2021年6月6日


「大いなる国民とは?」
創世記12章1〜9節B

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1.「前回」
 前回は、2節の神がアブラムに言われた言葉「わたしはあなたを大いなる国民とし」から見て来ました。まず、その神の約束の言葉は、アブラムと「不妊の女」とあるサライの夫妻の現実から見れば、あまりにもその現実からかけ離れている上に、いつとかどんな時とか全くわからない言葉であったことを見てきました。事実、その約束がなるための最初の子の誕生も、それからさらに20年以上先になり、その間にはサライも奴隷との間にアブラムの子孫を設けさせるなど、神の約束よりも現実に偏った決定までしてしまうことになります。そして子の誕生は、彼らが100歳近くになって、彼ら自身が「ありえない」と思う、その思いを超えて実現することになります。神はなぜ、その素晴らしい約束でありながら、非現実的で、なおかつ曖昧にし、なおかつすぐに実現せず、長い間、彼らを待たせて試すようなことをしたのでしょうか?それはアブラムに信仰を与えた神は、彼とサライをその信仰へと歩ませ、進ませ、しるしや知恵を求める人には躓きで愚かに見える、信じる事ができない神の約束を、信じる事ができるように訓練し成長させるための神の恵みの取り扱いであることを教えられたのでした。

2.「あなたを」
 さて、今日も少し「わたしはあなたを大いなる国民とし」という言葉から、また別の大事な点について共に教えられて行きたいのです。それは「その国民とはどのような国民であるのか」ということです。確かにやがてアブラムとサライの夫妻にイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、ヤコブはイスラエルとなり、彼から12人の子が生まれ、彼はイスラエルの12部族の父となります。そしてエジプトでの奴隷と出エジプトを経験し、約束の民、選びの民、そして一つの国として、旧約聖書ではその歴史が記されて行きます。ですから大いなる国民はもちろんイスラエルの人々を指していることでしょう。しかし、それだけではありません。2節と3節をもう一度読んで見ますと、
「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」2〜3節
 このように、神は「大いなる国民にする」と言う約束も祝福の約束も、「あなたを」と言っており、アブラムその人に言っている事がわかります。確かに、アブラムから生まれるその「大いなる国民」への祝福もそうなのですが、「あなたを」と具体的にアブラムを指しているように、どこまでもその「大いなる国民」への祝福はアブラムを通してくることを伝えている事がわかります。ですからただ選びの民、イスラエルの系図から出る国民の祝福だけを言っているのであれば、もちろん、それでもアブラム個人を「あなたを」とよんでも成り立つかもしれませんがアブラムでなくても言い訳です。アブラムもテラの子であり、遡ればノアを祖先として持つわけで、この前の誰かであってもよかったと言えるでしょう。そしてそのノア自身に神が語った契約と祝福は、神が堕落前のアダムに語った祝福を変わる事なく伝えた、一方的な全人類、全被造物への祝福と同じでした。事実、3節では、神はアブラムに「あなたによって」と言い、「あなたの子孫の民族だけ」とはいわずに「地上全ての民族は、あなたによって、祝福される」と言っているでしょう。つまり、決して狭い範囲のことではない、狭い一つの国家、一つの子孫、一つの民族のことだけを指して「あなたを」と神は言っているのではない。「あなたによって」「地上の全ての民族は」なのです。

3.「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し」

A,「キリスト中心」
 そして、この神の祝福を知る上でさらに大切な点があります。それは創世記も、そしてこの旧約聖書もイエス・キリストを指し示しているということです。事実、その創造のはじめは三位一体の神の働きであり、ヨハネの福音書を見ると、すべてのものは神の御子によって造られたと創造を伝えています。そして堕落の時には、神から、そのエバの子孫の彼が悪魔の頭を砕くという約束があり、そこから救済の約束、歴史が始まっており、その約束がこれまで見てきた創世記において欠かすことのできない神の活動の根拠となっていたでしょう。このように、イエス・キリストが、新約はもちろん旧約でも聖書の中心となっています。ですから神の祝福の約束は、どこまでもキリスト中心の視点で神は約束も祝福も語っていることを見なければいけません。

B,「大いなる国民と祝福ーあなたの子孫」
 ではそのアブラムを通しての「大いなる国民」とその祝福とは、何を意味しているのでしょうか?これから見ていく15章で、神がアブラムに繰り返し語った約束の言葉が参考になります。

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」15章5〜6節

 ここでも神は、アブラムの子孫が数えられない星の数のようになると「大いなる国民」の約束を繰り返しているのですが、パウロはガラテヤ3章で、このところを取り上げて解説しています。パウロは、神がアブラハムに「あなたの子孫たち」とは言わずに「あなたの子孫」と言っているのだから、この約束は一人の子孫を指しているのだと言います。そして、それはアブラハムの子イサクである以上に、キリストであると(3:16)彼は言っています。確かに、目に見える血筋の子孫であるイサクの方が「人の目」には合理的でわかりやすく、一方でイエス・キリストに結びつけるパウロはあまりにも飛躍しすぎてありえないことのように思われるかもしれませんが、しかし「神の前」つまり聖書全体の神の一貫した目的から見るなら、そのことは堕落の時に神が語った最初の福音「女の子孫の彼」にこそ一貫しています。さらにその約束が、ヘブル書11章で「相続財産」とあったように、律法ではなく、神から与えられる恵みとしての約束であることを見てきたでしょう。パウロは、その約束のもの、相続財産は、キリストとその福音の言葉を通して与えられる信仰と聖霊である事を示しています。こう言っています。
「とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」ガラテヤ3章5〜9節

C,「見ていないその子孫を信じる信仰〜その信仰を義と認めた」
 これまで見て来ましたように、神は、偶像崇拝のただ中にあったアブラムを、一方的に召し出し、語りかけることによって、真の神への信仰に目を開き、「わたしの示す地へ」と遣わしました。そのように彼も神の一方的な働きによって信仰が与えられ、聖霊の働きによってその歩みを始めました。いつとかどんな時とかわからないその約束、相続財産を受けるためです。しかし、そのように導かれている歩みで彼は、約束がありながらも、現実としては、まだ子供が生まれていないし、不妊の女である妻サライの現実が目の前にあるなかで、しかも、神からのその「一人」を指す「約束の子孫」が、なんと星の数のようになる、というまたもはっきりしないし現実的でもない、その神の言葉を彼は信じたのでした。そして、神はその信仰を義と認めたとあるのです。パウロは、神は「律法による義」「行いによる義」という、「人が思い計ることははじめから悪である」と言う人間には不可能なことを、達成目標として相続財産として約束するような神では決してないことを見ていました。むしろパウロは、聖書から、このアブラムの時も変わらない、いやまさに、アブラムはその雛形であり、神の一方的な働きによって、目が開かれ、悔い改めがあり、信仰が与えられ、聖霊とみ言葉によって約束を信じる信仰に進まされていくこと、その信仰によって義とされることこそ、アブラムを通して、そして一人の子孫によって、全ての民族、国民、つまりイスラエルの民だけでなく、異邦人にも及ぶ祝福であることこそを、神はあらかじめ定めていたのであり、神はそのことをアブラムに約束したのだと、パウロは示しているのです。
 だからこそ、パウロは「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」(3:9)と言い、同じガラテヤ3章29節では「29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」とも言っているのです(3:29)。

D,「約束は、約束の子孫、キリストに実現する」
 神がアブラムに約束した「大いなる国民」、そしてアブラムを通して受ける祝福。それは、決して私たちとは無関係なことではありません。それはイスラエルの民族だけの約束ではないということです。人が罪を犯し堕落した時に、神は、約束をしてくださいました。女の子孫の彼が、悪魔の頭を砕くのだと。神は、その約束を決して無効とすることなく、その子孫は神によって脈々と受け継がれ守られてきて、神はノアにも、そしてこのアブラムにも、その一人の子孫を通して、世界中の人々誰でも、その祝福を相続できると、約束を繰り返してきました。彼らは、具体的にその目で約束の彼であるイエス・キリストを見ていませんが、はるかに待ち望み約束がなることを信じていました。そして神はその信仰のゆえに義と認めたのです。私たちはこのことを通して、その約束の彼と神の祝福の約束が変わることなく一貫して、神が約束した通りに実現したことこそを、今、見ているし、経験しているし、私たちにとって何より大切なことであると気づきます。そう、やはりイエス・キリストが私たちに指し示されていると言うことです。もちろん私たちも肉の目で、イエスに会い、十字架の出来事を見たわけではありませんが、聖霊の手段であるこの聖書を、神の言葉を、福音を、文字で、日本語で、読むことができ、聞くことができ、その神が定め、罪深い人間の口を用いた礼拝とみ言葉の解き明かしを通して、今日もイエスはご自身を示し教えてくれていますね。初めの福音から全く変わることなく、ノアに示し、アブラハムに示し、モーセに示し、ダビデや預言者たちを通して、一貫して指し示し約束した世の救い主は本当に私たちのところへ来られました。しかしそれは私たちの思いでは思いもしないこと、愚かで躓きの状況です。貧しい家の、貧しい境遇の、貧しい飼い葉桶の上にその方はこられます。最初の礼拝者は皇帝や王ではなく、貧しい羊飼いと異教徒の博士でした。その彼は、世の正しい人が蔑み避けるような罪人のところへ行き、友となり、悔い改めと神の国を伝えました。逆に自分はそんなに悪くない、正しいと、行いを誇る人々には、律法で厳しく断罪し、彼らが神の前に罪深いことを示そうとしました。そしてその彼は、なんと犯罪人として、ローマの極刑、十字架で処刑されるでしょう。裁判官であり総督であるピラトでさえもこの人には罪はないと認めるのにも関わらずです。権力者の妬み、そして社会の大多数の価値観ではこの人は期待通りの人ではなかった、という失望に煽られ彼は十字架に架けられるのです。しかし、その人間には愚かに思えつまづきになるこの道を、神は計画し、選ばれ、その彼を十字架に従わせます。確かに「人の目」から見るなら、どこに救いがありますか。期待通りではないと、世に退けられた敗北者の姿だけがそこに移ります。まさにしるしを求める人には躓き、知恵を求める人には愚かな十字架がそこにあるだけです。しかし、「神の前」にあって信仰が与えられて信じる私たちには、はっきりと、この十字架はこの私の罪のためだった、私の罪の贖い、赦しのための十字架とイエスの死であった、そしてイエスが私のために十字架で死に、三日目によみがえってくださって今も生きているからこそ、私はこの罪に束縛される暗闇や心配や絶望から、私は解放される。自由とされる。この十字架と復活のゆえに、イエスが今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださる。このイエスのゆえに、安心して今日もここから出て行くことができるでしょう。そうであるのですから、「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」(3:9)とある通りに、私たちもアブラハムとともに祝福を受けているのであり、「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(3:29)とある通りに、私たちもキリストのものであり、アブラハムの子孫であり、約束による相続人である、そのことを今日教えられているのです。

4.「終わりに」

 ぜひ、その恵みを今日も与えられることが、聖書の約束なのですから、ぜひそのまま受け取りましょう。今日は、イエスがされたように、その目に見える恵みの手段である聖餐も用意されています。イエスは、力あるいのちのみ言葉を、このパンとぶどうを用い結びつけることによって、今日も、イエスが、イエスのからだと血を与えてくださいます。そして、罪の赦しを宣言し、今日もあなたは新しいと平安のうちに遣わしてくださいます。ぜひ、み言葉に示されるまま罪を悔い改め、その罪深い私たちのためにこそ、この聖餐は恵みとして差し出されているので、感謝して受けましょう。そして、安心して遣わされて行きましょう。そして、この救いの恵みには、全ての人々が招かれています。信仰というのはみ言葉を通して導かれ与えられている信仰に従ってそのまま受け取ること、それだけです。その思いが与えられている人は、ぜひ誰でも洗礼を受けてください。洗礼は律法ではなく福音であり恵みなのですから。そして、ともにこの聖餐に与っていきましょう。その日がくるためにお祈りいたしております。






<創世記 12章1〜9節>
1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる
 ものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべて
 の民族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。
 アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた
 人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、
 その地にはカナン人がいた。
7 そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と
 仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東には
 アイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。