2021年4月25日


「罪人の間に」
創世記9章18〜29節

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1.「前回」
 洪水の後、箱舟から出たノアと家族は、自分の罪と、罪に対する神の怒りと、そして裁きの大きさを知り、罪のなだめのための生贄を献げました。神は、その彼らの罪を悔いて砕かれた、神を恐れ畏む心を受け入れられ、彼らに変わらない祝福を伝え、そして人の罪のゆえに洪水のような裁きを起こすことはないという契約を与えてくださったところを前回は見てきました。しかしその契約は、人の側で罪を犯さないと約束し、実際に果たすことができたら神がそのようにしようというような相互の間の契約ではありませんでした。神はむしろノアとその家族が献げたなだめの生贄とその心を受け入れた直後であっても、人間のその思い計ることが初めから悪であるからだとわかっていました。それでも、その人の罪のゆえには洪水のように滅ぼさないと約束してくださった一方的な契約であり、そしてむしろ神がなそうとする計画は恐ろしい裁きではなく、神の愛する一人子であるキリストを人としてこの地上に生まれさせ、そしてこのキリストを人間の罪を完全に赦し平安を与えるための、なだめの生贄、贖いのための代価として、十字架で死なせよみがえらせるそのことへと向けられていることを教えられました。その神が本当に人の罪深さをご存知であり、人の思い計ることは初めから悪であるということが、ノアやその家族だけは例外で、その彼らの後の子孫から悪に逸れて行くということではなく、ノアとその家族自体がまさしく罪人であることを知った上で語っておられたのだということが分かるのが今日のところなのです。

2.「彼らはら全世界の民は分かれ出た」
「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」18節
 ノアの息子たちの名前は、セム、ハム、ヤペテでした。ここで「ハムはカナンの父である」とわざわざ書かれているのは、25節以下のことと関わってくるからでもありますし、神の民がやがてカナンを所有することになりますが、そのカナンの地の由来がここに記録されてもいるのです。そしてこのセム、ハム、ヤペテから「全世界の民は分かれ出た」とある通り、洪水によって、人類は、本当に、このノアとその家族以外は、残らなかったことがわかるのです。全世界の民は、このセム、ハム、ヤペテに由来しているいずれかの子孫であり、ですから先週も言いましたように、神が「ノアとその子達」そして「その子孫」と言って契約をしたのは、全人類に向かってその契約を伝えていることもわかるのです。そのノアとその家族は、確かに信仰の人々ではありましたが、罪を全く犯さない聖人のような人々であったとか、神の前にも人の前にも完全な人間であったということでも決してないのです。彼らは私達と同じ人間であり、やはりどこまでも罪深かったのです。20節、ノアは箱舟を出て新たな生活を始めます。彼はぶどう畑を作り農夫になりました。一から地を耕し、種を巻き、そのようにしてぶどう畑を作りあげ収穫の時がきたのでしょう。堕落後ですのでノアは汗と労苦してではありますが、神が地に実りを与えてくださるその祝福は変わりません。それは8章の終わりで、神が「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」(8章22節)と言われたその通りなのでした。そしてノアはその収穫したぶどうでぶどう酒を作ったのでした。しかしです。 

3.「どこまでも罪人」

A,「ノア」
「ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」21節
 ノアはぶどう酒で酔っ払い天幕の中で裸になって寝てしまったのでした。ぶどう酒を飲みすぎたのか、意識がなくなるほどに悪酔いをしてしまったことが推察できます。ここではぶどう酒などお酒を飲むことが悪いという事を言っているのではありません。まず「人の前」では、お酒に飲まれてしまい、お酒によって、理性が働かなくなることが問題ではありますが、それ以上に、「神の前」では、そこで神と神のことばが見えなくなり、自分の行動が酒やそこに働く酔わせる力に支配されてしまったことにあります。箴言には次のようなことが書かれています。
「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、海の真ん中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。」箴言23章29〜35節
 30節に「ぶどう酒にふけるもの」とあります。英語訳だと、”tarry long over wine”「ワインを長々と飲み続ける」とありますが、「ふける」は「熱中する。あるひとつのことに夢中になる。」という意味です。ですからぶどう酒そのものが悪では無く、やはり人の側に問題があり、その酒を飲むことに夢中になってしまう。飲んでいることの気持ち良さに熱中しやめられない。まさに先ほども言いましたが、酒に飲まれ、酒や酔いに支配されてしまうことが問題であり、それによって、この箴言では、体や行動や感覚に明らかに不品行や問題が生じて、その人にや周りの人や社会に災いがある事を伝えているでしょう。そして「何かの虜になる」ということは、お酒に限ったことでは無く、世に存在するものは何でもそのように私たちを虜にするものは無数にあるものです。もちろん誤解してはいけないのは、そのような楽しみや娯楽や趣味が悪いということは何一つ言っていません。むしろそのような楽しみも神が与えてくださったものも沢山あることでしょう。しかし、問題は対象が何であっても、その物にふけってしまう。夢中になり、文字通りに、それの虜になってしまい心が支配される。それによって理性的な行動ができなければ、やはり「人の前」や社会や家庭で必ず問題になるし、何より「神の前」において、神の恵みとみ言葉、祈りと聖霊への求めと信頼を無くしてしまえば、「神の前」で大きな問題になるのだということです。

B,「ハム」
 またここでそのノアの行動は、息子ハムの行動を招くことになります。
「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」22節
 ここに「父の裸を見て」という言葉があります。それは、非常に含みを持った言葉であり、ストレートで詳しくというよりは、慎みと品行を持ってなんらかの出来事を表現していると解説もされています。レビ記18章などをみると、近親者に裸を晒してはいけないということが書かれていますが、性的な意味も含まれている戒めでもあります。ここで詳しい状況をモーセは書く事を控えましたが、ここで裸を晒したノアにも、裸を見たハムにも、ハムについてはただ見るだけでなく、なんらかの神の御思いに反する不道徳な行動や思いがあったであろう事が含まれているともLutheran Study Bibleでは解説されています。さらにはハムはそれを二人の兄弟に告げたとあります。そこでハムがノアの何かの醜態を見てしまったにせよ、ハムはそこでその父の醜態をどういう告げ方をしたのかわかりませんが、兄弟に広めてしまうことになります。ハムは、この後、23節で、セムとヤペテがしているように、父への尊敬と敬意から、晒されるべきではない父の裸から顔を背け見ないようにし裸を覆うということが、しかも誰にも言わずにするということが、ハムにも必要だった、罪深くとも神の与えた父であるノアに対する正しい敬うべき対応だったのでしょう。しかし彼は、罪深くとも父であるノアを敬うのではなく、ある意味蔑みを持って、それを兄弟たちに告げることで、父の酔っ払っている姿と親族に晒されるべきではないその裸とを親族である兄弟に広めてしまうことになったのでした。

4.「ノアののろいと祝福の言葉」
ノアは酔いから覚めて、24節以下ですが、
「ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」24〜27節
 ノアは酔いから覚めて起きたときに、着物が自分にかけてあることから、酔っ払って寝てしまった間に何があったのかを不思議に思い、当然、子供達に聞くことになったのでしょう。そこでノアはハムの行動に怒るのですが、「のろわれよ、カナン」と、ハム自身ではなく、その子カナンを指して言います。しかし子孫へのこのような言葉は、自分自身の子孫が祝福されないわけですから、ハム自身にとって深刻なことになるのです。ハムの子孫、カナンは、セムやヤペテの「しもべらのしもべとなれ」と、ノアは三度も言っています。「しもべらのしもべ」ですから最も低い地位に下げられたことになります。このように、カナンの子孫は、父親ハムが末っ子という出生の順位だけでなく、特に父親ノアに対する不道徳によって家族から疎外されることとなり、家族の権威と相続において最後となるのです。事実26節には、「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。」とありますが、セムはイスラエルの先祖であり、イスラエルはやがてカナンの地を所有することになります。また27節では、ヤペテは、セムの天幕に住まわせるようにとあるように、ヤペテの子孫はハムの祝福の中に含まれることになります。しかしこのようにいうノア自身が、自分が酒に飲まれてしまったことから始まっているがゆえに、私たちから見れば自分勝手な父のように思われるかもしれません。しかしノアもまたそのようにどこまでも罪人であり完全な父ではなく、しかしその罪人であるノアを、神が父としたのであり、その父には家長として権威も与えているのです。そして何より神は、その罪深いノアを、その罪を全てご存知の上で、神が決して放棄しない「彼女の子孫の彼」という約束のその子孫として計画し、そのノアを選び立てているということなのです。
 ノアは洪水の後、350年生き、一生は950年とあります。もうすでに人の年齢は120年だと神が定めた後ですから、ノアは神の特別な配慮と介入と働きのゆえに、その生涯が伸ばされ、洪水前のノアの父祖たちのように長い年を生きたのでした。それはノアが完全であったからではなく、罪深いノアへの神の特別な祝福と憐れみのゆえであったのでした。

5.「今日のみ言葉から教えられること」

A,「聖書は優れた人の偉人伝と模範による道徳書ではない」
 今日のところから何が教えられるでしょうか。ノアの罪深い、酒の飲まれてしまい酔った行動は、結果として自分の息子の一人のより罪深い行動と悲しむべき結果となってしまいました。このようにこの聖書というのは、沢山の偉人や功績を果たした人の話であり、そのような特別な人間たちのその完全さや優れた行動や功績を伝えて、それを模範として読む人に真似をさせるような、英雄伝とか道徳の本では決してありません。信仰者は確かにたくさん記されていますが、信仰者である彼らは神でも聖人でもなく、完全な人々でもありませんでした。むしろ聖書は、彼らのそのままの姿を記し、彼らは、信仰者でありながら、同時に罪人であった事を記している記録なのです。その沢山ある記録、これからも見ていくであろうの記録の一つが今日のところでもあります。ですから神の忠実な民であっても、彼らは過去でも今でも、決して、彼らをしばしば罪へと導く様々な誘惑から決して自由ではありません。特に世代を超えてまで神に反抗したり、偶像礼拝に走ったり、不品行にふけるような時代さえあるのです。しかしそこに伝えられている真の信仰者の本当の姿というのは、功績が立派で行いが完全であるからということではなく、彼らはどこまでも罪深く、しかしその人の前にも、何より「神の前」にも、どこまでも罪深い自分の現実を、示されるままに認め、示された罪に心刺されるままに、恐れ畏み神の前に罪を悔い、そして神によってその罪を赦されたことを信じ、安心し喜んでいる生きる、その姿であると言えるでしょう。

B,「聖書は、全ての人のための救い主イエス・キリストを指し示す」
 事実、この聖書は、神はそのためにこそ「彼女の子孫の彼」の約束を与え、その子孫を決して悪によって絶やすことなく守り続け、そして神の時に、その事を実現されることこそを、初めから終わりまで一貫して伝えているものなのです。その伝えることはイエス・キリストであり、聖書は、その約束の通りにその子孫から、一人子である御子キリストを、人として飼い葉桶の上に生まれさせたと伝えています。そしてそのイエス・キリストは、その罪を悔いる人々のところへ行き、ともに食事をし友となり、彼らのその悔いた心と罪を責めるのではなく、彼らに罪の赦しを宣言するでしょう。逆に、自分は罪がない、律法も全て守っていると、自分の行いを誇り高ぶっている人々には、神は厳しくその罪を断罪します。そうそのように聖書は、「約束の彼」であるイエス・キリストは、罪人の間へとこられ、自分の罪を悔いる人にこそ寄り添い、そして罪の赦しを与えてくださることを伝えているのです。だからこそこのノアの出来事を通して、信仰の人を通しても、聖書は、人間の完全さや功績、そして私達にそのような模範や道徳を、律法を教えて、私達を遣わそうとしているのではありません。ノアもハムも、どんな信仰者も同じ罪人であるということ、しかしその不完全な私達の間に完全な救い主はおられる。ノアやアブラハムやモーセが救い主でもない、救い主は罪人の間に、私達の全ての罪深さをご存知の上で、私達の間にこられ、私達に語ってくださっている。「罪を悔い改め、わたしを信じ洗礼を受けなさい」と。そして「あなたに罪の赦しとそこから生まれる特別な天からの平安を与えるためにわたしはきて十字架で死に、よみがえって、今も生きて共にいるのだよ。今日もあなたに言います。あなたの罪は赦されています。だから安心して行きなさい」と。

6.「終わりに」
 ゆえに、私達人間同士、兄弟姉妹同士は、誰も隣の兄弟の罪や欠点や足りなさを責めたり、裁いたり、公でも影でコソコソでも噂をしたり広めたりすることは誰もできないはずです。それは神が喜ばれるクリスチャンの行動でも心でもありません。私達は「神の前」にあるなら、誰でも罪深い一人、悔いるべき一人です。しかし神がそんなあなたを、わたしを赦そうと今日も言ってくださる。それが福音であり、その福音に喜びと平安を持って生かされて行くのが、クリスチャン、キリスト者の本当の姿なのです。ぜひ今日も、神の前に罪を示されているのですが、示されるままに神の前に悔い改め、そこに神は私達をもはや責めるのではなく、その十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と、言ってくださっているのですから、そのまま受け取り、罪赦され、救われている確信を胸に、安心してここから世に、隣人を愛し仕えるために遣わされて行こうではありませんか。





<創世記 9章18〜29節>
18 箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父で
  ある。
19 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。
20 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。
21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて
  行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。
24 ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、
25 言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」
26 また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。
27 神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」
28 ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。
29 ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。