2021年6月20日


「福音から生まれる信仰による真の服従」
創世記12章4〜5節

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1.「前回」

 さて、前回までは、主なる神が、偶像礼拝の地ハランで過ごしていたアブラムを召し出し、一方的に語りかけた言葉を、4回に分けて見てきました。神のアブラムへの言葉は、父の家を出て「わたしが示す地へ行きなさい」と、あまり具体性のない、曖昧で、その示す地も、どこだかわからない、そんな言葉であり、人の目から見れば、不安と恐れを抱かせるような言葉であったのですが、しかしその言葉は、「あなたを大いなる国民とする」「あなたを祝福する」「地上の全ての名は、あなたによって祝福される」という、それもアブラムとサライにとっては非現実的であっても、神の祝福の約束を伴うものでもありました。その約束や祝福も、人が考えるような、人の側で果たさなければ受けられない相互契約のような約束ではなく、アダムやノアの時と神はなんら変わらず、それは「神の契約」であり、つまり神の前の、神が立てた、人のための、神がなす契約であり、片務的、つまり、神からの一方的な約束でもありました。そして何より大事なこととして、神が、人間が堕落した時から、その堕落した人間を、悪魔の支配、罪の支配から救うために立てた、「女の子孫の彼が悪魔の頭を砕く」という約束こそが一貫した土台としてある契約であり、つまりそのように契約も祝福も、イエス・キリスト中心の視点からこそ理解することの素晴らしさを教えられたのでした。つまり、アブラムも偶像礼拝の中にいて、神から出会ってくださるまでは、天地創造の神ではない神への信仰にあったのですが、そんなアブラムに神の方から現れ、み言葉によってご自身を示されることによって、アブラムは悔い改めと信仰を与えられ、その神が果たす約束と祝福を信じる歩みが始まったのでした。そしてそれは、パウロが示しているように、同じようにキリストの一方的なみことばによって、悔い改めと信仰を与えられ、イエス・キリストの恵みの約束のうちに新しい歩みを日々与えられている私たちもまた、まさにアブラハムの信仰の子孫であり、その神の祝福を受け継ぐ相続人であるのだということ、そしてその祝福はイエス・キリストとその十字架と復活において実現しており、罪の赦しと日々新しいいのちと平安を受けている私たちは、その祝福を確かに受けている、恵みの素晴らしさと救いの確信を教えられたのでした。


2.「真の服従」

「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。」4節


A,「信仰によって従う」

 アブラムは出かけます。主がお告げになった通りにです。それは、どこだかわからないで、しかし、神の恵みによる祝福の約束を信じてです。このように、約束には信仰があり、信仰には必ず神の約束があるということがわかります。つまり、神の約束も祝福も伴わない信仰の歩みはあり得ないことが、このところから教えられます。それは、ノアの時も同じであったでしょう。そして、その約束は先ほども言いましたように「神の契約」であり、相互契約ではなく、神の一方的な契約、約束です。つまり、神の言葉が先にあり、約束が先にあって、信仰があるのだということが見えてきます。

 ここから教えられることがあるのです。アブラムはハランの父の家から、神が言われた通りにで出かけました。つまり、彼は服従した、「従った」のです。その通り、聖書は「従う」こと、服従は大事なこととしてしっかり教えているのです。それは、ルーテル教会でも同じです。昔からずっと、今もですが、最大の誤解として、ルーテル教会はあまりにも信仰義認を強調するから服従や良い行いを軽んじているとよく批判されますし、ルーテル教会内からでさえそのようなことを言う人はいます。ゆえに、その足りない部分を、ルーテル教会以外のプロテスタント教会が完成させたのだと言うのです。しかしそれは、ルーテル教会についても信仰義認についても間違って理解しています。事実、ルーテル教会の信仰告白であるアウグスブルク信仰告白でも真の服従が信仰義認と同じくらい強調されていますし、ルターの小教理問答書にある聖化の説明を見ると、そこにはうわべの律法的な服従とは違う真の福音から生まれる服従のことがしっかりと書かれているからです。


B,「み言葉と神の恵みが先にあって出かける」

 その私たちルーテル教会の信じる真の服従はもちろん聖書から根拠を導き出されているのですが、今日のこのところにも、そのことがよく現れているのです。そうここに、

「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた」

 とあるでしょう。み言葉が先にあります。そして、そのみ言葉は単なる律法、単なる命令、つまり単なるアブラムが果たさなければいけない条件を課したものでは決してありません。人間の頭や理性では全く信じることができない従えないようなことではあっても、神があなた、アブラムのために果たし与えると約束されたことを、ただ信じるだけのことでした。その信仰さえも、見てきた通りに、新約の時代は信仰はみ言葉と聖霊による賜物と言っている神が、旧約に時代は、自分の努力と行いで信じる信仰でなければならないと言う、一貫していない、矛盾した神では決してない。アブラムにも同じように、偶像礼拝者であり、まことの神を知らないアブラムに神の方から現れ、語りかけ、信仰を与えたのは、神であり、み言葉と聖霊の力、恵みでした。その信仰によって、「その通りに出て行った」つまり「服従」であったのです。


C,「律法が動機:私たちの行いが先ではない」

 つまりこのことからもわかってくるでしょう。真の服従とは何かと言うことです。それは、もちろんみ言葉が先にあり、み言葉に従うであるのですが、しかしそれは、そこにどんなに崇高で敬虔な標語、表明があったとしても、「まず律法ありき、つまり、律法を動機にして、私たちの力、行動、意思、決心で、従わなければならない、そのように信仰をまず自分たちで現し、信仰を完成させ、信仰をささげなければならない。その服従の先に、福音がある。祝福がある。恵みがある。それらに与るに、受けるにふさわしさがある。そのふさわしい服従を達成してから、洗礼がある、聖餐もある。」ではないと言うことです。確かに、世の中の宗教はそうでしょうし、それは社会や企業や、学校や受験などの評価も皆そうですね。成果の先に報いがある。人の目から見れば、その方が実に合理的で平等でもあり、達成したものには満足も自信もあります。人の行いの先に、祝福がある。人間の服従が先にあり、神の契約がある、その方が人間にはわかりやすいし、ピンときますし、説明もしやすいし、人の共感や支持も得られるでしょう。元気も出て活気も作ることもできるでしょう。


D,「福音を動機に遣わされる:神がしてくださった恵みから生まれる」

 しかし神の前の真の服従はその逆であると言うことです。まず私たちの力で服従を立てることから始まる、が先ではありません。どこまでもまず神の一方的な約束、まず神の恵み、まず神が与える、が先であり、それを受けることから始まると言うことです。アブラムは神の語りかけがなければ、偶像礼拝者のままハランの父の家で過ごしていたでしょう。その神の言葉で、天地創造のまことの神のことを教えられることがなければ、月の神シンの崇拝者のままであり、悔い改めて、天地創造のまことの神を信じる信仰は生まれなかったことでしょう。神からの一方的な与えると言う約束と祝福がなければ、そして神によって与えられた信仰なしに、どうして、どこだかわからない地へ、住み慣れた父の家を出て、家族や家畜などの財産をすべて伴い出ていくことができますか?人間の理性的な考えや計算だけでは、そんなどこだかわからない地へ、家族と家畜などの財産を伴って出ていくことが、なんと不合理で、従えないことでしょう。しかし、1〜3節から見てきた通りに、神の語りかけには、律法どころか、神の恵みが満ち溢れていたでしょう。アブラムには何か優れたところがあるわけでもありません。何か立派なことをしたわけでもありません。ハランの父テラの家にいた時の彼は偶像崇拝者でした。しかしそんな彼に、神の方から現れ、これまで見てきた、この素晴らしい恵みの約束と、恵みの派遣があったではありませんか。まさに神の言葉は、アブラムがまず神のためにしなければならない律法の重荷ではなく、神の福音、神がアブラムにしてくださる、与えてくださる、福音であったでしょう。その福音にこそ、「主が告げた通りに出かけた」「ハランを出た」があり、真の服従、「従う」があるのです。つまり、アブラムもまさに福音の言葉によって遣わされていると言うことです。まさに先週も話したように、アブラムにとっても、神の説教の最後の言葉は律法ではない、最後の言葉が律法として派遣されているのでもない、どこまで、神の説教の言葉は律法と悔い改めから始まりそして、福音で終わり、最後の言葉、派遣の言葉は福音となり、福音によって遣わされていると言うことで、一貫していると言うことです。


E,「神の前に本当に大事なのは真の服従」

 みなさん、神が求めてられる真の服従はそこにあると言うことです。福音ではなく、律法に駆り立てられて、つまり「恵みだけではダメだ。だから、すべてにせよ、半分にせよ、10パーセントにせよ、自分の力、人間の力が必要なんだ」と、そのように重荷を負わさされて、平安も確信もなく、服従や奉仕や、良い行いや隣人愛に駆り出され、約束の実現は私たちの肩にかかっているのだ、というのが信仰者の服従なのでしょうか? それとも、神の完全な福音の言葉があり、その福音の約束とその成就を信じる信仰によって、その恵みのうちに、福音と聖霊の力において、平安と喜びに満たされ、遣わされていくのか、福音を動機に、福音と聖霊の促しと力によって助け支えられ、良い行いや隣人愛を自由な平安な喜びの心で行っていくのか、そのように神の言葉に従っていくのか、どちらが真の服従でしょうか?どちらが神が喜ばれるでしょうか?どちらがキリストの体の徳となり、クリスチャンにとって益となり、そこから溢れ出る泉となり、すべての民族へと溢れ出ていくでしょうか?何より、みなさんは、福音書のイエスやこれまで創世記の学びを通しても教えられてきた恵みの神を思い出し照らしあわせるなら、律法と福音どちらによって派遣される方が、福音によって救われ、生かされ、歩まされていると、感じるでしょうか。どちらの方が本当の意味で、信仰において、神に喜びと感謝と平安をもってその言葉に従っていけるでしょうか?結局は自分のためという偽善ではなく、イエスの言われるとおり、イエスのように、心から自分の利益もどんな見返りも求めず平安のうちに、隣人を愛し、仕え、良い行いをしていくことができるのは、どちらの言葉によって派遣されるからですか?律法ですか、福音ですか?答えはもう聞くまでもないことです。律法によって派遣されるとき、それはもう自ずと自分の行いや自分の肩にかかってしまうわけですから、平安も確信も当然起こり得ません。自分や人のわざですから、自分や人に誉や報いを帰すことになります。自分のためにしますから、自分の利益や報いを結局求めてしまいます。そして、律法による派遣や服従は、まさに天国に行く時まで神に褒められるかどうかわからないで不安で死を迎えることになります。何より、律法による派遣や服従は、実は、律法の働きとしては、罪の意識が増すだけなのですが、しかし、それさえ覆い隠し、自分は律法をすべて行なっているというように装おうとさせようとします。まさにイエスの前で、自分を誇ったパリサイ人たちのようにです。彼らは、律法によって派遣された人々でした。


3.「福音による平安な服従」

 アブラムは、神が告げた通り、出かけました。彼は神と神の言葉に服従しました。そのように神に従うことは、大事な大事な神であるイエス様の私たちへの変わることのない、教えであり招きです。しかし、その私たちの服従は、そのようなパリサイ人のような服従であってはいけません。福音によって派遣される真の服従でなければなりません。先に述べたように、私たちルーテル同胞教会が告白するアウグスブルク信仰告白と小教理問答書でも、そのことこそを告白しています。ですから、ルーテル教会が、服従を軽んじているなんてことは全く誤解です。むしろ私たちは、神の前にあって、パリサイ人のように表向きだけ立派で敬虔そうに装うことができればそれでいいということでは決してないのです。心を見られる神の前にあって、私たちは、日々、罪深いものであることを悔い改め、ただただイエス・キリストによって罪赦され福音のうちに新しい歩みがはじまる、そこにこそあり始まる真の服従こそイエス様が私たちに教え、招き、与えてくださっているのです。それでこそ、福音と服従が矛盾することなく調和した、神の前に誠実な真の服従の教えなのです。それは、説教の最後の言葉はやはり律法で、律法で派遣されなければならないと、信じ強調するような教会にとっては物足りず不完全なように見えるはずです。しかし、それは、福音の完全さ、福音の力を信じていない証拠そのものです。そういう人は福音を信じると言っていながら、信じていないんですね。そうであってはいけません。恵みによって福音のうちに信仰によって、遣わされたアブラムのように、私たちも今、今日も、いつまでも、恵みと祝福は溢れるほど私たちにすでに与えられ遣わされているのです。今日も罪深い私たちのために、十字架のイエス様が、しるしや知恵を求める人には、躓きで愚かに聞こえ、しかし信じる私たちにとっては救いを,得させる神の力である十字架の言葉を語り、罪の赦しを宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、この福音のうちに、そして信仰によって、ここから出て行き、その恵みの信仰に働く行いにおいて、平安と喜びをもって隣人を愛し、仕えて行こうではありませんか。





<創世記 12章4〜5節>

4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。

 アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた

 人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。