2021年5月16日


「罪人の歴史、約束の救い主の系図A」
創世記11章10〜32節

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1.「前回」

 前回、ハムの子であるニムロデが、その強大な権力と支配、そして人々の支持により、民を一つにし、レンガやアスファルトを用いて、一致して大きな町と天にまで届く塔を立てようとした出来事を見てきました。しかし神はそのニムロデの事業を通して、人間の心と動機に、神と神の言葉を蔑み無いもののようして、人間自ら神のようになり、世界に名を上げようとする自惚れと傲慢さを見抜きました。そこで神は、その一つの目的のために一つとなっていたその民の言葉を混乱させました。それにより人々はそれぞれの国や民族の言葉に分かれ、人々は世界中に散らされ、町も塔もその建設は終わったのでした。そこから、神がはっきりと見ていた「人間の思い計ることは初めから悪である」ということがその通りであること、そしてどんな人間の計画やそれによる栄華も積まれたまま残ることはなくいずれは崩れ去るということ、そして何より神の言葉こそ本当になって行き、変わらない永久に真実な言葉であることを教えられました。そして神が私達の平安と良き生き方のために指し示しているのはバベルの塔ではなく、私達の罪のために身代わりとして死んでくださり、私達を神の前に罪赦され正しいものとしてくださったその十字架と復活のイエスであるのだと教えられたのでした。さて10章ではノアの三人の息子の系譜を見て、最後のところでセムの歴史が書かれてあるのを見ました。11章の後半でもセムの系図が再び記されているのです。


2.「齢」

「これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。」10節


A,「齢は短く」

 セムの最初の子供は洪水の後であったことは以前見てきましたが。それは大洪水の2年後であったことがわかります。洪水の水が地から引いたと思われてから、ノアたちは約一年ほどは箱舟を出ていませんので、この「大洪水の2年後」はその水が地から引いてからか、あるいは箱舟を出てからのことを指しているのかわかりませんが、セムが100歳の時の子供でした。寿命について神は人間の齢は120年(6章3節)と言っていましたが、洪水前の先祖たちから時間的に離れていない、ノアもその子も何百年もまだ生きていた時代ですから、100歳の子というのはまだセムの時代では驚くべきことではなかったのかもしれません。11節を見ると、その彼の生涯の500年の間にさらに息子、娘たちを生んでいることからもわかります。しかし今日のセムの系図の最後にアブラムが出てきますが、その妻サライは、神が100歳の夫婦に子供が与えられると言ったとき、年老いた夫婦に子供が与えられようかと言っていることからも、このセムからアブラムに至るまでの長い年月の間で平均寿命が神の言われる通り短くなって行き、100歳で子供は生まれないというのが普通になっていったのでしょう。事実、11節から系図とその生きた歳が書かれていますが、25〜26節、ナホルがアブラムの父であるテラを70歳で持ったことが書かれています。そこでは、もちろんその後、テラ自身は父より長く205年まで生きたことが書かれてはいますが、ナホル自身の齢は119年であったことからわかるのです。齢は確かに120年ほどになったのでした。そしてこの系図で、それぞれの世代が、息子、娘たちを生んだとありますが、この10代に渡る世代が、10人の子供を生んだとすれば、この11代の世代の時間で、人口はおよそ3億人に増えるという計算になるとLutheranStudy BIbleに解説されてありました。何れにしても、ハムとヤペテの子孫もおびただしく増えて言ったわけですから、このアブラムの時代に至るまでの世代において既にに、かなり多くの人口が、世界中に広がっていったのでした。そしてこの系図はアブラムの父テラまで書かれて終わっています。先ほども言いましたようにこのセムからテラまでの間、人間の寿命が著しく短くなっています。もちろん洪水前と洪水後では、環境は大きく変わったことでしょう、環境が変わったり人間の生活様式が変わることで疫病なども増えることでしょうけれども、やはり神がその齢を120年にしようと言われたその通りとなったということが言えるのです。そしてそのように言われたのは6章3節をもう一度見てみるとこう書かれていました。


B,「罪の影響」

「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。」6:3

 主の霊、聖霊が永久に人のうちにとどまらなくなったのは、人々が、創造の初めから堕落後も、それまで彼らを導き支えてきた「神の言葉」を軽蔑するようになり、力がないものとして退け、神の言葉ではなく自分の好みのまま思いのまま行動することによって、主の霊は神の言葉を通して働きますから、それを退けることで聖霊も離れたことを意味していました。それに対して神は聖霊の助けのない人間はただの罪深い肉にすぎないのだから、齢は120年にしようと言ったのがこの言葉の由来でした。ですから寿命が短くなったのは環境や疫病のせいももちろんですが、何より人間の罪の深刻な影響であることを聖書は伝えているのです。それに環境の変化や破壊も神が望んでいることではなく、人間が自分が神になったかのようになって自然を支配し破壊してきたことにあるわけですから、やはり、齢が本当に120年になったのは人間の罪の深刻な影響の表れであり、もちろん神が実際に働いて齢を縮めたとも言えますし、一方でそのことを予見的に示していたとも言えるのです。系図の歴史はそのように、たとえセムの家系であったとしても、人間の「思い計ることははじめから悪である」その罪人の歴史であるということは忘れてはいけません。


3.「救いの系図」

 しかしこのセムの家系には、同時に何より私たちに語りかけられている恵みのメッセージもあることを忘れてはいけません。27節以下は、アブラムの父テラに特定して、テラの歴史が書かれています。


A,「テラ」

 まずテラとその家族がもともと住んでいたところです。28節にはアブラムの兄弟でありロトの父であるハランは、父の存命中、生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだとあります。そして31節でテラは息子たちとともに、カルデヤ人のウルからカナンの地を目指して移住の旅に出ることがかかれてあります。つまりテラはカルデヤ人のウルに住み、そこで子供たちを生み、そしてその地で息子たち家族と過ごしていたことがわかるのです。このカルデヤ人のウルですが、考古学上ではバビロンの南、ユーフラテス川の西岸の地、現在でいえばイラクの南に位置します。このウルの町はメソポタミアの月の神シンの宗教の中心地でした。ですからテラは偶像崇拝の影響の大きいところで暮らし子供を育てていたことがわかるのです。テラは31節にある通り、息子アブラムとその妻サライ、そして亡くなったハランの息子である孫のロト、アブラムにとっては甥っ子になるのですが、その家族でカナンの地へ旅に出るのですが、しかし31節最後には、こうあります。

「しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。」

 カナンには向かったものの、ハラン、メソポタミアの北部の商業都市になり、現在のシリアとトルコの国境付近になりますが、そこでテラはカナンに行くことをやめて定住することにしたのでした。このハランは、ウル同様に、メソポタミアの月の神シンのための礼拝の中心地であったのでした。テラはその地に定住することを良しとしたのですが、それは、テラは決して聖書の神、天地創造の神を信じていたということではなく、むしろ彼はそうではない神、偶像であるシンを礼拝する偶像崇拝者であったと言われているのです。


B,「罪人の系譜」

 このようにセムから始まりテラ、そしてアブラムと続く系図を見てきましたが、創世記を記したモーセは、このセムの系図をここで改めて記してるのは、セムの系図こそ、人間が堕落したまさにその時、3章15節ですが、神が「女の子孫の彼が、悪魔の頭を砕く」と、人間を堕落の罪から救い出すというその約束の「彼」につながる系図であると聖霊によって霊感されたからこそ記しています。しかしその約束の救い主につながる系図であっても、それは「人の思い計ることははじめから悪である」と神が言われた、罪びとの系譜であることには変わらないのです。やはり人はすぐに、天地創造と恵みの神を忘れたり否定したり捨ててしまい、人間中心となり、そして目に見えるものを神とする偶像崇拝に走ってしまうのです。人はそのように目に見える像で華やかに装い、華やかで熱狂的に礼拝される他の神々への礼拝の方が自分を満足させ、ピンとくる、あるいは周りがそのように崇拝しているから、やりやすい、悪い影響はない。等々。人は、自分で神を都合のいいように選択したり、排除したり、無いもののようにしたり、あるいは苦しいときだけの神頼みとしたりするのが普通であり、あのアブラハムの父テラもそうであったということなのです。


C,「律法ではなく福音:神の計画のために人は何もなし得ない」

 ですからこれから12章以降、信仰の父と呼ばれるアブラハム、最初はアブラムですが、しかしその信仰の起源は決して父では無い。その系図で、人間的なわざによって、受け継がれてきたのでも無い。そして約束の系図を保ってきたのも、何か人間側の優れた何かがあったからでも無いということです。アブラムは、父から宗教的な何かを学んでいたことでしょうけれども、テラの口から教えられることは、その月の神シンの信仰や礼拝であったことでしょう。アブラムも、生まれながらに全くその天地創造のまことの神への信仰から離れることも、天地創造の神からそれることなく始めから崇拝していたということでもなく、父の影響を受けた時期もあったでしょうし、いや天地創造の「神の方から」声があるまでは、その神のことをよく知らなかったかもしれません。そのように「約束の系図」であったとしても、それは人間の側で何か一生懸命守り通してきたとかでは無い、人間の側の何かがそれに貢献しているとかでも全く無い。人間の側では全くわからない。むしろ天地創造の神が、人間の思い計ることははじめから悪であることをよく知った上で、それはその系図のセムの家系であったとしても、彼らが偶像礼拝に走ることもご存知で、それはもちろん神にとっては大きな悲しみではあったとしても、全てご存知の上で、それでも最初の「彼女の子孫の彼」の約束を、「人間が罪深いから、もうやめにしよう、無しにしよう、反故にしよう」とは言わないで、神が守り続け、保ち続けた、全くの神の恵みであり、神がなさっていることなのです。このことからも堕落の時の神の約束、「女の子孫の彼」という救いの約束は、「あなた方が一生懸命、このことを果たしなさい」という律法では無いということがわかります。聖書の基本として、聖書の言葉は、律法と福音の二つに区別されますが、「律法」というのは、「私たちがしなければいけないこと、してはいけないこと」のことですが、その律法では無い。この約束は、その逆、「神が私たちのために一方的にしてくださること」。それが「福音」というのですが、救いの約束はだからこそ福音であり、最初の「女の子孫の彼」の約束はだからこそ「最初の福音」と呼ばれるのです。系図は人間の歴史ですが、この「約束の彼」つまりイエス・キリストへと通ずる、系図の背後にある、約束の成就に働く力は、決して人間の側にあるのでは無い。どこまでも神の力、神の働きであり、それは神ご自身のためではなく、私達のための。どこまでも神の恵みであるということなのです。


D,「事実、主はアブラムに」

 事実、次回の12章に見て行きますが、そのようにハランの地で父と共に過ごしていたアブラムは、自ら、思い立って計画して、その地を出て、自ら天地創造の神とその約束を見出し、自ら神を求めるようになり、自ら、その約束の子孫のために立ち上がらなければと言って、ハランを出るでしょうか?そのようなことは書かれていません。その逆です。主の方からアブラムのところに行き、アブラムに語りかけ、アブラムに指示をし、そして祝福の約束も、神の方からアブラムに与えるのです。神からの声、言葉がなければ、彼はずっとハランの地で生涯を終えたことでしょう。人の側の何かの原因や理由を求めるならここで行き詰まります。彼の側には何もなかった、何もわからなかった。しかしどこまでも主なる神の側から声をかけられた。言葉も神の方からであったのです。みなさん事実、これこそ聖書で一貫していて教会が声高に伝える「恵み」と呼ばれるものです。恵みは、何か私たちの方で少しなんらかのことをしたら、果たしたら、注がれる与えられる、注入されるとか、いろんな言い方がありますが、そんなものでは決してありません。しかし実はキリスト教の外からではなく、キリスト教会の中から、そのように何かをすれば、恵みは与えられる、注がれる、注入されて、それで救われるんだ、という間違った恵みの教えに何度でも逸れてきています。それは絶えず起こっています。そして「ただ」より、まず人の側で何かすれば、その後プレゼントをされる、報酬を受ける、という方が、人間の側から見れば、わかりやすく、倫理道徳的に合致するし人間の理に合うと思うものです。世の中はそうですから。しかしもしキリスト教の救いがそうであるというなら、恵みのみの看板も、福音の看板も下ろすべきです。先ほども言いました。律法は私達がしなければいけないこと、福音は神が一方的に私たちのためにしてくださることだと言いました。恵みはどちらですか?福音です。もし何かをまず人間の側でするから恵みが与えられるとするなら、それは恵みですか?矛盾します。それは福音ではなく、それは律法です。しかし、その矛盾が当たり前のように教会で説教されたり強調されたりすることが教会の歴史では繰り返されてきたというのが現実なのです。しかしこの一見つまらないと思われる系図にさえ、天地創造のまことの神は、私達の救いは恵みであり、律法ではなくどこまでも福音であることを証明し私達に教えてくれているのです。その約束を何よりはっきりと私たちに現してくださったのがこのイエス・キリストです。その誕生も、生涯も、そしてこの十字架も復活も、人は思いもしないこと、信じられないこと、理解できないこと、なし得ないことです。しるしを求める人にとっては躓きとなり、知恵を求めるもには愚かなのがキリストです。しかし神は人間にとっては愚かと思えるこのキリストの身代わりの死による十字架で、神の方から、事実、悪魔の頭と私たちの神の前の全ての罪を砕いてくださいました。そしてよみがえったその命で日々私達を新しくしてくれるのです。私達のためにです。このキリストのゆえに私達は、人の前ではどんなに困難があっても、神の前に本当に罪赦されて安心し休むことができます。そして主なるキリストはその復活の福音の力で平安のうちに、私達を世にも遣わして用いてもくださるのです。今日もイエスは一人一人に「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と言ってくださっています。ぜひ安心してここから遣わされていきましょう。






<創世記 11章10〜32節>

10 これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデ

  を生んだ。

11 セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。

12 アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。

13 アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。

14 シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。

15 シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。

16 エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。

17 エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。

18 ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。

19 ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。

20 レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。

21 レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。

22 セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。

23 セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。

24 ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。

25 ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。

26 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを

  生んだ。

28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。

29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の

  名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父で

  あった。

30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。

31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻で

  ある嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょ

  に出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。

32 テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。