2021年4月4日


「新しいいのちに生かされて」
ルカによる福音書24章1〜12節

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1.「はじめに」

 イエスの復活は、神から私たちに与えられた圧倒的な希望です。確かに私達は、この罪の世にあって、自分自身の罪深さはじめ、様々なことに直面させられ希望を失うことがあります。そして誰もが最後には罪の報酬である死に直面させられます。その「死」は私達人間の前に立ちはだかる最後の、そして圧倒的な暗闇であり終わりであり絶望です。しかしそれはイエス・キリストの約束が与えられ、その約束の通りに来られ、イエス・キリストがよみがえられるまでの絶望でした。イエスが約束の通り来られたこと、イエスが十字架にかかって死なれ、復活されたことは、私達がこの罪と死の世にあっても、どんなことがあったとしても、絶えずイエスの復活のいのちの新しさに生かされるていくことができる人生の「希望」であり、ピリポ終えはたとえ私達の肉体が死んでも生きる、終わることのない真の希望であるのです。


2.「週の初めの出来事」

「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓についた。」


A,「準備しておいた香料」

 過越の祭が終わり、新しい週を迎えました。前日の夜までは、その過越の祭で起こった異様な処刑の出来事、つまりイエスの十字架と、その時すでに太陽が光を失い辺りを覆った暗闇のことが人々の話題であったのでした。いやこの後13節以下のところにもあるように、その出来事は、この新しい週の朝でも、人々は話題しています。そんな十字架の出来事の余韻がまだ強く残っている週の初めです。ここにある「女たち」については10節にある通り、マグダラのマリヤ、ヨハンナとヤコブの母マリア、さらに数人の女性のことです。彼女達はこれまでイエスについてきた女性達であり、十字架のもとにいた女性達でありました。彼女達は「準備していた香料を持って墓に」やってきます。その香料は埋葬の時に用い使用するものです。ですから本来はこの女性のように、墓に遺体を既に埋葬しその墓に蓋をしてしまってから用いるものではないのです。ただ23章の55〜56節にある通りに、彼女達は「香料と香油を用意して」いたのですが、その日は安息日のために戒めに従って休んだと、書かれています。ですので、安息日が明けたこの新しい週の朝早くに、そのできなかった香料と香油の処理をしにやってきたということなのです。そして何よりこのことは、彼女たちが「復活」のことなど何も考えてもいませんし予想もしていないということがわかります。頭の中によみがえるなどとは全くありません。ただ埋葬の処理のためにやってきたのですから。更に言えば、彼女達はその遺体に会って処理することができるのかどうかさえわからない状況でもあるのです。2節にこう続いています。


B,「石がわきにころがしてあった」

「見ると、石がわきにころがしてあった。」

 入り口の大きな石です。「転がす」とある通りに、それは複数の男性がころがして動かすもので、女性たちが動かせない「石」です。他の福音書では、墓に行こうとしている女性たちが「どのようにして入り口の石を動かそうか」と戸惑っている様子もあります。つまり彼女たちは石が動いているなどとは全く思っていないでやって来ているわけです。むしろ埋葬のためにも十分にできなかった、しかしこの朝もどうしたらよいかわからない、石が動かせなければ途方にくれるしかない。そのような心持ちで彼女たちはやって来ていることがわかるのです。


C,「死の前に何もできない」

 この埋葬と女性たちの姿は、何を示しているでしょう。それは、人間は、その死に対すして圧倒的に無力であるということではないでしょうか。たとえ十分な埋葬ができたとして、そして最高級の香料や香油を用意してそれで遺体を処理したとしても、つまり人間の最高の扱い、対処をした、あるいはできたとしても、神が堕落したアダムに言われたように、「人は土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは塵だから、塵に帰らなければならない。」その現実は全く変わらないでしょう。墓はその現実の場所です。そしてもう一つの無力さは、人は決して「死から生へ」と変えることができない。「死んだ存在を生かす」ということは決してできないでしょう。「墓と閉ざされた大きな石」は、そのことの象徴です。もちろん複数の男性で石を動かすことはできます。しかしそこにある死の現実は変わりません。埋葬の処理を完成させることができても、それ以上のことはできない。その圧倒的な現実はどこまでもあります。墓の石を動かすことができる男たちも、死んだ人を生き返らせることは決してできないのです。それは現在も変わらない現実であり、それが難病を直すことができる名医であったとしても、確かに死んだ人、しかも三日も経っている人を生き返らせることは決してできないのです。彼女たちの途方感、無力感、そしてこの墓の大きな石は、死の前の人間の現実を象徴的に表していることを教えられるのです。しかしその現実が覆る出来事が起こります。


3.「主イエスのからだはなかった」

「入って見ると、主イエスのからだはなかった。」3節

 イエスのからだはそこにはありませんでした。どこに行ったのでしょうか。誰もわかりません。女性たちは途方に暮れるしかありません。しかしそこにです。

「そのため女たちが途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た二人の人が、女たちに近くに来た。」4節

 二人の天の御使いが彼女たちの前に現れるのです。クリスマスの場面の母マリヤもそうでしたが、この当時の人は天使などは見たことがありません。ですから、天使に出会うということは、私たちが描くようなロマンチックなことでは決してありません。その時、母マリヤも恐れを抱いていました。今日のこの彼女たちもそうです。5節の初めですが「恐ろしくなって、地面に顔を伏せ」るしかないのです。しかし御使いは彼女達にこう語るのです。

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」女たちはイエスのみことばを思い出した。」


A,「なぜ生きている方を死人の中に捜すのですか?」

 御使ははっきりと彼女たちに言います。

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

 と。イエスはよみがえったのです。もうこの墓にはいないのです。注目したいのは、この御使は、そのことを当たり前のように伝えている点です。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」と。御使にとっては、イエスの復活は、決して驚くべきことではないというのです。むしろ墓にイエスを求めるのも、イエスを探すのも、その方が全くナンセンスだとさえいうのです。なぜでしょうか?それはイエスは生きているからだと。三日前に確かに死んだイエス。ローマの兵隊が、わき腹に槍を刺して、足の骨を折って死んだのを確認しました。アリマタヤのヨセフという議員がその死を確認して埋葬しました。確かに墓の入り口は重い石で閉ざされました。誰がどう見てもイエスは死んだでした。しかし、御使は違います。イエスは生きていると。生きているのだから、墓にイエスを探すというのは不思議ではありませんかと。けれども御使いは、冷静にその理由と根拠を伝えています。それは、


B,「イエスは、言われたでしょう」

「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

 大事な点です。御使いはいうのです。「イエスがあなたがたに話したことではありませんか。思い出しなさい。イエスは必ず十字架の後、三日目によみがえる、よみがえらなければならないと、言っていたでしょう」そう言っているのです。そうです。復活はイエスが、主なる神が約束されたこと。神がなさると約束していたことだったのです。その約束の通りのことが起こって、イエス様は復活されているのです。ですから御使は言いたいのでしょう。「イエスは言ったではありませんか。約束したではありませんか。ですから、その通り、生きておられるのです。決して死んではいない。墓の中にはいない。イエスは生きておられるのです。神はそのように約束してその通りになさったのだから。その言葉を信じるなら当然のことではありませんか。」と。御使はそのことを伝えていのです。そしてこうあります。

「女たちはイエスのみことばを思い出した」

 と。彼女達は「イエスのみことば」を思い出して、そのみ言葉の通りにイエスがよみがえったことに気づかされ立ち帰らされるのです。大事なことは、このイエスの「みことば」は落ち込んで悲しんでいた彼女達、途方に暮れ、恐れていたこの彼女達に、そのようにみ言葉を思い起こさせることで、み言葉の力で「信仰」を新たにしているということです。そしてその御言葉と聖霊の働きで新たにされたその「信仰」は彼女達を180度、方向転換させているのがわかります。彼女達の「イエスはよみがえれた」「イエスのみことばの通りであった」というこの信仰が、彼女達を喜びと希望で満たし、それでもう墓に背を向けて、死の現実に背を向けて、弟子達のところに走らせているでしょう。そのことこそが今日伝えるイースターの朝の出来事であり、そのメッセージなのです。


4.「イースターの幸い」

 みなさん、このところが私達に伝えているメッセージは何でしょう。


A,「恵み:全て神がなさった」

 第一に、イエスの復活、それはどこまでも天の神がなさった神のみわざであるということです。先ほども言いましたように、女達も弟子達もイエスの死に対して全く無力でした。彼女達も弟子達もイエスを死なせないようにも当然できませんし、死んだのを生き返らせることもできません。いやそれどころではありませんね。心も信仰ももっともっと弱り果てていました。イエスはよみがえると前もって言っていました。しかしそれでも誰一人信じていなかったでしょう。弟子達に至っては女性達が伝えた後も信じていません。死に対して力においてもまた心においても、人は無力なのです。何もなすこともできません。まして死んだものを生かすことなども全くできません。

 しかしそんな彼女達、弟子達のためにこそ、神が、神の方から、全てこの驚くべきしるしを、証しを表しているのがわかるのです。神は死者をよみがえらせることができると。イエスを復活させたのは、まさしく神であるのだと。しかもそれは約束された通りですから、イエスのみ言葉はその通りに実現する力があると言うことなのです。


B,「死んでも生きる」

 そして、このことは私達一人一人の人生への希望でもあるのです。みなさん。私たちも同じように、人生の先の死に対してもその恐怖に対しても無力でしょう?。誰でも死を迎えなければなりません。そしてその死に対して、私達の心も引き刺されんばかりの悲しみに突き落とされます。しかしこの復活の「イエス」とその「みことば」にあるなら、私達はそこから希望へと引き上げられるでしょう。なぜなら、私達にイエスは聖書を通してはっきりと約束しています。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは死んでも生きる」と。またこうも約束しているでしょう。第一テサロニケ4章13〜14節

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスと一緒に連れてこられるのです。」

 このようにイエスとその約束にあるなら、私達はいつでも復活のいのちの中にあります。それは死に打ち勝ったいのちであり、永遠のいのちです。ですから私達にとってイエスにあるなら、死でさえも終わりではないということです。むしろイエスが言われる通り、死んでも生きる命であるのです。それは私達がたとえ肉体は死んでもイエスと同じようにやがて復活するという約束でもあります。ですから私達の人生も、キリストにあるなら、キリストの命に生かされ、キリストにしっかりと繋がり、結び合わされて毎日を生きるなら、人生は決してお墓で終わりではありません。私達にあっても墓は空っぽになり、イエス様と同じように、復活の身体で、兄弟姉妹と再会できるのです。


C,「現在の希望と平安」

 そして、これは「今の」希望であり平安でもあることを忘れてはいけません。肉体の死からの復活はもちろんですが、クリスチャンとして生きるということは、信仰と洗礼によってイエスの復活のいのちに日々、私達が与るということです。それはどんなに罪深く疲れ果てても、私達は、日々、イエスに行き、その十字架のゆえに、イエスに罪と労苦を負っていただけるでしょう。そして日々、十字架で古い私達を殺してくださり、日々、私達の心、霊は、イエスがよみがえったように、新しくされているということではありませんか。それもみ言葉の約束であり、その通りになるという宣言です。「み言葉」はそのように「日々生きる私達へ」の慰めと平安の言葉として語られています。彼女たちがみ言葉によって信仰が新たにされ、喜びの知らせを伝えに行かせたように、私達もみ言葉によって日々新たにされて遣わされています。私達自身はいつでも弱い罪深いものです。いつでも神の目にかなうものではありません。しかしこのイエスのゆえに、私達は神に受け入られ、イエスは私たちにいつでもみことばを持って教え、十字架と復活に立ち返らせてくださいます。そして日々「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言って送り出してくださるでしょう。イエスはそのように福音で私達を平安にし喜びで満たしてくださり、用いてくださるのです。それもまた復活の恵みなのです。イエスの復活のいのちに生かされている証です。それを与えるのはイエスの言葉、福音に他なりません。それは信仰の家族が歩んだ道もその道です。私たちもこのイエス様のいのちにあって、同じ歩みに生かされ行こうではありませんか。





<ルカの福音書 24章1〜12節>

 1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。

 2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。

 3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。

 4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、

  女たちの近くに来た。

 5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、

  なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

 6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しに

  なったことを思い出しなさい。

 7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければ

  ならない、と言われたでしょう。」

 8 女たちはイエスのみことばを思い出した。

 9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。

10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちと

  いっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。

11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。

12 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布

  だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕