2021年7月11日


「そこに祭壇を」
創世記12章7節

■音声はこちら


1.「前回」
 前回は、アブラムが、妻サライと甥のロトと、家畜や僕達とともに、神の「示す地へ行きなさい」という言葉に従って出た旅でしたが、困難と葛藤の連続でありながらもで神はそんなアブラムに再び現れ、語りかけ、そして祝福の約束を語ってくださった。そのように信仰者の旅路には、神は必ず伴ってくださり、弱いときにこそ、神は必ずいてくださり、困難にあって弱いときにこそ、み言葉と約束を与えて立たせ進ませてくださることを教えられました。そして、その神の約束は「あなたの子孫へこの地を与える」と、アブラムが見ることのない約束でもありました。しかしアブラムは、その地が「あなたの子孫へ」とはいえ「与える」と具体的に示された場所だからと、自分が神のためにと自分の意思と願望と力で、その地を得て行くことはせずに、彼は神の言葉に従い旅を続けるのでした。今日は7節後半をルターの創世記講解を参考に見て行きます。

2.「主がアブラムに現れ」
「そのころ主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた」7節
 「主がアブラムに現れ」とあります。神はモーセに、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33:20)と言っているように、父なる神は、ご自身を見るものは、生きていることは出来ないと言われました。それは新約聖書の言葉でも「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」(第一ヨハネ4:12)とあります。ですから初代教会の教父の中には、ここで現れた主は見ることができない父なる神としてではなく、三位一体の神の一人格として、創造のはじめにおられ、創造主でもあり、見えない神の見える形で啓示され、世に降られるお方である子なる神、キリストがアブラムに現れたとされていたようです。事実、ヨハネも「いまだかつて誰も神を見た者はありません」と記していますが、自分もその目で見たイエス・キリストを指し示して「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1章14節)といい、また、イエスの証言として、神を見せて欲しいというピリポに対して「わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか」(14章9節)と記しています。ですから、主は確かにアブラムに現れ、アブラムは主を確かに見ました。「自分に語ってくださった」とか「自分に幻を現してくださった」とかではなく、はっきりと「自分に現れてくださった主のために」とあるからです。しかしアブラムは生きていることができないわけではありませんでした。それは見ることができない神の、目に見ることができる本質であり啓示である御子が現れてくださったというのは、もっともな理解だといえます。

3.「祭壇を築いた:礼拝とは?」

A,「約束を与えた神へ」
 いずれにしましても、アブラムはこの神の言葉に答えます。「あなたの子孫へ」と、自分は見ることはないけれども、自分の子孫が必ず見ることができる、その約束に成就の恵みを彼は信じて、ここに祭壇を立てるのです。何度も言うように、神のみ言葉をアブラムの願望で都合のいいように解釈して、自分で自分の願う神の栄光を見ようと、その与えると言われた地を、積極的な行動で征服しようとか、自分たちでそこを勝ち取り神の国を立てて、自分たちで神の栄光を表そう、実現しようなどとはせずに、彼にとっては「自分が生きている間に実現する」ではなく「あなたの子孫に」と期待していたものとは違っていたことであったとしても、その人の思いでは計り知れない神の約束、恵み、福音を、信じ、受け入れて、そして、感謝して、祭壇を築いたということなのです。そこで罪を悔い改め、祈りを献げ、神を賛美し、神への生贄を献げるためです。そして彼は、自分一人のためではなく、後にイサクが礼拝の生贄のことをよく知っているように、祭司として、伴って一緒に旅をしている人々にも、神の約束のもとに集まり礼拝することを教え、神の恵みと祝福を取り次ぐことにあったのです。ここに礼拝の原型があるのです。ここで大事なことは「神への礼拝」です。それが「神への」、悔い改め、祈り、感謝、賛美、献げものでなく、対象が、神以外の、聖人と呼ばれるような優れた人や指導者や物、等々への、悔い改め、祈り、感謝、賛美、献げものであるなら、それは本物の礼拝ではないことが見えてきます。「神の前」「神への」祭壇であるということです。

B,「福音から生まれる礼拝」
 しかし、加えて大事なことがあります。それはこの祭壇を築いたのはなぜか?それはアブラムの計画と意思、彼から生まれ、彼らか出た、一方的に彼からのものなのでしょうか。そうではないでしょう。ノアの時も、またそれより前の、初めて神に求め祈ることを始めたセツの時も同じように、本当の心からの祈り、悔い改め、礼拝は、皆、罪深い人間自らから生まれないものでした。神によって導かれたものであり、神のことばによって神の前に罪深さを示されたからこそ彼らは悔い改めに導かれ、そこに神の深い憐れみと恵みと御業を彼らは知ったかこそ感謝が生まれ礼拝へと導かれていました。アブラムも同じでしょう。偶像礼拝にいたものに、神の方から現れ語りかけてくださり、悔い改めと信仰を与えてくださった、約束を与えてくださった、それゆえに彼は神の言葉の通りに出発しました。そしてその道が困難に満ちていて、弱り果てたその時こそ、神はそこにいないのではなく、むしろいつも共にいてくださり、そして現れてくださり約束を更新してくださった、その神の憐れみと恵み、そして神の約束、福音がはっきりと示され与えられ、彼がそれを受け取ったからこそ、そこに「アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」となっているということがわかるでしょう。本当の礼拝は福音から生まれるのです。つまり「私たちが神のためにしなければいけない」律法から生まれるのではなく、「神が私たちのためにしてくださった」福音から生まれる始まっているのです。もちろん礼拝での悔い改めは、律法によって刺し通されることによって与えられるものです。それは日々の生活でのみ言葉の働きや、礼拝で語られる律法によってもあるでしょう。しかしクリスチャンは日々罪深い自分に誰もが気づかされながらも、礼拝にイエスが集めてくださるのは、律法によって、促され、律法によって礼拝し、律法によって遣わされるためですか?そうではないでしょう。罪深さに刺し通される私たちのために、ご自身の救いの核心である福音の約束のうちに集めて、その罪の赦しと平安を宣言してくださるためであり、そこに罪の赦しがあり、平安がある、そこにイエス様は今日も集めてくださっていると信じるからこそでしょう。信仰において礼拝へと促されているのです。人間的な思いや、人間的な動機や目的、損得勘定やご利益を期待して、集まってきているのではありません。福音によって促され、福音によって与えられた、イエス・キリストとその十字架と復活の、罪の赦しと新しいいのちを信じる信仰のゆえです。イエスの律法と福音の言葉が語られ、罪赦され平安のうちに遣わされるところが、真の教会であり真の礼拝であるのです。

C,「そこに:人ではなく主が選び建てた場所」
 事実、この場所です。アブラムは自分の好みでにこの場所を選んで、祭壇を立ててはいません。7節には「そこに」とはっきりと書かれています。つまりアブラムが神のために、環境のいい最高の場所を選び、奪ってでも獲得してそこに祭壇をということではなく、「そこに」です。つまり神が現れてくださったその場所です。つまり神が選んで現れてくださったその場所です。場所までも彼は、自分の主導権や思いや願望ではなく、主が決定者であり、主が現れ、主が約束を宣言してくださった「この地」として、主が建ててくださったものとして、祭壇を築いていることがわかります。どこまでも主の言葉と主のわざ、主の選択、決定に、彼は忠実であることが「そこに」という言葉にはあるでしょう。それはアブラムの孫にあたるヤコブも同じでした。創世記28章17節ですが、彼が神によって、天の使いが天に届くはしごを登ったりくだったりしている幻を与えられた時に、彼はこう言っています。
「彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」」28章17節
 彼も「この場所は」「こここそ神の家、天の門だ」といって、その石を枕にしていたその石の上に油をそそぐでしょう。この時も、その場所自体は、ベエルシェバからハランへと向かう旅の途中の何もないところで、石を一つとって眠りについただけのところです。彼自身がこここそ神のために最高の場所だと選んで寝床として選んだのではありません。むしろ彼は「神のため」どころか、自分の罪のゆえに家を追われた後であり、罪深さを覚え苦難の中での旅の途中であったことでしょう。しかしやはりそんなヤコブのために、神の方から夢と幻を通して語りかけて言葉を与えてくださった恵みと福音の場所であり、そのことから、この彼の礼拝は生まれているでしょう。つまりアブラムにとってもヤコブにとっても、その地、その礼拝が聖であるのは、アブラムの何か、ヤコブの何か、人やその土地自体や被造物に見ることができる、何か優れた点があるからとか、何か功績があるからとかそんなことでは全くない。そこに何より先に神の言葉があるから、神の言葉が語られ、神が約束、恵み、福音を与えてくださったからこそなのです。パウロはテモテに言っています。
「神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」第一テモテ4章5節
 「聖められるのは、神の言葉と祈りによって」と。パウロは、「人の祈り」とも言っていません。神の祈りだと。つまり聖人の祈りや人の祈りがきよめるのではなく、神の言葉と神の祈りによるのだと。私たちの祈る祈りも、私たちに何か力があるからではなく、イエスが私たちのために執り成しの祈りを祈ってくださるからこそ、そしてイエスの名によって祈る時に、イエスの力が働くからこそ、私たちの祈りは、父なる神に受け入れられる祈りとなります。そのようにイエスがおられ、イエスの名による祈りがあり、イエスの言葉が宣言されるからこそ、つまり人によってではなく、神ご自身によってこそ、そこはどんな場所であっても聖なる場所とされるのであり、そこが本当の教会、本当の礼拝だということなのです。

D,「石や山に価値があるのではない。イエス・キリストとその言葉に」
 ですから、アブラムはそこに祭壇の石を積み、ヤコブはその場所に枕にしていた石を柱に立てましたが、礼拝も教会も、その石が重要なのではありませんし、そのような目に見える被造物であり、外的な形である石が教会を定義し、教会たらせるものでも、教会の本質であるということでもないということです。荘厳なエルサレム神殿を前に、弟子のひとりがイエスに「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」と感動する場面があります。そこでイエスはそのように石で積み上げれた立派な神殿に感動する弟子に次のよう言います。
「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マルコ13章2節)
 と。イエスは真の神殿は石の積み上げられたところではないことを伝えています。神殿、礼拝は、豪華な建物が重要なのではない。神殿の石は崩れ去ります。エルサレム神殿もそうですし、世の栄華とはそのようなものです。それに対して、イエスはヨハネの福音書では、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:19)と言い、ヨハネはその言葉は「イエスはご自分のからだの神殿のことを言われた」(ヨハネ2:21)と証ししています。そう神殿は石ではなく、イエスの身体、イエスそのものであり、イエスとその言葉のあるところであることをイエスご自身が示しているのです。また、ヨハネ4章のサマリヤの女は、「あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」(4:12)と、先祖ヤコブがそこから飲んだ井戸を見ていて、被造物である井戸、被造物である先祖ヤコブの偉業に誰かの偉さや聖さを見ていたり、礼拝についても、やはり目に見える被造物である先祖が登り礼拝した山に見ていた(4:20)、あるいはそのようにその場所から、水を飲んだり、その山で礼拝したりするその行いばかり見ていました。同じように行えば、神に喜ばれる、きよい、ご利益があるのだと。しかしイエスはそこでこう言っています。
「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4章13〜14節
 そして、山と礼拝についてもこう言います。
「私の言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るものですから、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」4章21〜24節
 大事なのはヤコブや偉大な先祖がどの井戸から飲んだかでもなければ、その目に見える井戸や山そのものでもエルサレムという場所でもない。その先祖のようにその井戸で、その山で同じようにすることでもない。どこまでも大事なのは、イエスが与える水であり、それを飲むことだと、そして霊とまこと、つまり、聖霊とみ言葉だと、イエスは言っています。このように、礼拝と教会も、偉大な先祖の足跡や遺跡にあるのではない、イエス・キリストのおられるところ、イエスのみ言葉があるところだと。そこで、キリストの言葉が、律法と福音の正しい区別で曲げられることなく説教され、福音として、恵みの手段として聖餐が与えられ、そして何よりそこにこそ聖霊は働いておられるのですから聖なる場所です。そしてそのようにして最後の言葉は、律法によって重荷を負わされてではなく、最後の言葉は福音で、平安のうちに遣わされて行くからこそ、それは世において隣人に、永遠のいのちへの水が泉のごとく湧き出ていくのです。

4.「終わりに」
 旧約の歴史をみれば、石が積み上げられた立派な神殿でも、そこで繰り返し偶像礼拝が行われれば、神殿は何の意味がないばかりか、神の怒りが下りました。そのように礼拝も教会も、外側の見た目や人中心で判断する目に見える物事に、礼拝や教会の意義や定義があるのでは決してないし、あってはいけない。どこまでもまことの神への礼拝であり、そしてキリストと福音から生まれ、そこでみ言葉があり、み言葉が正しく宣言されること、そこにこそ、本当の、祈り、感謝、喜びと賛美、献げ物が生まれ、本当の礼拝、教会があるのです。皆さん。今日も、その福音に生まれているイエスの礼拝の前に私たちは集められているのです。ぜひ感謝しましょう。イエスがここにおられ、イエスのみ言葉と罪の赦しが宣言されています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ福音をそのまま受け取り、信じて、平安と喜びのうちにここから遣わされて行きましょう。




<創世記 12章7節>
7そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と
 仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。