2021年5月23日


「主はアブラムに仰せられた」
創世記12章1〜9節

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1.「前回」

 11章の後半部分から、ノアの息子、セムの系図、そしてアブラムの父であるテラの系図を共に見てきました。この系図は、かつて創造のはじめ人間が堕落した時に、神が約束した「女の子孫の彼が悪魔の頭を砕く」と言われた、その約束の救い主の誕生につながる系図でした。しかし、それは救い主へつながる系図だからと、その子孫たちが完全な信仰の聖人君子の系図と言うことではなく、どこまでも罪人の歴史であり、アブラムの父であるテラも例外ではなかったことを見てきたのでした。そこから救い主の約束も、そしてその誕生や救いの成就も、人間の側で何かをしたからとか、人間が果たすべき約束とか救いではなく、人間は何もできず、神が全てをしてくださる恵みであると言うこと、そしてそれこそ福音であると言うことを見てきたのでした。そのことが良く表され伝えられているのが、今日のアブラムに起こった出来事なのです。メソポタミアの北、現在のイラクとシリアの国境付近にあった町、ハランに住んでいたアブラムですが、


2.「主が仰せられた」


A,「父の家」

「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」1節

 月の神シンへの礼拝の中心都市ハランで暮らしていたアブラムですが、そんな彼に、主の方から語りかけます。「わたしが示す地へ行きなさい」と。ここで「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て」とあります。その父テラの家ですが、後の時代にヨシュア記を通して、そのテラについて書かれています。

「ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。」ヨシュア記24章2節

 アブラムの生まれ故郷、父の家は偶像礼拝の家でした。ハランの街と父の信仰の影響を考えると、アブラムが、どこまでも天地創造の神を知っていたのかはわかりませんが、おそらく父と同じ宗教と信仰の中で大きくなってきたことでしょう。このように、神が約束した「女の子孫の彼」の系図であるのに、人の目から見ても、もちろん神の側から見ても、偶像崇拝ですから、その約束の系図には全く相応しくない状態です。偶像礼拝は神の怒りと滅びに値する重大な罪です。しかしテラはもちろん、アブラムにも、そこから脱却する力や知恵や計画など全くありませんし、それが彼らからは起こり得ない状況であることは明らかです。では、人の側から見れば、どのようにして、その約束は果たし得るでしょう。無理です。人のなんらかの行いや知恵に、その約束の系図がかかっているとするのであるなら、もはや望みはありません。


B,「主の方から、アブラムへ」

 しかしこのところはっきりと「主はアブラムに」と始まっているでしょう。「主の方から」アブラムへなのです。主が、主の方から、この偶像崇拝の影響の元にあるアブラムへ来られた、そして語りかけられた、だからこそその約束への系図は絶えないのです。そしてそれはアブラムが何か神の好みにかなっていた、行いがその目にかなっていたからでも決してありません。偶像崇拝は重大な罪なのです。しかしそのアブラムのところへ神の方から来られた。これは神の一方的な恵みであることがわかるのです。

 堕落以後、人は皆誰でも、その肉の性質にあっては、天地創造のまことの神とその言葉に背を向け、疑い、信ぜず、否定し、無いといい、その代わりに、自分が神のようになろうとする歩みが始まりました。それでも、人間には、たとえ無神論であっても例外ではなく、誰もが何か必ず、中心となる信じる拠り所が必要になりますから、自分が神のように生きるか、あるいは誰かを神のように祭り立てるか、ほかの偶像の神々を立てるかになります。しかしその他の神のような人や神々も、結局、人が、自分の五感や感情や欲求に当てはまるものを神としているのですし、そのように認めるのも自分自身になりますので、結局、自分が神であり自分が中心であると言うことではあるのです。そのように誰もが、天地創造の与える神を忘れ否定すれば、誰もがなんらかの形で、皆、偶像崇拝者であるのですが、しかしその偶像崇拝という状況から、救い出し、脱出させるのも、ここでは誰であるのかが教えられています。アブラム自身からではありません。まさに、主の方から、来られ、語りかけることによってこそ、偶像崇拝にあるアブラムを救い出すのであり、偶像崇拝を捨てさせていることがわかります。そしてそのことは、やはり主ご自身の言葉を通してであることもわかります。主がアブラムにまず語りかけるからこそ、そしてその言葉によって、そして今日はペンテコステですが、その身言葉に聖霊が働くからこそ、アブラムは促され全てが始まっていることがわかるのです。皆さん、これはイエス・キリストを中心に、イエス・キリストを指し示すこの聖書が一貫して伝える救いの恵みの核心部分であり、大事なところです。この分厚い聖書を理解することは難しいと思うかもしれませんし、毎週の説教も難しく感じられるかもしれなくても、聖書が伝えていることは、実は単純でいつでも同じです。それは聖書の伝える救いは、決して、行い、人の功績、なんらかの努力や、立派な人間になるとか、戒律を全部守るとか、良い行いをこれだけして世の中に沢山評価され認められなけばならないとか、あるいはいっぱい奉仕をしたり献金をしなければいけないとか、そんなことでは全く無いということです。聖書が創世記の1章1節から、黙示録の最後まで、終始一貫して私たち一人ひとりに語りかけ伝えるのは、私たちが救われるのは、どこまでも神の方からの恵みによるのであり、それだけでない、そこから始まり天に帰る時までの日々の新しい歩みも、そこからは律法や行いや努力によるではなくて、それも、どこまでもキリストの恵みのみによるのであり、その恵みを受け取ることから日々の平安な歩みは始まる、つまりどこまでも、その約束の彼である、神の子であるイエス・キリストによって。そのことに尽きるのです。そのことがこの偶像崇拝者アブラムに来られた主の行動に、そのことを記すこのみ言葉に伝えられているということなのです。


3.「わたしが示す地へ行きなさい」

 さらにこの1節は様々なことが教えられています。主は、そのハランのテラの家から出るようにいうだけでなく、

「わたしが示す地へ行きなさい」

 というのです。まず、どこへ行くのかはアブラムが決めるのでは無いということですし、アブラムの好みとか願望とか期待とか、彼のビジョンとかでも無いということです。どこまでも主なる神がわかっていて、主ご自身のビジョンであり、そしてアブラムはそれはどこであるのかわからないということです。人は具体性を求め、具体的にこう出ないと動けない、信じられない、目的がはっきりわからないから嫌だ、だめだ、というのが普通です。人の前での私たちの世の中の価値観では、その方が合理的であり安心でもあるでしょう。しかし信仰の道は、神の道であるからこそ、私達には計り知れないことの方がむしろ多いのではないでしょうか。百歩譲って、もし神と私たちの価値観や判断基準や、知恵や知識が同レベルであり、同等であるなら、そのような世の価値観に神を当てはめて、神はわかりづらいや具体性がない、などと言うことが可能であるのかもしれません。しかし紛れもない現実は、神と私達は同等であるわけがなく、神は、罪深い私達よりはるかに大きく、私達自身では計り知れないほどの大きさである神であるのですから、その神のなさること、示すことが、私達には計り知れない、わからないことばかりというのは当たり前のことなのです。神が示してくださった、啓示してくださった、指し示してくださったことまでしか、私達はむしろ理解できないのです。主は、アブラムに「父の家を出て行くように」と出て行くところは、具体的な指示を言いましたが、そこから出て、どこへ行くのかは、アブラムはわかりませんでした。そこまでは神は言わず、神は「わたしが示す地へ」と言いました。確かに、私達の目には不安です。そんな言葉で出て行くことができるでしょうか?それはアブラムも同じであったことでしょう。しかし信仰というのは不思議なもので、そのような人の前、人の目では、不安的で、はっきりせず、わからないことが溢れている中でありながら、同時に、そこにはその不安に勝る希望があり、そしてそれでも一歩を踏み出させる何かがあるのです。新約聖書のヘブル人への手紙ではこんな言葉かかれてあります。

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しをうけたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」ヘブル11:8

 アブラムはここにある通りに、どこに行くのか知らなかったのです。しかしこの言葉にもあり、今日の4節以下にもある通りにアブラムはその声に従いました。なぜなら「信仰によって」とここにあります。それは誰への信仰であったのか。それは、罪深い他の誰かでも、不安定で先が見通せない誰かへの信仰でもない、まさに全て先を見られ、良いことをなそうとし、益として下さる神が「わたしが示す地へ」と言われているからだったことがわかるのです。このように「人の前」にはわからないことが満ちていても、全てをご存知の「神の前」にあり、その神の言葉であるからこそ確かであると言えるし、その確かさに従って一歩を踏み出させてくれる。それが信仰の素晴らしさであることを教えているのです。事実、神は、こう続けていますね。


4.「「既に」の恵みの約束」

「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」2〜3節

 と。神は示す地はどこかは言いませんでしたが、神のビジョン、神の計画、神の約束をアブラムにはっきりと示し、そして約束したのです。この約束も「そうすれば」とありますが、前回のノアの契約でも見ました。相互契約的なものではありません。アブラムのすることといえば、その神の恵みの招き、指示に従って、家を出て、どこだかわからない示す地へ行くことです。「そうすれば」なのです。出ること自体が神の恵みであり神の働きかけであり、神の言葉によるもので、その恵みを受け取り、ただ従うだけだと、神は言っています。そしてその後の「大いなる国民、あなたを祝福し、大いなる名とする。あなたの名は祝福となる。」」と言うその約束も、それらは、神は、アブラムに、あなたが頑張って、自分の功績で、わざで、なりなさい、そうすれば祝福しますという言い方をしていません。神はそれが「なる」といい、それは可能性とか、なるかならないかわからず、それは全て人にかかっているということではなく、実際は、神がなさることであり、神にあっては既に実現していることを意味しています。つま、一方的な神の約束であるということです。先ほど読んだヘブル書11章8節には「相続財産として受ける」ともありますが、相続財産は父から受け取るだけです。そのようにアブラムは恵みの語りかけと、神がする与えると言われている、もう受けるだけの一方的な約束の指示に従って出るだけなのです。皆さん、そうであるからこそアブラムは、どこへ行くのかわからないで、不安もありながらも、しかし同時に、そこに神からのみ言葉と聖霊の働きによって信仰が与えられ、希望に溢れ出て行くことができるのです。それは神の一方的な約束であり、恵みであるからであり、その神の恵みの言葉を信じる信仰のゆえなのです。


5.「聖霊はみ言葉を通して」

 そして最後に、その神のアブラムへの恵みの働きかけは、どこまでも神の語りかけ、その神のみ言葉を通してであり、そしてそのみ言葉には、神ご自身の霊である聖霊が豊かに働いているからです。聖霊なる神は聖書の中で一貫して、人に語りかけ、働く時、み言葉を通して語りかけて働きます。ですからアブラムやモーセの時代、確かに、モーセは神の背中を見て神の声を聞いたことがありましたし、イエスの時代には、まさに使徒たちや大勢の人々は、神の御子の声を直接、聞きました。しかし直接聞いたからと言って、皆が信じたわけではなく、むしろ多くは反抗しましたし、信じた人でさえ、そのイエスの言葉に働いていた聖霊の働きのゆえに信じたのでした。そのようにその特別な場合以外は、神は直接語りかけることなく、多くは、聖霊なる神は、預言者や使徒、説教者によるみ言葉の解き明かしを通して語り続け、そして働くのです。しかしそこにも人を介するから、何か弱まったとかではない、神はご自身の選んだその方法を用いて、この聖書から、み言葉を通して、私達に語りかけるし、そこにはなんら弱まっていない聖霊が豊かに働いているのです。事実、そうでなければ、新約聖書の使徒の働き2章にある、ペンテコステの日の朝の出来事もなければ教会もありません。教会の誕生は、聖霊なる神が直接、一人一人に語りかけ、それを直接、聞き、感じて、人々は救われた、ではないんですね。使徒の働きの2章、まさに聖霊が使徒たちに与えられ、聖霊がイエスが語ったことを彼らに思い起こさせ、聖霊が使徒たちを用いて、その神の言葉を伝えさせた。その言葉に聖霊が豊かに働いていたからこそ、人々は、心を刺し通され、罪を悔い、そしてペテロからの、信じて洗礼を受けなさいと言う、言葉に従って洗礼を受けたのが、ペンテコステの日の朝の出来事なのです。そこにもみ言葉を通して働く聖霊の恵みによる救いが現れています。ですから、み言葉もなく、あるいは聖霊が人を用いて伝える、み言葉の解き明かしである説教を聞くことなく、勝手に、自分が思うように願うように、直接、神が語っているのを感じたとか、感じたから、聖霊の声なんだ、神の声なんだ、神はこう教えているんだ、とかは、神は決してなされないということです。あるいはみ言葉の引用が確かにあっても、そこに神が何を語ってて、何を伝えたいかなど、その文脈や背景や、何より教理などを全く無視して、自分の価値観や、願望や、願いや、あるいは人をただ自分の思いのままに裁くためとか、自分の欲求を実現したり主張するために、み言葉をつまみ食い的に用いて、これこそ神の言葉、神の教え、聖霊の働きだと、クリスチャンは思っていたり、言ってしまったり、することは、多々あるのですが、それも、聖霊の働きでも神の言葉でもなく、むしろ自分自身に神を従わせてしまっていることになります。聖霊の働きは、いつでもみ言葉を通して、しかも旧約の時代の、裁き司や、預言者、新約の時代の預言者、使徒たち、説教者や牧師による、その正しい解き明かしを通して、私たち一人一人に働くのです。ペンテコステはそのことが始まったまさに喜びの日であり、ですから、聖霊は、今も私達にみ言葉を語りかけ、私達に教え、イエスの言葉を伝えてくれています。そして今日も父子聖霊の神は、み言葉にあるイエスの言葉の通りに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と罪の赦しと平安の派遣を宣言してくださっています。ぜひ今日も父子聖霊の神様から受け、安心してここから出て行きましょう。





<創世記 12章1〜9節>

1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、

 わたしが示す地へ行きなさい。

2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる

 ものとしよう。あなたの名は祝福となる。

3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべて

 の民族は、あなたによって祝福される。」

4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。

 アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた

 人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、

 その地にはカナン人がいた。

7 そのころ、主がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と

 仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東には

 アイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。

9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。