2021年4月18日


「一方的な契約」
創世記9章8〜17節

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1.「前回」
 神が、ノア達の献げたなだめのための全焼の生贄の香りをかがれ、彼らの罪を悔いて神を恐れ畏むその信仰を受け入れられたところから、神が、改めて創造のはじめの祝福は決して変わることがないということ、動物の正しい管理を委ねられ、その範囲で食べることを許可したこと、しかし血はいのちであるから、食べたり飲んだりしてはいけないし、まして人を殺し血を流してはいけないと命ぜられたこと、を見てきました。またそこでは、殺人を始め悪を行うものには、その罪に従って裁かれることも伝えており、そこにパウロの言葉も引用しまして、神はこの罪深い世の地上の国や社会に裁きの権威をも与えており、それに従うことも大事なことであることも見てきたのでした。もちろんそこには罪深く不条理に満ちた国家にあっての私達の当然な感じる葛藤や難しさもあるのですが、その現実に生きる鍵はどこまでも福音にあり、国家にどんな権威があるにせよ決して神が二人いるのではないのですから、その権威に従いながら、ただの一人の神であるキリストのその福音にあって生きることに、様々な葛藤や私達の思いをはるかに超えた、主イエスの働きと導きがあるということも教えられたのでした。

2.「わたしの契約:神のその心がすべての人へ」
「神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。」8節
 9節では、主の契約の言葉が続きますが、まず神は、ノアだけでなく息子達にも向けていることがわかります。それはさらにこう続いています。
「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。」9節
 「あなた方」とあり、さらには「あなた方の後の子孫と」ともあります。神は、ノアとその子達、さらには未来の子孫たちに向けても語っているとわかります。つまり私達に対してもです。神は契約を立てようと言うのです。さらには10節以下ですが、
「また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。」10節
 その契約は、人だけでなく全ての生き物へも向けられているのです。では、その契約の内容は何でしょうか?
「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」11節
 これは、見てきた8章の終わりにあった、神が心の中で自分自身に言ったことです。
「主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」8章21〜22節
 このように神は、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはしない。再び洪水のように生き物を滅ぼすことは決してない。そう心の中で言われましたが、神は、決して、そのことを思いだけで、心の中でとどめておくために、心に言ったのではないことがわかります。むしろ神のその心の中にあることは、神のための心ではなく、どこまでも人のため、世界のためであり、そして確実に、その心は言葉として人へ伝えられ実現されていくものであることがわかります。この契約の言葉は、洪水の後、ノアの献げた罪のなだめの全焼のいけにえの香りをかがれ、それでも罪深い人間の現実を知り、事実、罪深いノアとその家族でありながらも、しかし神は彼らのその罪を悔い、恐れ畏むその心を確実に受け入られられ、そして言葉としてノアとその家族に語られた神の思いそのものの現れであるということなのです。このことからも神の言葉というのは神の心そのものであり、しかも、神が自分のための心ではなく、どこまでもこの世と、そして人、全ての生き物のための心なのだということがわかるのです。

3.「契約の意味とメッセージ」
 その神の、人と全ての被造物のための心がそのまま現れている言葉であるからこそ、この契約の意味するものと神からのメッセージも見えてくるのです。

A,「相互契約ではない」
 まず、私達は、契約というと現在の人間社会の契約とか約束とかを当てはめるために、相互の契約を連想します。つまり両者の間に互いに履行義務があり、両者が果たさないと無効、違反になるという契約です。しかも神とは対等ではないという前提もありますから、何か責任を負って果たさないと契約無効になるというような相互契約を思い浮かべるのです。しかしこの神の契約は決して相互ではないということです。これは相互ではなく、片務的、つまり片方からの一方的な契約であり、それも人から神へではもちろんなく、神から人への一方向の契約であるということです。つまりこれはどこまでも神の恵みであるということです。

B,「もし相互契約であるとするなら@〜誰も果たし得ない」
 事実、神との契約が、単なる律法的な相互契約であるなら、実は人は果たすことができません。まず人が、人の方から、何かを果たすから神はしようというのであるなら、どうでしょうか?この時点で神は、そこに残った人類であるノアとその家族を見て、彼らの罪深さと、彼らの子孫の未来も全てを見、全てを知って心の中で言っています。「人の思い計ることは初めから悪である」と。そして事実、この後、ノアのその子たち、子孫はどうなっていくでしょうか?やはりその通りに悪へ傾いていくでしょう。本当に思い計ることは常に悪です。彼らは、再び神のようになろうとして、バベルの塔を建てるでしょう。信仰の人であったアブラハムも同時にどこまでも罪深かったですし、その子、イサクもヤコブもそうです。モーセ然り、ダビデ然りです。選びの民イスラエルの歴史は実に罪深く、分裂王国の時代は偶像礼拝に何度も逸れていくでしょう。そして選びの民以外も、人類の歴史は「神の前」を捨てた、人が神になったかのような、しかし自分中心で、不条理、残酷な罪深い歴史がただ繰り返されます。そういう自分自身の心にも悪があり、罪が溢れ、罪に対して無力な自分を認めざるを得ません。「義人はいない」とも聖書にあるように、もし相互契約であるなら誰も履行、果たすことは決してできないのです。

C,「神から人への一方向と一貫性」
 しかし、そんな人類に対して神の心は常に一貫しています。堕落した時、まさに相互契約の視点で見るなら契約違反を犯した人類であるにも関わらずに、それでも神は、人類への祝福と愛と回復のためにこそ、「女の子孫の彼が、お前の頭を砕く」(3:15)とサタンに語ることによって、福音の約束を人類に伝えているでしょう。人は簡単に神を捨てても、神は決して人を捨てないしその心と思いはどこまでも一貫しています。そして人間の罪深く自己中心な目から見れば、あまりにも残酷で不条理で納得できない、理に合わないように見える、裁きである洪水も、神の目、神の前、まさに「女の子孫の彼が」という、一貫して変わらない、創造のおける人類や被造物への祝福と愛の関係とその回復のためのその心から見るならばどうでしょう。もはや悪が蔓延し、罪人でありながらも神を恐れ畏む人がノアとその家族だけになってしまい、その悪さえ、罪深い彼らを飲み込むのが時間の問題となり約束の子孫が絶たれうるという時です。その「約束の彼」によって世界の真の救いと回復を果たすために、その子孫である僅かな信仰者を悪の広がりに飲み込まれていくことから守り、約束の「彼」へと神ご自身が着実につなげていく、その約束の完全さと一貫性があります。そして何より、その一方向性、神から人へと、神のみが責任を負って果たすと言われている契約であることが見えてくるでしょう。このノアへの契約もその神の変わらない計画、変わらない心、人類と全ての生き物へのその変わらない心が現わされた言葉であるということです。

4.「その心は、言葉に、そしてイエス・キリストに実現する」

A, 「相互契約であるとするならA〜確信と平安がない」
 そしてその契約、その神の心の一貫性と恵みこそ、まさにイエス・キリストに実現しているでしょう。イエス・キリストによるこの十字架と復活の救いと新しいいのちは、みなさん相互契約ですか? 事実、何か相互契約のように教える教会もありますし、私達は恵みだと言いながらも、相互契約のように救いを考えてしまう傾向があるものです。しかし相互契約だと本当に矛盾しますし、救いもありませんし、平安も確信もありません。なぜなら常に自分達がしなければいけない何かに、自分がきちんと契約を履行しているのだろうか、あるいは、その契約によって受けるべき恩恵に本当にあずかることができるかどうか、の根拠や理由や確信を探さなければいけないからです。しかし神が既に分かっているように「人の心の思い計ることははじめから悪」です。どこまでも人は罪深いものです。行いにおいても心においてもです。行いにおいても不完全ですし、律法である十戒に求められている行いを完全に行い切ることもできません。イエスはその戒めは「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、神と隣人を愛しなさいにかかっている」と言いました。しかし私逹は神も隣人も、そのように神が求めるように愛することなど決してできません。できているという人は、イエスによって「では、あなたの持ち物を全部売って貧しい人に与えなさい」と言われて失望したパイサイ派の青年のように自分の高ぶりを砕かれることになります。人の前で表向きの目に見える行いでどんなに立派に装うことができ、自分は人の前では恥じることがないということができたとしても、神の前に立つ時に、自分の行いや何かに、神の前に堂々と立つことができうる根拠や確信を見出すことはできません。不可能なのです。まして心を見られる神です。行いや自分の何かに救いの確信など決して見つからないのです。相互契約では、確信も平安も、そして何より救いそのものが誰にもないのです。相互契約的な信仰に生きる人は、地上で生きている間、どんなに頑張っても確信も平安もないために、死んで天国のところに行って神にどう認められるかを聞くまで確信を持てないのです。それは非常に可哀想なことです。もしそのような相互契約的な信仰の導き方をしてしまっているなら、私は心から神の前の悔い改めなければいけません。
 皆さん。最初の福音である「彼女の子孫の彼」という約束も、ノアに与えた神の契約も、そしてその成就であるこのイエス・キリストの誕生、生涯、そして十字架と復活も、それは相互契約では決してありません。私逹の自分たちの行いで半分頑張って、それで天国に行ってからやっと認められて初めて確信と安心がある、という救いや信仰生活をイエスが私達に与えているのでは決してありません。十字架と復活はまだ未完成で、不十分で、私達に託された努力目標で、私達の良い行いと努力で、十字架と復活は実現し完成させるのだということでも決してありません。皆さん何度も言いますが、そうであるなら、信仰生活に平安がありません。喜びもありません。自由もありません。いつでも重荷と律法に支配されています。そうであるなら福音は十字架の首飾りのようにただの飾りであり、そうでなくても私達が果たすべき目標であり律法、つまり重荷でしかありません。

B,「完全な福音がそう言っているからこそ確信と平安はある」
 そうではないのです。イエスが私達のためにして下さったこと、福音は既に完全に成就しています。十字架と復活の救いも恵みも完全であり、完成されており、私達に果たされる必要もなければ、私達の肩にかかっている重荷でもありません。イエスが私達の代わりに全てを負って全てを果たしてくださっているのです。そのイエスが、それでも肉にあってはどこまでも罪深い、それでも心の思い計ることが始めから悪である私達のことを既にご存知の上で、自分を表向きの善の行いで装おわせるのではなく、むしろその罪深さを絶えず教えてくださり、そこに刺し通されどこまでも罪を認め、悔い、恐れ畏む私達に、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるのがイエスであり、神の果たしてくださった一方的な恵みの契約、その成就なのです。そこには確信があるのです。私達の何かではありません。そうではなく、イエスが私達のために全てをしてださった、信仰によってのみ救われる、その信仰さえ賜物として与えると、聖書を通して主なる神イエス・キリストが宣言している。聖霊を助け主として与えること、助けることも、ともにいることも、世が与えることのできないイエスが与えることのできる平安も、聖書を通して主イエス・キリストが宣言している。そして、そのイエスがみ言葉を通して「あなたの罪は赦されている、安心していきなさい」と言ってくださっている。だからこそ、そのイエス・キリストと、そのイエスの十字架の義、そのみ言葉のゆえにこそ、イエスがなしてくださり、イエスがそう言っているからこそ、私達は、今、本当に救われていると確信が持てるのです。平安があるのです。相互契約ではありません。相互契約には恵みはあり得ません。矛盾します。全ては神からの一方的な恵みであり、み言葉が私達に語りかけるその通りに、それは神の心そのものなのですから、その差し出されている救いの恵みをそのまま受け取るだけでいいのです。その恵みの福音を受けるからこそ、私達は真に重荷としてではなく、真に自由に、喜びと平安のうちに、神を愛し隣人を愛し仕え、良い行いをするように、神が働き、良い行いをさせ用いてくださるのです。

5.「契約のしるし」
「さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき。虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」12〜17節
 ここでも「わたしの契約」と繰り返され神の契約であることがわかります。虹は今は人間が作り出すことができるのかもしれませんが、しかしそれは神が創り出した虹のできる原理を人間が知り用いるからできることであり、神と同じように、全ての物質や原理、仕組みまで作り上げることは人にはできません。神が雲の中に「わたしの虹を立てる。」という言葉の中に契約が、人間には創造することも計画することも果たすこともできない、契約の本質が現れているでしょう。その契約はイエスに成就しました。今日もイエスは言ってくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。確信を与えられ安心してここから出て行きましょう。そしてこの困難な世にあって、イエスの御心のままに、隣人のために用いられるように、祈り求めつつ歩んで行きましょう。




<創世記 9章8〜17節>
 8 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。
 9 「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫
  と。
10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたと
  いっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。
11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切
  られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」
12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべて
  の生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。
13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。
14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。
15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約
  を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。
16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なる
  ものとの間の永遠の契約を思い出そう。」
17 こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に
  立てた契約のしるしである。」