2021年7月4日


「主がアブラムに現れ」
創世記12章5〜7節

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1.「前回」

 アブラムが、神が祝福を約束したその言葉に従って、どこだかわからない、神が「わたしが示す地」と指し示す道へと、与えられた信仰によってハランから出て行ったところを見ています。前回、アブラムは自分の家畜や僕、奴隷などを引き連れて一人で行ったのではなく、もちろん妻サライも一緒ですが、甥のロトも一緒に出かけたところを見てきたのでした。それは妻サライや、甥のロトにも、アブラムは、自分が経験した、主の約束とそこにある圧倒的な恵みを証しをし伝えたのであり、その福音と聖霊の働きを通して、それまで偶像の神しか知らなかったロトも、天地創造のまことの神を知り悔い改めと信仰が与えられたかこそ一緒に出かけたと言う事実を見ることができました。そしてそこに、真の福音の宣教というのは、昔も今も変わらず「しなければいけない」と言う律法ではなく、どこまでも「主が私のために全てをしてくださった」と言う福音と、そのことを信じる信仰から溢れ出る喜びと平安と希望の証しであり、アブラムの口からその福音と恵みの喜びと平安と希望を聞いたからこそ、妻サライ、甥のロトに、神が約束した通りに、アブラムという信仰者を通して祝福が取り次がれ、同じように、私たちを通しても取り次がれて行くのだと言うこと、そして福音はそれほどまでに力が溢れており、福音宣教というのであるなら、その宣教はどこまでも律法ではなく福音が動機であり、福音から始まり福音に進ませるものであることを教えられたのでした。さらにはその福音宣教にとって何より大事な一つのことは、イエスがルカ10章でマルタに話したように、イエスの言葉に聞くことであり、それは人の目には弱々しく力のないように見えるのですが、福音を信じるものにとっては神の力であり、福音の言葉に聞き平安と喜びと希望が湧き上がるからこそ、良い行いをせずにはいられない、伝えずにはいられない、そのようにして福音の言葉、十字架の言葉に聞くことこそが宣教にとって大事な一つのことであり、そこからこそ本当の宣教も、良い行いも、隣人愛も始まるのだと言う恵みを教えられたのでした。


2.「カナンの地へ行こうとして」

 さて5節後半部分でアブラムは「カナンの地に行こうとして出発した」とあります。12章1節では「わたしが示す地へ行きなさい」とありました。ヘブル人への手紙11章8節

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しをうけたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで出て行きました。」ヘブル11章8節

とありました。アブラム、後にアブラハムという名を与えられますが、彼は「どこへ行くのかを知らないで、出て行きました。」とあるのです。ですから「カナンの地に行こうとした」とあるので、どこへ行くのか知っていたのでは?矛盾しているのでは?と、思われるかもしれません。しかしアブラムは確かにどこへ行くかはまだ知らされていませんでした。なぜカナンの地に向かって出発したのかというと、カナンの地が子孫へ与えられると知っていたからではありません。そのカナンの地の約束は後に与えられているものです。ルターは創世記講解でこのところを解説しています。アブラムがカナンへ向かっていたのは、11章31節にある通り、まずハランに来る前、お父さんのテラがアブラムたち家族とともにカルデヤ人のウルを出発したのはカナンに向かってでした。しかしお父さんテラは途中のハランでカナンに行くことをやめハランで定住しそこで死にました。テラがなぜ最初カナンに向かっていたのかわかりませんが、しかしカナンの地の、後にシオンとも呼ばれるサレムには、先祖であるノアの息子のセムが住んでいました。セムは聖書に従えば、600年生きたことになり、アブラムが死んだ時も生きていたことになります。見てきたように、セムの兄弟、同じくノアの息子ハムの子、ニムロデの繁栄した国家がこのセムの住む地域に入ってきてバベルを建てました。しかしバベルは崩れそして繁栄した国家は散らされましたが、その地域に定住したハム、ニムロデの子孫がカナン人です。そのカナンの地のサレムにセムが住んでいたのです。一説では、この後、出てくるメルキゼデク王はサレムの王とも呼ばれますが、セムとメルキゼデクとを同じ人物とする言い伝えもあると言われています。テラがそのセムを目的にカナンに向かっていたかどうかはわかりませんが、しかしアブラムは今やそのように天地創造の神からの一方的な語りかけと約束によって信仰が与えられ、神の「わたしが示す地へ」がどこなのかわからないで、信仰によって出発する時に、彼は先祖ノアの、しかもノアとともに神の言葉を受けた人である存命中のセムに会い行き、祭司であるセムの教えや助言を受け、主が具体的にこの地であると指し示す時が来るまで、セムの語る証しに慰めをもらいたいと望んだのではないか、ゆえに、アブラムはカナンへと向かったのだと、ルターは解き明かしています。何れにしてもアブラムはカナンが神が約束し指し示す地であると知って向かったのではなく、ヘブル書で証しされている通り、どこだかわからないで出発した。つまり理性や計算などの人間の力や理解から生まれた旅ではなく、どこまでも信仰によって出発した旅であったということなのです。


3.「その地にはカナン人がいた」

 事実、6節、アブラムと一行はカナンの地にやってきてその地を通りますが、6節の終わりに「その地にはカナン人がいた」とあります。サレムのセムに会いに来たのかもしれませんが、そこに至るまでにはカナン人という悪しき隣人たちがもともと定住する地である現実を目の当たりにします。アブラムの生涯は、カルデヤ人のウルから始まり、ハラン、そしてカナンと、移住と移動の連続の生涯であったことでしょう。そして、行くところには、既に定住する天地創造の神を信じない人々です。サレムのセムに会えたかどうかもわかりません。おそらくまだこの時は会えなかったのでしょう。このようにアブラムの旅の現実を見る時に、行くところ行くところ、全てが至れり尽くせりで備えられているわけではありません。具体的にここに行けと示されたわけではなく、とりあえず向かって目指したカナンでは、好意的ではないカナン人たちの影響と生活が既あります。そのように出発しても、アブラムと一行は、主が行けと言い、その主の言葉に従ったからと、決してバラ色の快適な優雅な旅ではありませんでした。どこだかわからない旅であることは変わらず、しかも目の前には困難な現実が広がっています。人間の計算や理性では、やめて戻ってしまった方が得だ、合理的だ、計算できる。まさにモーセの時代の、エジプトを脱出した民が、困難な現実を前にして、奴隷でも、前の方がよかった。豊かだった。繁栄の下にあり食べ物にも困らなかったと、不平を言ったようにです。人間の目や価値観でみるなら、そんな現実であり、そんな判断になるのが当然なのです。しかしこのアブラムの旅が信仰の旅であることが明らかなのは、彼は、そのようにどこだかわからなくとも、そして目の前に困難な現実があっても進むのは、彼の拠り所がそのような前の豊かさや繁栄、過去の栄光や、安心、安定、などの自分の経験や願望や価値観ではなく、どこまでも神の言葉、神の約束を信じる信仰にあるということです。事実、7節はそのことを示す大事なところです。


4.「主がアブラムに現れ」

「そのころ主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた」7節

 私たちも皆そうであるように、信仰の歩みではあっても、私たちは「義人である同時に罪人」であるという現実があるのですから、罪の弱さも当然覚えます。信仰と疑いは紙一重であり、信じきれない時もあれば、迷う時もあれば、恐れる時もあります。アブラムもその困難な現実を前に、何の迷いも葛藤もなく、完全に信仰的な考え方や心を示していたのかと言うなら、そんなことは決してないでしょう。同じ人間、同じ罪人です。葛藤があり戦いがあって当然なのです。しかし神は、み言葉と聖霊による神からの恵みと賜物と信仰を与えてくださった人を、決して見捨てない。それどころか弱り果てる時、迷う時にほど、そんな葛藤する、迷う、苦難のアブラムに、神は最初の約束を与えたときと同じように、神の方から現れ、そして、語りかけるのです。

「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」

 と。まず神は、見えない神であっても、しかし、アブラムに約束を与えた神は、ご自身は約束を与えっぱなしで遠くで眺め放置ということでは決してない。ともに歩んでくださり、そしてアブラムの信仰や心をしっかりと見守り、アブラムが弱く迷い葛藤する時にこそ、現れ、語りかけ、慰め、強めてくださり、そして約束を思い起こさせ、変わることのない約束を新たに更新してくださるのです。皆さん、これは感謝な約束です。私たちもみな一人一人、間違いなく、神が一方的に現れ、語りかけ、み言葉と聖霊によって、神からの恵みと賜物を信仰を与えてくださった一人一人です。そうでなければ、今、神の前にないはずですし、み言葉を聞こうともしないはずです。紛れもなく、私たちも賜物としての信仰に与り救われている一人一人です。そうであるなら、アブラムの信仰の子孫である私たち一人一人は、紛れもなくアブラムに約束された祝福を与っている一人一人です。そうであるのですから、このアブラムと同じ恵みが私たちにあるのです。私たちが信仰が強く、いつでも迷いがなく、いつでも神のために完璧に何かを貢献できるから、祝福やご利益があるというのであるなら、世の他の宗教、カルト、企業と同じです。私たちが与って約束されている福音は、そのようなものではないでしょう。そう今日のアブラムです。むしろ、迷い、葛藤し、弱いからこそ、困難の只中だからこそ、そこに神はいないのではなく、そこにこそ神はおられる。ともにいる。私たちの苦しみを知ってくださり、そして、み言葉を語りかけてくださる。毎回違う約束ではなく、いつも同じ約束を何度でも語り、思い起こさせてくださり、強め、慰め、立たせ、進ませてくださるのです。ルターは、6節でアブラムに現れた主は、人は父なる神を見たら死ぬのだから、父なる神としてではなく、主なるキリストが現れたとまで言います。しかし私たちにあっては、そのように信仰者を進ませる為にこそ、紛れもなくイエス・キリストが、今日もみ言葉を語ってくださり、律法によって悔い改めを起こさせ、福音と聖餐のキリストの平安に立ち返らせてくださっているのです。これこそ私たちクリスチャンだけが受けることができ、決して世が与えることのできない感謝な祝福であり恵みであり、日々、新しいいのちの歩みではないでしょうか。


5.「あなたの子孫に:目に見ることはなくても」

 さてこの「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」というこの言葉。意味深いです。1〜3節では「あなたに」とアブラムその人への約束でしたが、この神の言葉は「あなたの子孫に」「わたしはこの地を与える」となっています。つまり神の約束は必ず実現するのですが、それはアブラムの存命中ではないということ、アブラムの子孫にこの地を与えるのでり、神のアブラムへの約束は変わらないのですが、アブラムが目に見える形では、生きているうちはそれを見ることがないことを、神は示しているということです。しかし、アブラムはその言葉を受け止めて、それによって励まされ、それによって感謝するからこそ

「アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」

 と続いているということです。まさしくアブラムは、具体的な何かが先にあるから、理性や知識、求めるしるしや知恵が満たされるから、ハランを出て服従したのでも、そのような人間的な希望を妻のサライや甥のロトに一緒に来るように勧めたのではなく、どこまでも信仰の出発であり、信仰の歩みであり、信仰ゆえの祭壇、礼拝であったということが見えてくるでしょう。ヘブル書11勝1節「信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。」とある通りなのです。

 アブラムは、このカナンの地で、そこに自分の思いや願いとか、決意とか、強さで、留まり、定住し、大きな神の国を自分が神のためにたてあげよう、とはせずに、9節の最後に、「旅を続けた」とある通りに、神の言葉を信じて、つまり神がその言葉の通りに、いつとかどんな時とかわからず、実現してくださると信じて、そこからさらに進んで行きます。定住ではなく天幕を張る移民の生活を続けて行きます。アブラムは、移動が続き、エジプトに行き、エジプトからカナンに移動してきますが、そこでもひと所に留まらずに、その後も、ヘブロン、ベエルシェバ、モリヤの山地に移動し居住します。まさに神がその地だと示された後であっても、神が子孫にと言われたとおりに、自分は神のみ言葉によるなら、常に旅人なのです。人間の思いや願望や意思で言うなら、神が示した具体的な地がそこにあるんだから、自分たちの力で、神のために実現してやろう、征服してやろう、私たちが神のために、神の意思を実現してやろう、となりやすいです。事実、そのような、思想、政治、運動、教理、宣教や説教までも、キリスト教会には溢れています。しかし、アブラムはそうしなかった。自分は見ることはないとわかっていても、旅人と移住の歩みが続いて、生涯が終わったとしても、それでも主のなさる目に見えない事柄は、どこまでも希望であり、主のなさることはいつでも時にかなって完全であるし、全ては益とされる、そのようにして彼は信仰の歩み、世にあって困難であっても主にあって平安である移動の旅を続けていったのでした。しかしそれはアブラムの力ではなく、神の約束、神の福音と聖霊の力だということです。


6.「おわりに」

 今日も、私たちは、弱り果て、自分の罪深さを気づかされるからこそ、その私たちの罪を赦し、新しいいのちと平安を、今日も与える力のある福音をぜひ受けましょう。この聖餐をイエスが、今日も備えてくださり、みことばによって、パンとぶどうを用いて、イエスのからだと血を与えてださり、今日も「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と、新しい平安な歩みを与えてくださいます。ぜひ受けましょう。そして、平安のうちに遣わされていきましょう。




<創世記 12章5〜7節>

5アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた

 人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

6アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、

 その地にはカナン人がいた。

7そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と

 仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。