2021年6月13日


「祝福されているからこそ、地上の全ての民族へ」
創世記12章1〜9節C

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1.「前回」
 前回は、アブラム、後にアブラハムですが、神は彼を大いなる国民とすると言う、その「大いなる国民」とは、どのような国民なのか?と言うことに注目して見てきました。そこで「大いなる国民」もその「祝福」も、アブラムを通しての祝福であったのですが、その祝福を、創造のはじめから働いておられ、堕落したときにも神が約束した「女の子孫の彼が悪魔の頭を砕く」と一貫して聖書が指し示しているイエス・キリスト中心に見て行くことの大切さを学びました。そのようにイエス・キリスト中心に、神の約束と祝福を見て行く時に、パウロも記しているように、神は、アブラムがそのキリストを指していた一人の子孫が星の数のようになると言う、まだ見ぬ救い主の約束を信じたがゆえに義とされたとあるのと同じように、その通りに実現したイエス・キリストを信じる私たちは皆、そのアブラムの約束の相続人であり、神の子であり、祝福の大いなる国民であるのだと言う、素晴らしい恵みを教えられたのでした。さて今日は3節の祝福と呪いとあるところを、見て行きます。ここにも神の真実さと、そこに恵みと救いの確かさを教えられるのです。3節から見て行きますが、神はアブラムに語り続けます。


2.「アブラムへの祝福」
「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」3節
 見てきましたように、神が、このようにアブラムに語っているのは、神の一方的な恵みでした。ハランの偶像礼拝の地で生活していたアブラムのもとに神の方から現れ、語りかけました。それまでは天地創造のまことの神への信仰ではなく、偶像礼拝に生きていた彼にご自身を示され、悔い改めと真の信仰を彼に与えたのも神の方からの語りかけ、神の言葉とそこに働く聖霊のゆえでもありました。そしてその祝福も神からの一方的なものであり、神はアブラムに「あなたを」というのですが、それは、アブラムの何か他より秀でた彼自身の神への優れた行いとか、その行いゆえの祝福と言っているのではなくて、同じように、神からの一方的な恵みと語りかけ、どこだかわからないその神様の指し示す「わたしが示す地へ」、そして、そこで「大いなる国民とする」「祝福する」と言うその約束を、信じる信仰のゆえでした。しかもその信仰も、アブラムの行いとしての信仰ではなく、賜物として与えられた信仰において、子供のようにそのまま約束を信じるがゆえであり、自らの力による服従ではなく、信仰にあって服従するがゆえでした。
 ですから、この3節の「あなたを」は、どこまでも「信仰の人」アブラム、あるいは後に神から、アブラハムと呼ぶように言われるのですが、信仰の人アブラハムを指していることがわかるのです。つまりそれは、先週のパウロの言葉、ガラテヤ3章からの引用でも学びましたように、信仰にある人は、皆アブラハムの子孫であり、相続人でもあるのですから、アブラハムへの祝福であると同時に、信仰者である私たちへの祝福の言葉でもあると言うことなのです。

3.「祝福とのろい」

A,「のろう者をのろう」
 そのことを踏まえてですが、この
「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」
と言うことで、何を神はアブラムに、そして私たちに伝えたいのでしょうか。LutheranStudy Bibleを見ますと、「主は、地獄の門は、主がご自身のものとされたその人々に対して打ち勝つことはない、と言うことを約束している」と解説されています。つまりそれは、サタンのいかなる努力も、約束の救い主において、世界を贖い出すその約束を決して弱めることはないということを、神はアブラムに約束しているのだと言うのです。事実、神はこの後、その「彼女の子孫の彼が悪魔の頭を砕く」と言う救い主を指し示しながらアブラムの子孫を導いて生きますが、その旧約聖書の歴史において、本当に地獄の門が襲いかかり、サタンが信仰を捨てさせようとする様々な努力や誘惑が彼らを襲ってきます。アブラムの子孫自体は決して強くはありません。信仰も弱り果てるときもあります。しかしそうであっても、神は、確かに守り通し、その信仰者を祝福するものを祝福し、信仰者をのろうものをのろうという、信仰者を受け入れず悪を行うものには、主の災いがもたらされると言う事実が記されているのです。例えば、創世記の後の出エジプト記では、アブラムの子孫をエジプトの奴隷として束縛し、労役で苦しめていたエジプトの王ファラオのことが書かれてあります。彼は、神からモーセを通じて、その神の言葉が伝えられ、イスラエルの民をエジプトから解放し去らせるように、何度も伝えられますが、ファラオは、モーセが信じて伝える神と神の言葉、神の警告を蔑み、馬鹿にし退けます。まさにファラオはアブラムの信仰の子孫であるモーセにおいて「あなたをのろう者」だったのでした。その時、神は、モーセに語った警告の通りに、災いをエジプトにもたらします。それでも頑ななファラオでしたが、ついには民を解放し去らせる事にするのですが、やはり神の前に高ぶる彼は、去らせたことを後悔し追いかけます。なおもファラオは「あなたをのろう者」を実行し続けるのですが、ファラオとその軍勢は、ついには紅海に飲み込まれて溺れ死に滅ぼされるでしょう。その時、前にモーセに語った神の警告、神の言葉の通りに実現したのですが、それは何より、このアブラムに約束した「あなたをのろう者をわたしはのろう。」と言うその言葉は、アブラムから数百年後であっても、変わることなく真実であり、実現していると言うことなのでした。そのことは申命記2章3章にあるシホンとオグに起こった滅びにおいても変わることがありませんでした。さらにいえば、バビロンやローマなどの世界の覇権でさえも、信仰の民を迫害するものには、神からの災いは決して免れていません。このように神の言葉はどこまでも真実であり、その約束された通りになるのであり、それは何百年、何千年たって、世界の繁栄を極めた栄華が過ぎ去っても、そしてサタンがそのような世界の栄華や繁栄や権力を用いて、どれだけ誘惑し、攻撃してきても、それらは必ず神に打ち負かされ消え去られるのであり、そして、その神の約束、神の言葉は、永久に変わらず真実であると言うことを私たちに伝えているでしょう。そしてそのことは、そのように信仰の民、つまり、私たちをも、神は、その約束のうちに守っているし、どんなに攻撃され、誘惑されても、キリストにあるなら、地獄の門は決して私たちのその信仰に打ち勝たないと言うことを教えられているのです。

B,「祝福するものを祝福する」
 それは、あなたを祝福するものを祝福する、と言うこともその通りになっています。出エジプト記1章には、エジプトの助産婦たちのことが書いてあるでしょう。エジプトの王は、助産婦たちに男の子が生まれたら殺さなければならないと命じました。しかし1章17節で「助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。」とあります。王は彼女たちを問い詰めますが、しかし神は彼女たちを顧み、「彼女たちは神を恐れたので、神は彼女たちをよくしてくださった、栄えさせた」1:20〜21とあるのです。そしてヨシュア記6章にある、ヨシュアの偵察をかくまってあげた、エリコの遊女ラハブにおいても神は同じようにされたでしょう。神は約束されたことを決して忘れない。決して捨てたり放棄したり、破ったりしない、何年立っても、どんな逆境でも、神は、その通りにしてくださるのです。

4.「地上の全ての民族は、あなたによって祝福される」
 そして、3節の後半の約束はまさにそうです。
「地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」

A,「アブラムを通して異邦人へ」
 この祝福は何よりもイエス・キリストにおいて成就することですが、この旧約聖書においても、その通りに、信仰の人を通して「異邦人」が祝福されていることが記されているでしょう。例えばアブラハムの子イサク、その子ヤコブの子ヨセフは、兄たちによってエジプトへ売られますが、神の守りと導きによってヨセフはエジプトの宰相にまでなり、そのヨセフによって、エジプト人たちは祝福に与るでしょう。まだ奴隷にされる前のことで、そのヨセフを通しての恩恵を忘れてしまったからこそ、エジプトのファラオは、信仰の民を悪く扱うようになり、最終的には先ほど述べた紅海での滅びに繋がりました。あるいはニネベの人々は偶像崇拝者であり神の前に悪を行なっていましたが、預言者ヨナが悔い改めを伝え、彼らは受け入れたがゆえに神の前に罪赦され、ヨナを通して祝福はきたのでした。

B,「イエス・キリストに成就する」
 そして何より大事なメッセージは、みなさん、そのアブラムに語った、祝福の約束の成就は、どこまでもイエス・キリストであり、キリストにおいて成就したのです。そして、ヨセフや、ヨナを通して異邦人に祝福がきたことは、まさにイエス・キリストを通して、そして、アブラハムの子孫である、キリストを信じるクリスチャンを通して、全ての民族に祝福が取り次がれると言う、神の計画のまさに予型、雛形であると言うことです。先週、見てきました。パウロを通して、神が私たちに示していたでしょう。
「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」(ガラテヤ3章9節)
「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3章29節)
 ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶の上に生まれ、十字架にかかって死なれ、よみがえられたイエスは、神が人が堕落した時に約束した「彼女の子孫の彼」であり、アブラムの一人の子孫であり、アブラムも信じて待ち望んだ、救い主キリストでした。アブラハムと同じようにそのキリストを信じ、その神が与えた救い主が私たちの罪を赦すために十字架で死なれたからこそ、私たちの罪は赦され、死からよみがえられたからこそ日々新しく平安に遣わされると、信じる私たちは、間違いなく、アブラハムの子孫であり、約束による相続人であり、だからこそ、私たちは約束の祝福をすでに与えられ受け取っているのです。なぜなら、その祝福とは、信じる信仰が賜物として与えられたこと、キリストのゆえに神の前に罪赦されたこと、日々新しくされ遣わされることとそのものであるからであり、そのために聖霊が与えられ、日々み言葉が語られているからです。

C「そのキリストのゆえに祝福はすでにある」
 それがみ言葉の約束なのですから、みなさん。私たちは、イエス・キリストにあり、神の子とされているなら、祝福をすでに受け取っていると言うことです。何度も言いますが、人の前で、肉の目で、望むような、期待するような、思い描いたような、状況になっていないから、神はおらず、祝福されておらず、ゆえに救われているかどうかも曖昧で、確信も持てない、だから、私たちがまず一生懸命、律法を行い、自分の行いと力による服従を果たしたら、祝福される。祝福や救いの確信を持てると言うのは、物事を逆に考えています。そのように教えるキリスト教会もあるので、そのように誤解し、刷り込まれている人々も多いですが、それだと、恵みのみは矛盾するし、信仰義認も矛盾するし、聖書全体が矛盾してきます。何よりイエス・キリストがくる必要もなければ、十字架の死も復活も全て無駄になります。
 みなさん、パウロは「キリストのものであれば」と言っているでしょう。そう私たちは、キリストの十字架と復活のゆえに、恵みのゆえに、賜物である信仰によって、義とされ、キリストのものとされているものでしょう。そうでなければ、私たちはまだ悪魔のものです。キリストが約束の通り、悪魔の頭を砕いたからこそ、私たちは、悪魔のものでははなく、キリストのものとされているでしょう。キリストのものであるから、私たちは罪人でありながら、義と認められているのではありませんか。どこまでもキリストのゆえであり、キリストに繋がれているからであり、キリストと言う木に接ぎ木された枝であり、キリストのものとされているからでしょう。そうであれば、アブラハムがこの約束を受けてから始まった生涯は、すでに祝福されているからこそ始まった歩みであるのと同じように、アラブハムの子孫である私たちもすでに祝福されているし、それは、彼が待ち望んだ約束の一人の子孫、イエス・キリストにおいて、すでに完全にその祝福は達成されているのですから、私たちがイエス・キリストにつながっており、キリストのものとされているなら、私たちはやはり、その完成された祝福にすでに与っている、受けていると言うことなのです。

5.「未完成な福音を達成するため」ではなく「完全な福音」から始まる」
 ですから、福音はまだ未完成であるかのように示して、私たちが自分たちの行いで福音の未完成の部分を完成させ、その完成で祝福されなければいけないと教えるのは、キリストの十字架と復活を力のないものとし、未完成とし、無にしてしまっています。それだと、私たちにはどこまでも平安はないし、救いの確信はなく、天国でイエスに会えるかどうか、死んで天国でイエスに褒められるまで救われている確信は持てないのです。信仰生活は律法になり重荷になるのです。それが、福音ですか?それがイエスが与えようとした平安ですか?平安あれと言う復活のイエスの言葉は、気休めの上辺だけ塗り固めらた律法の言葉ですか?それだと福音はありません。恵みのみも偽りになるのです。皆さん。信じる信仰が与えられ、今日も自分の罪深さと、ただただイエスの神の憐れみにみ言葉を通して気づかされ、私の罪は十字架のゆえに赦されていると告白でき、安心でき、確信できるなら、もう祝福は私にあると告白できるのです。そして、すでに祝福されているからこそ、
「地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」
 は実現していく。強いられてでも重荷でもない、喜びと感謝の真の宣教は成り立つでしょう。自分がただただイエス・キリストの十字架と復活のゆえに、祝福されているとい確信と喜びが自分になくて、どうして、そのイエス・キリストの十字架と復活、祝福と確信と喜びを隣人に、地上の全ての民族に取りづぐことができますか?できないでしょう。頭の中だけでの信仰や十字架と復活は伝えることができるかもしれません。しかしその伝える動機には、確信もなければ、救いの確信も祝福もこれから頑張った先に受けるのですから、律法を行った先に義があると言う、歪められ、曲解された福音のような律法しか伝えることしかできないし、何より、正しくクリスチャンを、平安のうちに遣わすことができません。どこまでも最後の言葉も生きていく動機も福音ではなく、律法として、会衆は重荷を気負わされ遣わされていくことになるでしょう。それは宣教でも信仰生活でも、真の良い行いや隣人愛でもありません。それらは福音から始まるのです。すでに祝福も義も救いも、約束の通りに、イエス・キリストの十字架と復活において完全に実現している、それをすでに受けているからキリストのものとされ、クリスチャンとされている、その福音を受けているからこそ、福音に聖霊の力が働き、イエスが与えると言われた、世が与えることのできない、真のイエスの平安のうちに、私たちは、喜びと感謝を持って、重荷を下され、真に、隣人のために、仕えて行く事ができる、できないと思う、隣人や敵さえも赦し愛するように用いられて行く、そしてその祝福を地上の全ての民族へ取り次いで行くことができる、神がイエス・キリストにおいて、聖霊とみ言葉を通して、用いてくださるのです。だからこそ、今日も、平安のうちに遣わされていけます。今日もイエスは、最後の派遣の言葉は、律法ではなく、福音の言葉「あなたはわたしのもの、あなたの罪は赦されています。だから祝福されています。だから安心して行きなさい。」と言ってくださっています。そのまま受け取り、従い、安心してここから遣わされていきましょう。





<創世記 12章1〜9節>
1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる
 ものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべて
 の民族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。
 アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた
 人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、
 その地にはカナン人がいた。
7 そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と
 仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東には
 アイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。