2021年5月30日


「わたしはあなたを大いなる国民とし」
創世記12章1〜9節A

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1.「前回」
 ハランの地で偶像礼拝の中で生きていたアブラムに、主の方から現れ、語りかけ「父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われたところを見てきました。アブラムは、どこへ行くのかわからなかったのですが、主の一方的な語りかけと祝福の約束、そしてそのみことばに働く聖霊の働きによって信仰が与えられ、信仰によってその地を出て行きますが、それは彼自身のわざや行いとしてではなく、どこまでも神の恵みによる導きであったことを見てきたのでした。今日は2節を注目して見て行きます。

2.「わたしはあなたを大いなる国民とし」
「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」2節
 「わたしはあなたを大いなる国民とし」とあります。この言葉は、前回の、どこだかわからない「わたしが示す地へ」という言葉と同じくらい、人間から見れば常識や理性に反した不思議に思える言葉です。なぜなら、それは、11章30節にこうあるからです
「サライは不妊の女で、子どもがなかった。」11章30節

A,「大いなる国民にはなりえない目の前の現実」
 ここで、サライには「まだ子供がなかった」ではなく「不妊の女」と書かれてあります。アブラムがハランを出た時には、75歳でしたから、父のテラの例から見てもサライが70代で子を持つことは夫妻にも可能ではあった事でしょう。しかしサライは「不妊の女」であったのでした。つまり子供ができなかったのでした。ですからその現実に対しての「あなたを大いなる国民とし」であったということなのです。現実とは正反対の約束です。もちろん信仰の目からみれば、希望の約束ではありますが、目の前のありえない現実を前に、神の言葉を秤にかける時に、多くの人は、現実の秤に重きを置いて、現実的な手段を探るものです。事実、サライは、この後、その神の言う通りに直ぐになる様子が全くなく、やはり子供ができない現実がずっと何十年も続く現実を前にして、奴隷のハガルとの間に後継者である子供を持つようにアブラムに言うでしょう。神の言葉や約束よりも現実的な手段を選ぶものなのです。その実現は、20年以上も先、まさにアブラムとサラの夫妻が100歳近くになるまで実現しません。この「大いなる国民」の約束を与えてから、すぐに実現するどころか、20年以上も実現しません。与えられた時は希望であっても、すぐに実現しない状況で人はすぐに希望を失い易くなります。現実的な手段に向かっても当然のことです。人の目から見るならば、です。このように、いかに神が言われた「わたしはあなたを大いなる国民とし」ということばは、不思議であり、そしてアブラムとサライに大きなチャレンジを含んでいるのかわかると思います。ここにも神の約束は、そのように人間の理性や常識に対して逆説的なことがなんと多く、しかも何時とか、どんな時とか、あるいは、先週見ました「どこへ」とか、わからないことも多いです。にも関わらず、ここにも「大いなる国民とする」と、何を与えるのかの具体的な約束はあるのです。「いつ、どこで、どんな風に」、なぜはっきりとしないのでしょうか?はっきりとしてくれる方が信じることができるのに、と人間は思うかもしれませんね。しかし実際は、人間のどこまでも神を否定しようと言う罪の性質のゆえに、人間ははっきりと示されても信じられないものです。実際、この後見て行く通り、100歳近くなった二人に神の使いが現れ「来年の今頃」と具体的に子供が与えられる時期をアブラムに伝えました。しかしサライは笑って信じられなかったでしょう。そして新約聖書でも、目の前に約束の救い主が現れても、博識豊かで最も律法と聖書に精通していた人々が信じられませんでした。神は、その人の目には現実的ではなく「大いなる国民」と約束した時、それは、言われた方が元気になれば後で忘れるような励ましや気休めを語ったのではありません。神は本当にそのようになることを見ていましたし実現することを見ていたでしょう。そして、神はその二人の最初の子も何時とかどんな時とかわかっていたことでしょう。しかしこの時は告げなかった。それはなぜでしょうか?

B,「神のなそうとすること」
 それは二人の現実をよく知っていたからではないでしょうか。それは罪深い現実です。確かにアブラムは恵みによって信仰を与えられ信仰の道を歩み始めました。しかし彼は同時に罪人でもあります。疑いもあれば葛藤もあるものです。行いでも何より心でも罪も犯してしまいます。しかしそれでも彼が信仰者であったのは、自分の行いのゆえではなく、どこまでも神の恵みのゆえに、信仰によって義とされていることを信じていたがゆえでした。それはつまり何度も見てきたように、この旧約の時代でも信仰者は、神の前にはどこまでも神の前における自分自身のその罪深さを知っており、だからこそその神の前にへりくだり、悔い改め、神の憐れみと助けにすがる礼拝の日々を生きていたことにあります。「義人であり同時に罪人」の姿がそこにもあるのです。そしてそのような「義人であり同時に罪人」である人は、日々の悔い改めによって、神の恵みのゆえに信仰が成長させられて行くものです。まさに、神がはっきりと言わずして25年の長い年月を待たせる意味はそこにあるでしょう。その間、アブラムとサライ夫妻は、その「大いなる国民の約束」に初めは希望を抱いても、なかなか与えられない現実に疑ったり失望したり諦めたりもします。「ハガルとの間に子を」などと現実的な手段さえ選びます。しかし神はそのような罪深さと失敗を全てご存知の上で、その25年の間に、彼らを試練と失敗を通して、何度でもへりくだらせ訓練し、立ち直らせ、彼らの信仰を成長させることにあったと言えるでしょう。実現の一年前でさえ、サライは「ありえない」と笑ってしまいます。しかし二人は、ハランの地から導き出された時から、そしてイサクが生まれ、さらにあのイサクをささげると言う試練の時まで、試練を何度も通り、その度に神の前に何度もへりくだらされることを通して、神を信じると言うこと、その信仰が成長させられて行くのです。

C,「義人は信仰によって生きる:信仰に始まり信仰に進ませる」
 みなさん、信仰とはそのようなものです。はじめから完全な信仰の人などいません。聖書にはこう書いています。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ローマ1章17節
 信仰に始まり信仰に進ませ、そのような人は信仰によって生きると書いてあります。その信仰は、律法ではなく、福音のうちに啓示されている神の義であると書いています。しかも、この前後にはその福音は、しるしを求める人には躓きになり、知恵を求める人には愚かに見えるが、救われる人にとっては神の力であると、信仰は、人間の理性的な行いや努力、律法ではなく、恵みであり福音の力によるものであることがわかります。その神の力によって始まった信仰は、恵みによって信仰に進ませられることをパウロは伝えています。彼は、こうも記しています。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5章1〜5節
 と。このところで、信仰の歩みは平和、希望、喜びであることがわかります。重荷でも心配でもないということです。もし私たちの行いによって獲得する信仰や義や恵みであるなら、何時までも確信を持つことができず、何時までも平安はありません。救われていることがわからない、確信を持てない、重荷と心配に支配されます。このようにパウロが信仰には平和、希望、喜びがあると言うのは、信仰は律法ではなく福音、恵みであることを示しています。そしてその信仰は、恵みとして、患難や忍耐を通して練り上げられていくことを示しています。ヘブル人への手紙12章にも、こうあります。
「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヘブル12章10〜11節
 このように、この時、アブラムに「大いなる国民」の約束だけを与え、何時とかどんな時とか伝えず、最初の子を25年待たせることを計画していた神は、決して意地悪で具体的に伝えなかったのでも、長い間待たせようとしたのでもないのです。主の約束は、すぐになることもあれば、何十年も実現しないように思われることもあります。それは神が人の功績によって差をつけているとか、不平等とか、あるいは神がすぐにすることができることもあればすぐにできないことがあると言う能力の限界があると言うことでもありません。主は、信仰を与えた愛する人、救いに与らせる人には、信仰を始めるだけでなく、信仰に進ませます。そしてそれは試練を通してです。試練を通して、神の恐怖に服従させると言うことではありません。まさに思いもしない、計り知れない、信じられない、現実的ではない神の約束、神の言葉は恵みであり真実であると、希望と平安のうちに信じるように神が計画に従ってその人を導きさせる、その平安と希望に歩ませるようにさせるためになのです。

D,「神の前に自分が罪人であることを知らせることを通して」
 ですからルターは信仰者の歩みには、必ず試練が必要であることを教えています。試練は信仰が恵みによって成長させらる祝福でもあると彼は分かっていたのでした。私たちが神の前にどこまでも罪深い存在であることを忘れて、自分は正しい、「あの人が悪い、この人が悪い」と王様になったように高ぶって責任転嫁してしまうことが、アダムとエバの時から変わらない人間の何よりの大きな罪の深刻さです。私たちは自分の罪深さこそを簡単に忘れます。世の教えや、教会の教えでさえも、神の前に罪深い存在であることを忘れさせようとします。「そんなにあなたは悪くないよ」と。「自分はそんなに悪くない。」「これだけのことをしているのに。神のために。こんなに祈っているのに。神のために。誰々のために。だからそんなに悪くない」と。しかしイエスは、そのような自分の罪に安心しきっていて、自分はイエスに「あなたは神の国に近い」と褒めてもられるためにやってきて、実際、自分は律法を全て守っていますと自信を持って言ったパリサイ人の青年に褒めるどころか、「あなたの持ち物を全て売って貧しい人に施しなさい」と彼のできないことを指摘して彼の罪深さを教えようとしたでしょう。彼がそこで自分が神の前に罪深い存在であることをを認め悔い改めれば信仰に進められたことでしょう。しかし彼は悲しい顔をして帰って行きました(ルカ18:18〜23)。同じようにイエスは神殿に祈りにやってきたパリサイ人と罪人である取税人のお話があります。パリサイ人は自分がどれだけ正しいことをしているかを挙げて、隣の取税人のようではないことを感謝しますと祈りました。一方で罪人として忌み嫌われている取税人は、自分の罪を悔い、天を見上げることもできず、自分の胸を叩いて「憐れんでください」と祈るだけでした。イエス様は言っています。どちらが義と認められて帰ったのか、パリサイ人の方ではない。取税人の方だと(同18:9〜14)。そして、イエス様は、罪を悔いて、憐れみを求める、自分の横に同じように十字架に架けられた罪人に、あなたは共にパラダイスへ行くと言っているでしょう。「あなたはそんなに悪くないよ」と教え、罪や悔い改めは人をネガティブにして敬遠されるから教えないほうが良いというのは、「人の前」には、最もそうに好まれそうに聞こえ合理的手法ではあったとしても、「神の前」には聖書の教えではありません。それはむしろ神の前に罪を認めない高慢な人間へと導く間違った道であり不親切です。神は罪深い偶像崇拝者であったアブラムに現れ恵みによって信仰を与えました。その天地創造の神を知った時、彼は自分の間違いを知り悔い改めたことでしょう。信仰は罪の悔い改めに導かれることから始まります。そしてそれで彼は罪のない聖人になったのではありませんから、その歩みは何度でも神である主からの声に立ち返らせ、7、8節にもある通り、日々、祭壇を築き神を礼拝する歩みになり、そこが神の前の罪深い自分を告白する時になるでしょう。そのようにして彼は信仰に進ませられて行くのです。不完全で罪深い二人は主の恵みによってそのように信仰が成長させられて行くのです。世にとってはつまづきであり愚かであるはずのその神の言葉、福音、神の約束は、決して愚かではなく、真実である、そのように希望と平安のうちに信じる信仰へ導く力なのです。

3.「悔い改めと信仰の歩みの幸い」
 ですから日々、誰かの罪云々に怒り一憂するのではなく、聖書の言葉を聞くときに、自分の罪が刺し通される人は幸いです。その人は神によって悔い改めに導かれており、そこに神が、ご自身の圧倒的な福音の完全さ、私たちにとっては既に見ている十字架と復活のイエスによって、罪の赦しと新しいいのちの平安の派遣が今日も宣言されていることを知らされる時だからです。この十字架と復活の真の意味は悔い改めを通らされることなしには決してわからないか、あるいはただ自分の都合のいいように曲解するだけか、あるいは自分よりも他の人の罪云々を叫ぶようになるだけです。「隣の取税人のようではないことを感謝します」と。ですから自分の罪深さを今日も示され悔い改めに導かれたこと、その時は刺し通され痛いのですが、そこに私たちの十字架と復活のイエスによって、そこに平安があると招かれているのですから感謝しましょう。そしてそのような罪を教えられる日々の歩みを通してこそ、もちろんその時は好ましく思えず苦しいのですが、そのことを通してイエスは、世にとってはつまづきであり愚かであるはずのその神の言葉、福音、神の約束は、決して愚かではなく真実である、そのように希望と平安のうちに信じる信仰へと導き、成長させ、そこへ与らせようと日々働いてくださっていることをぜひ感謝しようではありませんか。今日もイエス様は身言葉を通して、私たちに福音を宣言し派遣してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心して、ここから世に遣わされて行きましょう。





<創世記 12章1〜9節>
1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる
 ものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべて
 の民族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。
 アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた
 人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、
 その地にはカナン人がいた。
7 そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と
 仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東には
 アイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。