2021年5月9日


「神がバベルの塔を通して伝えること」
創世記11章1〜9節

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1.「はじめに」

 先週は、ノアの三人の子供たちの系譜を見てきました。洪水後、ノアとその家族が箱舟から出た時、神の変わらない祝福の下に、人々は新しい生活を始めるのですが、神がその時「人の思い計ることは初めから悪である」と言い、堕落した人間の変わることのない罪の性質をよく分かっていたその通りに、三人の息子たちのその子供・子孫たちは、特にニムロデの権力に代表されるように、やがて神の恵みと祝福を忘れて背を向けていき、自らが中心、神になったかのように発展する歴史を刻んでいくことになります。そのことがよく現れている出来事がこのの箇所になります。


2.「一つの言葉:ハムからニムロデへ」

「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。」1節

  この時の世界の全ての人々の言葉は一つだったとあります。それは当然で、ノアという一つの家族の、その三人の兄弟から分かれ出たのですから言葉は同じであったのでした。ですから10章にあった系図で、それぞれの国の国語があったと書いてあったのは、今日の出来事の後のことを伝えていることになります。ノアに近い歴史を生きた人々は、このように一つの言葉にあって、ノアとその息子たちの経験した、洪水の出来事を通しての神への恐れと、信仰の父祖たちから受け継がれてきたこと、堕落とそこにある約束と信仰のこと、そして父祖への敬意を語り伝えながら生きてきたことでしょう。しかし見てきましたように、ハムの父に対する尊敬を欠いた出来事がありました。彼は父の権威を軽んじ、そしてそれまで教えられてきたことに反し、敬意を払うべき父を嘲笑しました。そのようにしてハムは父の元を去っていくのですが、それは父から教えられてきた教えから離れていくことにもなったようです。ハムの子孫たちは年代を追うごとに洪水の鮮明の記憶が当然なくなっていくだけではなく、ハムがそうであるように、神の教えに背を向けていくことも受け継がれていくようになります。そのようにして前回見たように、ニムロデは、人から見れば神に匹敵すると見える様な強力な権力で支配し、社会を政治的?経済的に発展?繁栄させ、最初の王国を作り、人々からの賞賛はされるのですが、神も神とその言葉に背を向けた、自分中心で、自分のための、王国のはじめとなって行ったのでした。そしてかつて洪水前にカインの子孫の町や権力の広がりにおいて、セツの子孫に起こったことと同じ様に、ニムロデの王国の広がりのためのその様な発展と影響力は、神への信仰を受け継いでいる人々、とりわけセムの家系を様々な方法で苦しめたり、良くない影響を及ぼしながら、10章で見た様に最初の権力と一つの国家を広げて行ったと思われます。そのことが2節に見ることができることです。


3.「ニムロデの王国、バベルの発展」

「そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」2節

 人々が東の方から移動してきて定住したとありますが、これは明らかにこの後のバベルの都市と塔の建設に関わる人々のことを指していますので、移動してきたのは、ニムロデの民と、そのほかのハムの子孫の民を指しているのです。そして先週の10章10節で、ニムロデの最初の王国が、バベルとありますので、ここに定住し王国が始まり、その名がバベルということだとわかるのです。

「彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにレンガを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。」3節

 メソポタミアの平地ですから、切り出す石も十分ではないため、レンガを大量に作ることを発展させたようです。さらには瀝青、アスファルトを用いて彼らの町づくりは始まります。かつてカインの子孫も様々な技術を生み発展させることによって社会を発展させてきましたが、ニムロデはそれと似ています。その様に最初の国家は広がりや数だけでなく、今ままで誰も見たことのないようなレンガと瀝青でできた頑丈な建物が立ち並ぶなど、見た目にも華やかに発展し、人々の増加と経済活動に比例して国家は繁栄していきます。そしていつの時代でも人の変わることがない欲求と価値として、そのような目に見える繁栄は人々にとっては魅力的であり、まさにニムロデの繁栄に神のごとき正義と力を見て、彼らはニムロデの人柄、思想、政治、力、そこにある国家に引きつけられたことでしょう。しかしそこに人々はあることを計画し、そして言うようになります。4節です。


4.「町と塔の建設」

「そのうちに彼らはこう言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

 彼らは、天に届くような塔を立てようと言います。「散らされるといけないから」とその理由も語っています。一つになり、目的を達成しようとする。しかもそれは一致のため。地上の社会や国家の価値観、人間の価値観から見るならば、今でも当たり前のように認められ、賞賛されもする考えのように聞こえます。しかしそれを主がわざわざ地上にこられ、その人の建設している町と塔を見られ言うのです。5節以下ですが、


A,「神はそれを見て」

「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」5〜9節

 主なる神は、人々が一つになり町と天にまで届こうという塔を立てているのを見て快くお思いませんでした。6節の言葉は、人々が一つとなり同じ言葉で行うことには、彼らにとってはもはや何も不可能なことはない、なんでもできるかのように人々が意気揚々とし行動していると、神は見えたことを意味しています。そこで神は何をしたのかと言うと、言葉を混乱させ、互いに言葉を通じないようにしました。そして一つであった言葉はそれぞれ異なる言語に分かれていき、そして彼らの志で一つとなった民も散り散りになり、その目的であった町と塔の建設もそこで終わってしまうことになります。それによって、言葉の違う、国々ができていくことになったのでした。


B,「人の前には?」

 皆さんはここで何を思うでしょうか。誰かのリーダーシップで、つまりここではニムロデですが、彼の指導力で民は一つになり大きくなり、そして一つの志と目的で町と塔を立てようとしました。天に届くような塔です。一つとなったものが散らされないようにです。何が問題なのか?良いこと、素晴らしいことではないか?そう思う人も多いでしょう。むしろ、もしこのように言葉が混乱させられなければ、今もしかしたら一つの言葉で色々な国や民族の人とコミュニケーションできただろうに。言葉が同じなら、口が散らされないなら、そもそも国さえ一つであったかもしれないではないか。そうであれば国家の戦争さえない、そして何より宣教だって上手くいったのではないか?そう思うかもしれません。あるいは今は世界が一つになることは崇高な理想であり、その理想がまさにバベルの塔であり、ニムロデは素晴らしいことをしようとしたのではないか。なぜ神はそれを妨害し邪魔をし、むしろ現在の様々な問題の原因となるように言葉や国を散らしたのか?そういう人もいることでしょう。皆さんは、ここに何を思うでしょうか?


C,「神の前では?:何が問題か?」

 確かに「人の前」では、なんら問題のないような行動や決断や政策であったことでしょう。しかし「神の前」では、一体、何が問題であったのでしょう?彼らの動機はどこにあったのでしょうか。ある人々は、彼らは、主が再び洪水で世界を滅ぼそうとするかもしれないから、その時の安全に避難できる所として、天まで届くような塔を立てていれば、洪水に飲み込まれることはないという理由だったのだと言いました。しかしハムは、父ノアとともに、神の、二度と洪水で滅ぼさないという約束を直接聞き受けた一人でもありました。そしてハムは、その洪水が世界のもっとも高い山の頂上が全て隠れるほどの洪水であることを見て知っていました。ですから技術的にも賢さを持っていたハムの子孫、ニムロデが、そのような現実を無視した非現実な塔を立てようとするほど愚かではないと言えるでしょう。高い塔は立てようとしたのですが、本当に実際的に、天に届くような塔を建て、天に届いたら、その名前を神の前で叫び轟かせようということではないようなのです。そして町や塔を建てるということ、それ自体も問題ではありません。問題は、その動機、その心でした。ここで日本語ですと「私たちは町を建て、〜塔を建てよう」とありますが、英語ですと、「let us buildourselves a city and a tower」,「let us make a name for ourselves,」と「ourself, for ourself」という言葉が書かれています。つまり直訳すれば、「私たちは私たち自身で建てよう。私たち自身のために名をあげよう」という意味です。ルターも彼の創世記講解を読むと、この「ourselves」という言葉に注目しています。つまり4節でリーダー、おそらくニムロデ、あるいは彼らまわりにいた人々かわかりませんが、彼らが言ったこの言葉は、「自分が、自分で、自分のために」という彼らの自惚れた心を表しており、彼らの、神を信頼すること、求めることを抜きにして、この世の事柄に彼らの信頼を置き、むしろ、神のもとに歩むこと、信じる信仰には、全く力や華やかさがないからと、それらを軽蔑する、その心にあるのだと、ルターは説明しています。ですから天に届こうとするのも彼らが名をあげようとするのも、それらはその神の怒りや、神の言葉を軽く見たり、あるいは弱いものとし、自分自身の力でそれに対抗し、もっと素晴らしいものを作れるという、うぬぼれ、傲慢さの現れに他ならないのです。


D,「「人の思い計ることははじめから悪である」の証し」

 そしてそれはまた、神が全てをご存知であったその言葉「人の思い計ることは初めから悪である」がその通りであることの証しでもあるでしょう。なぜなら創造のはじめ、その神とその言葉を無いかのようにして、自惚れ、傲慢になることこそ堕落のはじめでもあったでしょう。神の言葉に支えられ、神への信頼において導かれている時は、人は互いにあって真に平安であったのですが、しかし悪魔の、神を疑わせ「神のようになれる」という言葉にこそ人は、躓き、落ちるでしょう。彼らは、神と神の言葉を無視し、聞かず、疑い、ないものとして、自らの意思と欲求と行動で、神のようになろとしたのでした。まさに、形はなくてもそこに同じように、天に届こうとして自分の名をあげようとした一組みの夫婦がいたのですが、それが堕落、罪の始めであったのでした。バベルの塔は、建物としては立派なものであったでしょう。しかしそれは、それを始めた人のその自惚れた傲慢な、不信心な心の象徴と具現化された作品であったのでした。


E,「人の言葉はならない。そして栄華は朽ちる」

 そして当時に世界の頂点にあったニムロデのバベルの王国のその塔、当時の叡智を結集し、文字通り世界が一つとなって、一致して一つの目的、ビジョンのために建てあげた最高の作品ですが、神の一言でその建設は止まり崩されることになります。人の自分自身による自分自身のための、天や神に対する思いも実行もそれは決してならなないし、神の前には全くもって無力であり、そしてやがて朽ちゆく産物です。栄華を極めたソロモンの神殿も、バビロンの帝国も、華やかなローマ帝国の大都市と神殿も、朽ちていき遺跡となりました。しかし神の思いと神の言葉はその通りになり、今もそのままです。人の言葉はバラバラのままであり、人が一致してなそうとすることにも、「人の思い計ることははじめから悪である」と言う、その通りに、それぞれの利益と思惑と打算や価値観が、自己義認や自己実現、そして都合が悪くなると責任転嫁や裁きあいが渦巻いていて、まさに建前だけの調和で、実際はうまくいかないし問題も次から次へと生みます。人間の神を軽んじ、あるいは捨てた、自分が神のような、自己中心な、自惚れによってなそうとすることは、どんなに崇高なキャッチフレーズや青写真やビジョンがそこにあっても、どこまでも罪深い、そして罪は罪を、矛盾は矛盾を生み、結局は何もなし得ません。


F,「神の言葉がとこしえに変わらない」

「「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」第一ペテロ1章24〜25節。

 ペテロは旧約聖書を引用してこの言葉を言っていますが、イエスも神殿を見て言っています。周りの弟子は、神殿を見て、なんと見事な石、素晴らしい建物と言っているのに対して、イエス様はいうのです。

「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」マルコ13章2節

 「しかし、主の言葉はとこしえに変わることはない」なのです。


5.「結び:バベルの塔?それとも」

 今日のところは何を伝えているでしょう。神を知らない人々は、歴史が繰り返すように、ニムロデのように自分たちのバベルを立て続けることでしょう。そしてその塔が朽ちていくのも繰り返されます。しかしクリスチャンはそうであったてはいけません。バベルを見ていたのと同じ神は、私たちの思いを自分で実現していくことに敬虔さがあるとは、見ていません。たとえそれが「神のためだ」と言っても、自分の思いを自分で実現していくところには、自分のためでしかなくなるのが自然だからです。それは、神が教え、神が導き、神が与え、神が用い、神が用いて神がなすことに対して、まさに自分自身、myselfやourselvesが入り込み自惚れが支配することになります。自分はできる、自分は達成できると。「神がなす」とクリスチャンはいつも恵みを語っているのに、です。私たちに示されているのは、バベルの塔ではなく、ゴルゴダの丘の、イエス・キリストの十字架であり復活だけです。それは私たちにmyselfやourselvesを示し、自分でやる、達成することや、意志の力や功績の自慢を求めても教えてもいません。むしろそれを捨てさせ、そこにあるのは、イエス・キリストが「わたしが、あなたがたのために、あなたのために」だけです。それが恵みと呼ばれるものであり、それが福音であり、福音に生かされ福音に従うとは、そのイエスが「わたしがあなたのために」と言われること、その言葉の力を受け取ることから始まり、イエスはその福音において、その主ご自身の力によって、私たちを用いて、喜びと平安のうちに促し遣わし行わせるという、その約束に忠実に生きることでしょう。そしてその約束はその通りになるのですし、その約束を私たちは信じるのです。私たちに掲げられ見上げるのは、バベルの塔なのか?ゴルゴダの十字架のイエスなのか?今日もイエス様が語ってくださり招いてくださっている答えは明らかです。この十字架のイエス、復活のイエスのみなのです。今日も見上げましょう。今日も、イエスが語ってくださる福音の言葉をそのまま受け取りましょう。今日もイエスは言ってくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心して、ここから遣わされて行きましょう。





<創世記 11章1〜9節>

1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住

 した。

3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを

 用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、

 名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

5.そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。

6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めた

 のなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないよう

 にしよう。」

8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめ

 た。

9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すな

 わち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。