムの後にこの地はルズとも呼ばれるようになりましたが、孫のヤコブは、神が自分に現れてくださり約束を与えてくださった時、その場所をベテルと呼んでいます。いずれにしましてもアブラムは、そのカナン人の様々な影響を避けるように、ベテルから東へ行くと山があり、その山を挟んでアイという街があるのですが、その二つの街の間の山の近くに移動して天幕を張ります。そして改めて祭壇を築いたのでした。


3.「まことの神への信仰に進む」


A,「その地を離れ、祭壇を築く」

 ルターは、ここにもアブラムの信仰を見ることができると解説しています。それは、そのようにやってきた所にはカナン人が定住していて、定住者たちは「よそ者」としてのアブラムたち、というだけでなく、何よりアブラムたちの信じる、最も古く、しかしカナン人にとっては奇異で目新しいその信仰や真の神に対しても、好意的ではなくむしろ敵対的で、そして争うように礼拝する場所や祭壇を偶像礼拝のために立ててくる、そんな中にあっても、アブラムは決して自分の神への信仰を曲げなかったということです。アブラムは移住の人々であり、当然、行く地行く地の定住する人々の中では小さな集団、少数派です。このカナン人が定住する人々の中でも、彼らカナン人は、遊牧し移動するアブラム達と異なり、街を築き文化的にも発展した社会で、多数の人々の信じる神々が華やかに礼拝されていたことでしょう。人の目から見るなら、目に見えるものに誘惑は沢山あったことでしょう。人は、そのような多数派の流れとリズムと価値観に従って、その地で人々と仲良く暮らし、ともに定住する方がなんと楽なことと思うことでしょう。人間は長いものに巻かれ、勝ち馬にのり、多数派に従い、流行りに乗ることがいかにひと時の安心感をもたらし、孤独や苦労も解消したり少なくすることをよく知っているものです。ましてその多数派の偶像崇拝者達の攻撃的な態度があれば、自分達や仲間を守るためになおさら妥協したほうが楽でもあるでしょう。しかしアブラムはそのようにはせずに、狭い道であるが目に見えない真の恵み溢れる、天地創造の神への信仰に進んだのでした。彼はひとまずそこから離れ、山地に移動します。そしてそこで再び祭壇を築き、「主のみ名によって祈った」つまり真の神へ礼拝をするのです。

 そして、その祭壇で何をするでしょうか。アブラムにとって祭壇は彼一人のプライベート空間ではなく、むしろ伴っている全てに人に神の約束、神の御旨を伝えるためのものです。そしてこのような時であるからこそです。彼らがそのような困難に囲まれているときこそ、その場所は、信仰の生活の良い学びの場にもなったことでしょう。この困難な状況でこそ、自分たちの罪深さや弱さと共に、そこに現される神への真実さと恵みを、そしてこの移動の旅であっても、神の約束のゆえに未来に揺るがない希望があることを、アブラムは教え、強め、彼らとともに祈ったということを「祭壇を築いた」そして「主のみ名によって祈った」という言葉は意味しているのです。


B,「困難と問題はなくならない」

 皆さん。神から語りかけられ信仰が与えられ、信仰の旅へと導かれた私たちの歩みもまた、同じように困難と誘惑は絶えることはありません。問題もなくなることはありません。なぜなら、罪人の社会を生きており、私たち自身も罪人、正確にいえば「義人にして同時に罪人」だからです。問題は絶えず起こるのです。問題のない状況が理想で、それを目指し、そうでなければいけないということでもありません。なぜなら、そうなると常に律法に縛られ、自分や隣人を裁き、非難し、信仰における一致もなく、そしてただ要求する教会生活、信仰生活になり、何より平安がなくなるからです。地上にあっては、私達が「義人であり同時に罪人」である以上、罪と誘惑と艱難は常に起こり、日々の戦いであり、しかし神によって信仰を与えられている私達は、アブラムのように、そのような中でこそ従って行くのがクリスチャンの歩みの現実なのです。


C,「試練を通して神が育てる」

 しかし、大事な点はその「従う」です。信仰の歩みは、律法としての従うではないと学んできました。そのようにそのような問題と困難の中でこそ、イエスは私達とともにおられ、今や、私達がイエスのために祭壇を、ではなく、イエスが、ご自身が私達のために成し遂げてくださった十字架と復活のもとに、真の神殿と祭壇と礼拝を私達のために立て、私達を常に招き、集め、何度でもみ言葉と聖餐で仕えてくださっているのが「霊とまことによる礼拝」であり「今がその時」だと前回も見たでしょう。そう、私たちが弱く、倒れ、罪深いからこそ、そんな私達を裁くためではなく、むしろそのような困難や試練、問題や挫折や失敗を通してこそ、イエスは常にこの真ん礼拝に集め恵みのうちに立たせ、そしてみ言葉によって本当の意味で成長させてくださるのです。ですからむしろ困難や試練、問題や挫折、どんな失敗も、罪でさえも、イエスはそのあわれみのゆえに、いつでも私たちを教えるためのテキスト、学びにしてくださるのです。いやむしろイエスはそのような方法を用いるのです。事実、人間は罪深いもので、順境で上手くいき、成功し、繁栄しているときこそ、自分の無力さ、罪深さを忘れ、神よりも自分や自分たちの力がそれを果たした、達成した、功労者であり、自分たちの功績がそれをしたかのように高ぶりやすいものです。サムエルの時代のサウル然り、サウルだけでなく、あのダビデもそうでした。彼の高ぶりと罪は、王になり、国が繁栄し成功している中でこそ、生まれ、彼は一度ならず何度も罪深かったことが、記録されています。そして、それはソロモンもそうでした。しかし、サウルは悔い改めず滅びましたが、ダビデは、その自分の罪を示され、刺し通された時にこそ、自分の無力さ、罪深さを神に叫び、悔い改め、そして、神の憐れみと恵み、罪の赦しを与えられ平安になり、そのように彼は、苦難と恵みの言葉を通して教えられてこそ霊的に成長して、数々の詩篇を残しているでしょう。ですから、成長というのは、目に見えて、良い行いや奉仕などができるようになった、罪を犯さなくなった、などなど、目に見えるものの完全さや達成度を、数値やパーセンテージなどで測ったり、グラフで表せたりするものだと思うなら、神の恵みも、神の取り扱いや、自分自身さえも、そして聖書のいう真の成長も皆、見誤ることになり、むしろ日々、自分が作り出す、律法や目に見える達成基準や目標などで、自分や人に要求したり、足枷をしたり、達成できないと自分や人を責めたりする様になり、結局、自分にも人にも平安はもたらせなくなります。聖書がいう、真の成長は、試練や苦難、挫折や失敗など、人間にとってはマイナスであるとか意味がないと思うことを通して神がそれらを用い生み出すものであり、その様なことを通して、何より自分の罪深さ、無力さを知ることから悔い改めに導かれ、そこにこそ神からの罪の赦しと新しいいのちがあることを、何度忘れても何度でも教えられることによって、神に全てのことを信頼するようになるまで、神が訓練し、神が教え、神が成長させるのです。それはクリスチャン個人にとっても教会にとっても全く同じです。教会は集団だから、その様な教理的なことは全く重要ではない、ただ実践、行いあるのみという人もいますが、実践・行いはその人のどんなものであれ考えや思想に基づかずになされることは不可能なのですから、実践・行いと教理は分離できません。ですから、律法的な教理に立てば実践・行いは律法的になりますし、逆に、福音にしっかり立って生かされ派遣されるなら、実践も証も福音になります。教会も、信じる信徒、クリスチャンの集まりですから、一クリスチャン同様に、困難を通してこそ、福音によって派遣され、キリストによって霊的に成長させられていくものなのです。


D, 「罪、弱さを知るからこそ神に頼れる」

 ですから皆さん、弱さを覚える、罪深さを覚える日々、それは苦しいことですが幸いです。イエスが常にみ言葉を持って、その自分の弱さや罪深さの現実を、イエスが語り教えてくださり気づかせてくださっている素晴らしい恵みの時だからなのです。なぜなら、そこに十字架と復活のイエスに出会い、その素晴らしさを私たちは知ることができるからです。それは、自分の罪深さ、弱さ、無力さを知ることがなければ決して知ることはないことです。常に成功し繁栄し上手く行っている中では決して気づき得ないこと、いや、むしろますます高ぶり人の行いや自分の行いを誇る自分しかいなかったことでしょう。クリスチャンはいつでも常に、罪深さを示されて当然なのです。いやむしろそれが健全な成長の痛みなのです。罪深さと弱さを知るからこそ「神の御名によって祈った」(8節)は生まれるではありませんか。自分の弱さ罪深さ、無力さを気づかず、高慢で、人の行いに何か信仰のために力があるかの様に誇る時に祈りなど決して生まれません。弱さ、罪深さを知るからこそ神に頼ります。神はそこにまず導いているのです。同じ様に、困難や試練も、挫折や失敗も、神は豊かにそれを用いて、私達に神の見えない本質の素晴らしさ、恵みの素晴らしさ、救いの素晴らしいを、ますます教え、ますます父子聖霊なる主を信じ、信頼させ、確信させてくださるのです。パウロは言っています。


「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」第二コリント12章9〜10節


 そして、ヘブル書の記者も言っています。

「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヘブル12章10〜11節


4.「むすび」

 素晴らしい約束ではありませんか。アブラムの成長のために働いていた神が、私達の成長のために常にこの様に働いてくださっていることが約束されているのです。私達は罪人ゆえに、決して、自分自身の力や努力で、イエス・キリストを信じたりその信仰を強め、成長させ、確信させるなんてことはできません。不可能です。しかし不可能なことを何か真の敬虔であるかの様に教え、信仰生活を律法にし、律法を最後の言葉に、律法で遣わすようなことをするので、クリスチャン生活に、教理、聖書の恵みや福音との矛盾が生じてきて、クリスチャンはその矛盾に苦しむか、その間違いを当然の価値観のように生きる悪循環に陥るかのいずれかになってしまうのです。信仰は神の賜物。私達が自分たちで得たり強めたり、確信させることは決してできません。イエスのみがみ言葉を持ってそれをすることができるのであり、その時に、日常の様々な苦難や試練、失敗や挫折や犯してしまう罪のその場所にこそイエスはおられ、それらを用いて常に語り続けられるのです。まず律法によって私達がどこまでも神の前には罪深い存在であることを教え、悔い改めさせますが、そこにイエスが輝く真の解決、真の救い、最後の言葉として福音を語り、罪の赦しと新しいいのちを宣言し、断言してくださるからこそ、その様に日々、試練と艱難の中で、律法と福音によって取り扱われ、何度倒れてもイエスによって立ち上がらされ平安のうちに遣わされていきます。そのようにして私達は、ますます父子聖霊なる主なる神を、ますます信じるように、ますます信頼するように、ますます確信させられていくように、イエスがしてくださり、常に働いておられ、そのようにイエスが、真に私達を成長させてくださる。私達がそのように真に福音のうちに成長させられていくなら、自ずと教会も福音のうちにイエスが霊的に成長させてくださるのです。アブラムもその一歩としての祭壇でもあり、その恵みがあるからこそ、そこに意地でも定住しようと人間の謀に生きようとするのではなく、9節「それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。」とそこからさらに移動を続けるのです。神の恵みに支えられてです。さあ、今日もイエスは言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、福音をそのまま受け取り、ぜひ安心して、ここから遣わされて行きましょう。





<創世記 12章8〜9節>

8彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東には

 アイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

9それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。