2021年3月21日


「箱舟から出なさい」
創世記 8章1〜19節
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1.「はじめに」
 神はノアにその箱舟に入るように言います。その後、神が言われた通りに、世界中に大雨が降り、地面からも水が湧き出て地に水が満ちて行き、高い山々が隠れるほどになりました。40日40夜、大雨は降り続け、そして雨が止んでも150日間、水は増え続けたのでした。神が洪水が起きると伝えた時、ノアにとっては、まだ目に見ていない事柄であり、むしろ人の目には信じられないことであり、そして神がなそうとすることも人間にとっては理解できない矛盾するようなことにも見えたはずのことでした。しかしそれでもノアは、目に見える事柄や人間中心の判断ではなく、目に見えない神の言葉と約束を信じ全てを委ね従ってきたのでした。そこからまず第一に、私達の前で神のなさることは、私達にとっては目に見えない事柄であり、人の目や理性や感情では測りきれないし割り切れないことであっとして、神の前には矛盾しない、そして神の言葉は言われた通りになる真実な言葉であるということを教えられました。そして第二に、この出来事はノアから始まったノアのわざでは決してなく、むしろノアは舟の扉を閉めることさえできなかったのであり、全ては神のなさった恵みの出来事であり、そして何より神は、この人間には理解をはるかに超えた箱舟という方法を通して、それはそこだけを見れば、滅びに焦点を当てた出来事に見えても、しかしそうではなく、むしろ堕落した時から人類に約束してきた、エバの子孫の彼が、やがて悪魔と罪を滅ぼすという約束こそが何よりの揺るがない核心として、それが果たされるための出来事であり、イエス・キリストに繋がっている出来事であることも教えられたのでした。ノアはどこまでもアダムとエバの子孫です。つまり堕落の影響を受けた一人の罪人にすぎません。しかしそんな彼が「正しく全き人であった」(7章)というのは、それは神が約束そした「まだ見ていない事柄」をノアが信じた信仰のゆえでありました(ヘブル11章7節)。彼は一人の罪人でした。ですから神がもし本当に罪と人への怒りで、すべてをリセットしたいという裁きであるなら、ノアも含めてリセットされたはずであり、その後にもう一度、新しい人間を創造して始めればよかったのです。しかし神はそうなされませんでした。アダムとエバの子孫である一人の罪人であるノアに、神があえて箱舟を作らせ箱舟に入れるのです。それはノアのただ神を求め恐れ畏むその信仰のゆえにです。しかしそのようにしてそして水の洪水だけでなく、迫り来る悪の洪水からもその最後の一家族にまでになった信仰の彼らを神が守ったのでした。そしてそこに、神がエバの子孫の彼を通して本当の救いをしようという約束こそが、むしろ絶やされなかったのでした。ですからこの7、8章のみ言葉は、人の目でそこだけを見て判断すると矛盾が感じられたとしても、聖書はどこまでもイエス・キリスト中心で、キリストによる神の救いの証しなのですから、イエス・キリストを中心に考えれば、このノアの出来事も、皆繋がっていて、神はその約束のために一貫していることが見えてくるのです。

2.「神は心に留め」
「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。」1節
 神の計画は人類の滅びではなく、つまり洪水で終わりではなく、この箱舟の中の罪人でありながら信仰の人々から一歩一歩、始められますが、そこに記されているのは、罪深くとも、神と神の言葉を忘れず恐れ畏んで聞こうとする者に対して、どこまでも耳を傾け、心を留め憐れまれる神であり、その神の思いから始まっていることがわかります。神は地上に風を吹かせ水を引くようにさせたのでした。風は、創世記1章2節、水の上にあったという主の霊を思い起こさせます。その主の霊によって天地創造が始まりました。その時のように、この時も水の上に神は働らいておられ、風を吹かせ、それによって水が引き始めるのです。洪水も全て神から始まっていたようにその回復も神から始まっています。同じように
「また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。」2節
 とあるように、神が地下の水の源、天の雨をコントロールされ水が増えないようにされたからこそ水が減って行ったのでした。そして
「〜水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。」3〜5節
 と続いています。第二の月に増え始め150日間増え続けたのですが、その150日が過ぎて減り始めました。アララテの山は具体的にどの山かはわからないのですが、メソポタミアの北、現在のトルコの東の辺りではないかと言われています。その山に箱舟はとどまります。そしてさらに月は過ぎ、第十の月の最初の日には、山々の頂上が見え始めたようです。箱舟に入ってもう8ヶ月も過ぎ去りました。そして

3.「箱舟から出なさい」

「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰ってきた。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰ってきた。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。」6〜16節

A,「天窓」
 まず6節の「窓」とありますが船の横についている窓とは違います。6章16節にありますように窓は「天窓」のことであり天井についているものです。ノアはその天井の窓を開けたのでした。その天窓は、神が設計し作るように言われた通りにつけたものであり、船の横には窓などはついていないため、その天窓から顔を出したのか出さないのかわかりませんが、そこから見える外を見て山々の頂などを確認したことでしょう。山々の頂は見えても、実際には、水の程度はどれほどなのかを確認するために鳥を放ったと思われます。鳥とありますが、英語訳ではravenとありワタリカラスのことです。「カラスが水が地から乾ききるまで、出たり戻ったり」というのは世界の悲惨な現実を示しているようで、カラスは死肉をつつく鳥として、水の上には洪水の惨劇を表すような悲惨な光景が広がっていたことを示すとも言われているようです。水のあるうちはカラスは出て行っても、とどまる所がないために戻ってくるのです。ノアは今度は鳩を放ちます。しかし休めるような場所がなかったためにノアの元へ帰ってきたのでした。そこで「彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた」と書いてあります。「手を差し伸べて鳩を捕らえ」と動作をかなり具体的に書いています。つまり顔を出したのかどうかわかりませんが、ノアは天窓から手を差し伸べて鳩を捕まえて中に入れたように、出たのは手だけであるということです。つまり、天窓があり、もう雨が止んでいたとしても、そしてもし彼の意思や選択で、つまいr、彼の好みのままの行動をするなら(6:2)出ようと思えば出ることができたとしてもです、ノア自身、箱舟からまだ出ようとしていないことがここからわかるのです。そしてノアは、10〜11節ですが、そこで一週間彼は待ち、再び鳩を放ったところ、鳩は、オリーブの若葉を持って戻ってきました。そこにはノアは「水が地から引いたのを知った」と、あるのです。

B,「目に見える証拠がそこにある〜しかし出ないノア」
 皆さん、そこで、もうオリーブの芽が出ているのだし、明らかに水が地から引いたのだからと、せめて天窓から外に出て世界を眺めることもでき、それで自分たちがどうするのかと自分たちで考えたり行動することもできたでしょう。いや、もう10ヶ月以上もこの天窓しかない箱舟の中です。彼らも同じ人です。ストレス、不安や不満やネガティブな思考も大きくなってもおかしくありません。ですからその目に見える証拠は希望となり、自律的、積極的に、外に出て、自分たちで判断し、自己責任で、出て行くのが、多くの人間のすることかもしれないでしょう。しかしそれでも、ノアは出ません。さらに七日待つのです。皆さん。ノアは臆病なのでしょうか?消極的なのでしょうか?何もしないのでしょうか?世の価値観、人の前ではそう言う評価になるでしょう。しかし彼は、あえて積極的、自律的に出て行こうとしないのです。彼は、待っているでしょう。七日を過ぎるのをですか?そうではありません。神の声をでしょう?神が語りかけるのをでしょう? 「入りなさい」と言ったのが神であり、扉を閉めたのが神であるなら、箱舟から出なさい、扉を開けなさいというのも、神ではありませんか? 自律的積極的に「神のために」、というのが、人間の信心のイメージする敬虔な姿であることが多いでしょう。他の宗教は、そのような律法で教理が彩られているし、キリスト教にさえそのようなイメージは根付いているものです。しかしそれによって、神の言葉に聞き、待ち望み、神のなさることををジッと待つことの敬虔さは忘れ去られ、敬虔ではないとされることさえあります。主と主の言葉を恐れ畏むノアは、明らかに外に出て、何か対策や方策などを考える材料を確かめることができ、自ら生活を新たにして行ける状況にはあり、、そのための目に見える証拠であるオリーブの若葉があったのですが、それでも彼は「自分の好みのままに選んで」(6章2節)行動しないのです。待つのです。神の言葉を。神が語りかけるのを。神が出なさいという時をです。

C,「目に見えない事柄を」
 ここに何が大事なことなのかが教えられます。目に見える事柄が何よりも、み言葉よりも中心になって、それを行動や判断の基準として行き、それにみ言葉を従わせることなのか、そうではなく、目に見えない事柄を、神の約束、神の言葉を、行動や判断の基準として行くのか、問われているのです(ヘブル11章7節)。明らかに真のクリスチャン、真の教会は、後者なのです。12節、七日後、もう一度、鳩を放ちますが、鳩は戻ってきませんでした。つまり鳩は、箱舟に帰ってくる必要はない、止まるところを見つけたということです。しかしそれからさらに数日経っています。第一月の初日です。ノアはそこで初めて箱舟の天井を取りました。しかしそこでも出ません。顔を出したのでしょう。外をここで初めて眺めたのでした。そしてこうあります。「ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた」と。もう地面は乾いていたことを、ノア自身がその目で見て確認できたのです。そこで「さあ、出よう。これが神のみ心だ。」と。人は、目に見えることに、自分の願望や期待を当てはめて、あたかもそれが神の御心であるかのように判断し、つまり、自分の目に見えることと、そこに思い描く不安や期待や願望に、神のみ心を当てはめて、そう考えます。しかしノアは出るでしょうか?

D,「箱舟から出なさい〜神を恐れかしこむとは」
「第二の月の二十七日、地はかわききった。そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」14〜17節
 なんと、それから、つまり第一の月の初日からさらに、1ヶ月以上です。第二の月の終わりまでノアは箱舟にとどまっています。出ていないのです。なぜですか?状況を判断しているからですか?違います。15節以下にはっきりとしているでしょう。そこで神の言葉がありました。「箱舟から出なさい」と。そして、18節、
「そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべての地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。」18〜19節
 と。ノアとその家族、そして動物たちも、神が「箱舟から出なさい」という言葉に従って、出たことがはっきりとわかります。途中で、目に見える、外に出てもいいのではないかと思える証拠がいくつかありました。雨が上がった。降り注ぐ太陽。天窓から見える山々のいただき、鳩がくわえて来たオリーブの若葉。そこにもう何ヶ月にも及んで、暗い窓のない箱舟の中に閉じ込められている。ノアはその目に見える証拠や、自分たちの感情的にも我慢ができないような理不尽な状況に置かれていることへの不満、そこで自律的積極的な自分の決断、意志、「自分の好みのまま選んで」外にでていき、世界を切り開いて行くことができたことでしょう。人間の衝動はそのように動くはずです。しかしノアは、それらの証拠よりも、自分の感情的な思いよりも、それがものすごい葛藤と辛抱の伴うものであっても神の言葉を待ったのです。「出なさい」という時まで、出なかったのです。皆さん、神の言葉に聞く、神の言葉、神のなさること、神が導びかれることに、希望を持って待つ、それが、何ヶ月、何年にも及んで答えが出ず、神が沈黙されているような状況であり、目の前には多くの目に見える現実が広がっていたとしても、待つ。それが神を恐れ畏むということです。事実、実はその見えない、いつとかどんな時とかわからない神の言葉を待つこと、その信仰こそがいつまでも残る希望と平安を私たちに与えるのです。なぜなら、その信仰は、真実な神の言葉と、神は真実であり、神の言葉は真実であるという信仰に裏付けられているからであり、その信仰があるなら、どんなに待っても、そこには希望は絶えることがありませんし、その神の言葉や約束に支えられているなら不安は平安に代わり、平安も絶えることがないのです。

4.「終わりに」
 ノアもアダムとエバの子孫であり罪人です。しかしそれでも、神の前の正しさ、彼が神の前に全きものである、その理由はどこまでもこの信仰のゆえなのです。
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」ヘブル11章7節
 イエスは今日も同じように、罪深い、罪を悔いる私達に、その真実な言葉、希望の言葉、平安の言葉を語り続けてくださっています。そして私達がとどまるべき、イエス・キリストにいつでも留まるようにイエスは今日も私たちを招いています。なぜならイエスこそ、神が「女の子孫の彼」と約束したそのお方であり、神の前に罪深い、罪を悔いる私たちに、この悪魔と罪に勝利した十字架と復活のゆえに、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と福音を今日も宣言し力を与えてくださっているのですから。私達は新しい週、いつでもこのイエスに留まりつつ、ともにいてくださるイエスにあって、ここから今日も福音の平安のうちに遣わされてもいくのです。安心してここから出て行きましょう。そして新しい週も、律法を動機ではなく、福音のゆえに、喜んで、神を愛し、隣人を愛し、仕えて行こうではありませんか。




<創世記 8章1〜19節>
 1 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めて
    おられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。
 2 また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。
 3 そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、
 4  箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。
 5 水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。
 6 四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、
 7 烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。
 8 また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。
 9 鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が
    全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入
    れた。
10 それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。
11 鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの
    若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。
12 それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。
13 ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、
    箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。
14 第二の月の二十七日、地はかわききった。
15 そこで、神はノアに告げて仰せられた。
16 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出
    なさい。
17 あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべて
    のものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そし
    てふえるようにしなさい。」
18 そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。
19 すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種
    類にしたがって、箱舟から出て来た。