2021年4月11日


「ノアとその子達を祝福し」
創世記9章1〜7節

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1.「前回まで」

 箱舟から出るように言われ出たノアは、箱舟を出てすぐ、家族とともに祭壇を築き、神になだめのための全焼のいけにえをささげました。洪水の出来事と一年以上の箱舟の中の生活を通し、ノア自身が自分や家族の罪深さ、罪に対する裁きの恐ろしさ、そして神への恐れを改めて悟らされたからでした。そこで神はそのなだめの香りをかがれ、ノアの神を恐れ畏むその心を受け止めるのです。神は心の中で言います。それは「人の心の思い計ることは、初めから悪である」、そのことを知った上で、「決して再び人のゆえに、この地をのろうこと、洪水のように、すべての生き物を打ち滅ぼすこと」はしないと(8章21〜22節)。それは人の目や耳や頭では、神が度々、心を変えているような矛盾しているように思える言葉ではあったのですが、しかし人間が堕落した時に、神が与えた約束である、エバの子孫の「彼』によって、つまり、イエス・キリストによって全世界に罪の贖いという真の救いと平安をもたらすという、神の前には一貫した神の計画であることを教えられたのでした。その神の心を踏まえて、神はノアとその息子達へ語るかけるのです。


2.「祝福の思いは変わることがない」

「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、-地の上を動くすべてのもの-それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」9章1〜2節

 この時、地上にはノアとその家族しかいません。そんな彼らに、1章の創造のはじめにあった神の祝福の言葉が繰り返されています。しかし見てきたようにこの時すでに、人間の堕落、悪の広がり、洪水があり、そして神自身が、その人の心の思い計ることがはじめから悪であることを認めているのですが、しかしそれでも、神が被造物に、そして罪深い人類にも、抱いているその心の思いは変わることがないことがここにわかります。それは「祝福」であるということです。神の被造物や人類への思いは、最終的には「裁き」で終わるということでは決してなく、どこまでも「祝福」であるということです。しかしそれは文脈を見るなら、そのノアの、神の前にある自分の罪深さを心から悔い恐れ畏むその信仰を見られ、受け止められたからであるとも言えるでしょう。創造のはじめは全被造物への祝福でした。その被造物への祝福は神の全ての動機であることは全く変わらないことですが、しかし罪の性質そのものである、「神の前」にあることを軽く見たり、放棄したりして、罪を認めず、罪を悔い改めない高ぶった心に対しては、神の裁きと洪水があったのも事実です。神の前に罪を悔いない高ぶりは、やはり神の祝福の心に反対するものであり、そこには神の怒りがある事実もここにあることを忘れてはいけないでしょう。そのように堕落後にあっては、その神の変わることのない祝福は、悔い改めない心には全く絶たれますが、しかしたとえ「その心の思い計ることははじめから悪」であり、どこまでも罪深い存在であっても、神を恐れ畏み、罪を悔い、神に憐れみと赦しを求めるその信仰には、そのはじめから変わることのない祝福は決して耐えることがない、と、神はその心をこの言葉に表しておられるのです。


3.「委ねている」

 神は、そのような罪人ではあっても、罪を悔いる信仰者であるノアとその家族を祝福し、そして地と空と海の動物を彼らに「委ねる」のです。ここにも大事な言葉があります。「委ねる」です。今の神なき、あるいは人間が神になったかのような人間の社会は、自然や動植物を、人間が所有し支配しているように考えているし振る舞うでしょう。今日の箇所に「これらすべてはあなたがたを恐れておののこう」とあるように、だから人間が彼らよりも上位で、だから支配しても自由に使ってもいいんだと考え行動するかもしれません。もちろん生物としては違う生物ではあり人間には理性もあり能力も違います。そして、神は確かにこの後にもあるように「食ベる」ために動物を与えており、そのために捕獲し殺すことも神はこの時はじめて公に認めました。しかしそのような動植物が人間の所有であり人間の支配下にあるのかというと決してそんなことはないことがここにわかるでしょう。神は動物を「委ねている」と言ったのです。つまりそれは、神が所有しているものであり、その「神の所有」のものを「委ねて」くださった。つまりそこには、神が所有していて、所有には神ご自身の正しい管理と責任があるのですが、それを「委ねる」ということには、人にも、その神の所有であったものを、神がしていたように正しく治め、管理しなければいけないということが意味されているでしょう。それは、すでに箱舟の中でも一緒に過ごしてきて、その時は神からの預かりものとして正しく管理していたわけですが、箱舟の外でも同じであるということです。だからこそ「これから委ねる」でもなく、「委ねている」であると思われます。このようにこの後、食物として動物も与えられており、その動物を殺して食べることも、それまで罪深い人間の勝手な行動としてはあったことでしょうけれども、神はおそらく洪水後の、人間の身体的な必要として、動物の肉や毛皮の必要性を覚えて公に許可します。しかしそれも、委ねられている、その限度において、神が認めてくださったということであるでしょう。決して、乱獲や虐待、神が創造された種を絶滅させたりなどを神は全く意図していないし、むしろそのような行動は「委ねる」と言われた神の御旨に反したことなのです。そこには神はルールも設けています。


4.「いのちである血」

「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」4節

 と。血を口にしてはいけないというのです。それは血は肉のいのちであるからだと。血というのは、人間もそうですが、肉体に必要な酸素や栄養を身体中に届け、心臓のみならず脳を働かせ手足や体を動かし、体全体の活動のためにとても重要なものであり、物理的には生きている証しそのものです。神は、生き物が生きるためのいのちとして血を創造され体に流れさせました。その血はいのちである。神はそう言われその重要性を伝えています。それは人間の体においても同じです。もちろん人間は、魂や理性があるということにおいて動物とは確かに違いますし、何より神の似姿として作られましたが、同時に人間も神が作った生物として肉体も当然重要であり、グノーシスのように魂や霊だけより重要で、肉体は罪汚れているから重要ではないなどは決して考えてはいないのです。体の働き、肉の命も、神が血を与え、その血によって神が生かしている大切な存在、いのちなのです。神はその神の似姿である人間が生きるために神が与えてくださったいのちの血が流されること、殺すことについて警告しているのがこの言葉です。

「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の値を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」5〜6節

 すでに堕落以後、その罪の影響はカインに及び、彼が弟アベルを殺してから殺人は繰り返されています。しかし人間が、獣によっても人間によっても、殺されることは決して神のみ心ではないのです。そしてその殺人には、神は血の値を求められ、血を流すものは、人によって同じように血が流され死ぬことを神は伝えています。このところに、Lutheran Study Bibleを見ると、神は、その思い計ることがどこまでも悪であるその人の世、罪の世にあって、地上を治める人、社会、国家に、殺人はもちろんのこと、悪を行うものには悪を持って報いる、血を流すものには血の値として血が流される。そのような裁判と処罰する権威を与えた始めであると書かれてあります。このことについて、パウロは、ローマ人のへの手紙13章で記しています。


5.「神が与える権威」

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」ローマ13章1〜4節

 クリスチャンは「神の前」にあって罪赦され、神の国のいのちに入れられ、日々新しく生かされているものですが、しかし「神の前」だけでなく、私たちは同時に「人の前」でも生きていますし、「人の前」がどうでもいいということでもありません。毎週伝えているように、私たちはイエスから福音を通して平安、新しいいのちを受けて、日々信仰を新たにされ遣わされて行きます。もちろん福音を動機としてですが、それは「人の前」に、つまり、罪の世に遣わされそこで人に仕え隣人を愛するようにです。その社会にあってです。しかも自分自身もなおも罪深い存在としてです。そして神はその社会や国家が、罪の世の罪深い社会や国家であり、神を信じない社会や国家であってもです、その地上の世界が正しく治められ、その身体と生活と平和が保たれるように、社会や国にも権威を与えているのだというのです。パウロは「神によらない権威はない。存在している権威は全て、神によって立てられている」と言っています。だから「その権威にも従うべきである」と言っているのです。つまり神の王国だけ重要で、地上の王国の義務や責任や平和はどうでもいいということではない。地上の王国にあっての、市民としての自分の存在もあり、その平和や秩序のための義務も責任もあり、それに忠実に従い、果たして行くようにというのが聖書の教えなのです。事実、イエスも、カイザルのものはカイザルへ返すようにと、きちんと税を収めることを教えていました。地上の平和や秩序のために、神は社会や国家に権威を与えているからです。そして今日の箇所の関わりですと4節です。その権威は無意味には剣を帯びていないと。罪の世にあって殺人や犯罪や不条理は必ず起こり悪は蔓延します。そこで正しい裁きが行われなければ無秩序にもなり平和でもなくなります。神はそのように地上の権威、人の前では、悪を行うものには悪を持って報いる、そのような処罰する権限を人にも与えた、そのことがこのノアへの言葉に端緒を見ることができるのです。


6.「権威に従うことの葛藤:神に従うより人に従うべきです」

 このことは考えさせられます。国家が明らかに悪を行い、正しいことをしていない。国民に危害を加え平和を乱したり、国家が不条理を生んだりしていることはノア以前のカインの家系の国家にはあったことですし、おそらくこのノアのそんなに遠くない子孫による国家や社会でもそれは始まり、人間の歴史上、何度も繰り返されてきたことでしょう。ですからパウロの言葉は矛盾しているように思われる方もいるかもしれませんが、しかしそうではありません。その権威もまた神から委ねられているものですから、与えられているものは、正しく治める責任もあるのです。しかし罪の世、罪人の社会で神のない社会、国家です。どこまでも不完全であり、不条理や不平等も起こることでしょう。それでも私たちは社会の義務は果たして従って行かなければならないのですが、難しいことのように思われるかもしれません。しかし実は単純であり、大事なことは、この天と地の二つの王国があっても、神は二人はいないということです。社会に確かに権威は与えられていても、人や人の権威を神とし、拠り所とするのではなく、使徒たちも、「人に従うより神に従うべきです」(使徒5:29)と、言っているように、やはりどこまでも一人の神、一人の救い主である、イエス・キリストを信じる信仰にあって生きるということに尽きるのです。しかもああでなければいけない、こうでなければいけないという、律法を動機にしてではなく、神がしてくださったこと、してくださること、福音を動機としてです。そしてその福音を動機としてどこまでも、教会のみならず社会や家庭に仕えて行くという召命においてです。地上の国は、当然ですが、律法で動いています。社会における義務や責任もしなければいけないことです。当然して行くことです。しかし「使徒たちが人に従うより神に従うべきです」と言ったとき、彼らはイエスへの信仰にあって正しいと思う行動に従いました。つまりそれと同時に何が起こっていたかというと、義務とか責任以上に、むしろ権威によって理不尽な投獄と殺されそうになる状況、鞭打ちの命令がされています。しかしその権威による理不尽な命令であっても、彼らは、抵抗したり文句不平を言ったりせずそのまま受けています。その権威が命じた理不尽には黙って従っているということです。ここに抵抗と服従が同時にあります。しかしそんな中で、その理不尽さや人の目には納得できない扱いでも、主イエスを信じる信仰、そして主の名のゆえに辱められたことを喜んで、議会から出て言った(使徒5章41節)と書かれているのです。


7.「福音の計り知れない力」

 みなさん。これは人の力ではなかなか出来ない難しいことなのですが、しかし、罪深い間違った権威のこの地上の王国に遣わされている私たち、二つの王国で同時に生きている私たちにとって、私たちの生きる鍵は、やはりイエス・キリストの福音であり、その福音こそ、出来ないことをさせたり、与えたりする私たちの思いを超えた福音の力なのです。私たちはその福音によってこそ、その葛藤や矛盾を見るときに別の視野が広がっているでしょう。キリスト中心の福音の視野は、どんな状況でも、間違っていることは間違っていると言うことができつつ、どんな理不尽や不条理でも、ただ恨み言や、ああであればこうであればというのでもない、結果を期待し、どんな結果でも喜んで受ける道があることを見せてくれます。そして矛盾があったり理不尽さがあったりするその只中にあっても、だからこそそこで弱さや無力さを覚え、不可能さを覚えながらも、すべてをしてくだった、そしてこれからもしてくださるイエスを知っているからこそ、私たちはイエスに頼ることができます。祈ることができます。それだけでなく、苦しみや虐げや矛盾を経験しているからこそ、虐げられている人々、苦しんでいる人々のために、同情し、慰め励まし、助けたり、ともに祈ったりもできるでしょう。それも福音が動機ですから、何の利益も見返りも期待せずにです。イエスの与える福音、そしてその福音に生かされることには私たちの思いをはるかに超えた力と可能性があるし、不安や迷いや不平や呪いではなく、どこまでも平安と希望があるのです。もちろん私たちは義人である同時になおも罪人でもあります。霊によって遣わされますが、古い自分もまだあり、肉によって生きようとすることにもたえず引き戻されます。私達自身自らで霊に生きようとしてもどこまでも無力なのです。しかしだからこそ、私達に与えられている聖霊は、何度でも私達にみ言葉をもって働き、その福音の言葉に約束に立ち返らせてくださいます。そのための礼拝であり、イエスは私達を集めていると言えるでしょう。今日もイエスの素晴らしい福音の約束を受けましょう。「あなたの罪は赦されています、今日もあなたは新しい、あなたといつもともにいる。安心していきなさい。」とイエスが今日も言ってくださっています。ぜひ福音を受け、安心してここから遣わされていきましょう。






<創世記 9章1〜7節>

1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。

 地に満ちよ。

2 野の獣、空の鳥、-地の上を動くすべてのもの- それに海の魚、これらすべてはあなたがた

 を恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。

3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべての

 ものをあなたがたに与えた。

4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな

 獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。

7 あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」