2021年3月7日


「主は悔やみ、心を痛められ」
創世記 6章5〜22節
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1.「前回:神の言葉は留まらない」
 アダムやその子セツは、その子や、子孫達に、口から出る言葉で神の言葉を伝えてきました。それは、創造の初めに神のわざと愛と恵みが導いていたこと、しかし人間は堕落し罪とその結果が入ったこと、そして、それでも、神は女の子孫による救いの約束を与えてくださったことでした。しかし人間の堕落と罪、その影響はあまりにも大きく、人間は自らの力や性質では、その神の言葉を常に大事な拠り所として心に留めて置くことができませんでした。人間にはいつでも「人の前」のことだけでなく、むしろ大事な「神の前」の自分もあるのですが、その「神の前」のことを人は忘れ、そして何よりも神が喜びとされる神に求めるということを忘れて行きます。そして人は、それがセツの家系であったとしても、神の言葉を退けるとすぐに、堕落の原因の一つでもあった「神のようになりたい」という、自分が中心、自分が神になったかのような思いが繁殖力の強い雑草のように心を覆って行き、そして「その中から好きなものを選んで」(2節)と行動するようになって行きました。そのようにセツの子孫が、神を信じないカインの民と交わることによって子孫も増えていき、その政治的にも技術的にも発展した社会で、即座に手に入る目に見える欲求を満たすことはできたことでしょう。しかし神と神の言葉を退け「神の前」をないものとすることで悪が増大して行きました。

2.「悔やみ、心を痛め、残念に思う」
「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」5節

A,「主は、人が、心に計ることがみな、いつも悪いことだけでに傾くの見た」
 「悪が増大し」とあります。しかし、モーセは、その目に見える行いの悪はもちろんですが、「心を見られる」神の性質を踏まえて、「その心に計ることが皆、いつも悪いことだけに傾く」と、罪は見えない心にこそ「その根」があることを記しています。アダムとエバも、食べてはいけないその実を食べるという目に見える行いの罪の前に、その心がすでに神の言葉を疑い神のようになれると思いと動機があったわけで、その行動はその心から出ているものです。ですから罪は、行いのみならず何よりその心にあることがここからもわかりますし、「主はその心を見られる」とサムエルに語られた同じ神は、はるか昔に変わることなくここにいたこともわかるのです。そして、6節。
「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」6節
 「悔やみ」とあり、「心を痛め」とあります。「悔やみ」は、7章の終わりにもあるように、「残念に思う」という意味でもありますが、「repent」という訳もあり「悔い改める」にもなります。ここで「神は後悔するのか」ということは議論にもなっています。7節ではっきりとこうもあります。
「そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」7節
 これはこの後のノアに語られる言葉とも並行していると思うのですが、13節で神はノアに言っています。
「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らと地とともに滅ぼそうとしている。」11〜13節

B,「人の前の矛盾と神の前」
 ここで「滅ぼす」と言っています。ここは、多くの人の疑問や議論になったり、つまずきにもなったり、矛盾に思ったりする箇所です。例えば、「先を見通せる全知全能の神が、間違えるのか、後悔するのか、考えを変えるのか?」、「神は、被造物を見て非常に良かったと言ったのに、滅ぼすのか?」、「愛の神が、滅ぼすのか?」等々、疑問や議論はつきません。それらの疑問や議論にとことん答えを出そうと、しようとする神学や教会もあるかもしれません。しかし忘れてはいけない事実として、人間の理性や知識は、神のそれに決して勝るものでもなければ、神の大きさに比して極めてちっぽけなものです。例えば、「愛」ということ一つとっても、私達はとかく神の言葉よりも人間の愛、しかも個々人の価値観での愛で議論し自分の考えが正しいと思うものです。ですから神の愛は十字架に現された罪の赦しであり、罪の自覚と悔い改めがまず先にあって導かれてこそわかるものですが、罪などは触れたくない人は、罪にあまり触れない自分に都合のいい神の愛に変えてしまったりもします。そのように自分が神より小さいどころか、自分の価値観や正義に神やみ言葉を当てはめて考えてしまうことは多々あるのです。この6、7節、13節などで出てくる、神が何か矛盾しているかのような疑問も、私達人間の限られた知識や客観性や論理性、さらにはそこには願望や価値観も加わりますが、そのような人間の見方で見れば矛盾にも映るでしょうし色々な答えも出ることでしょう。だから神はいないんだ。神は間違っているんだ。いや、そうではないのだと。もちろん論ずるのは自由です。しかし答えは出ないし、出したとしても神を人間に枠にはめ神を小さくしてしまうことに他なりません。ところが「人の前」に矛盾しているように思えるところがあっても、私達よりはるかに大きな「神の前」では全く矛盾していないかもしれません。いや「かもしれない」ではないなく神の前では矛盾していないし、矛盾しようがありません。ですから私達、ルーテル教会のスタンスとして、やはり書かれ伝えられていることから神の御旨を受け取り、そしてわからないことはわからないままにしておく、やはり創世記のはじめから何度も繰り返したことに立ち帰らされるのです。

C,「堕落と罪は決して軽くない:神は罪に怒り残念に思っている」
 ですから、ここで私たちは受け止めなければいけません。それは神はその通りに、紛れもなく「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」し、「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」という事実です。それは人間感情や願望としては、そうであって欲しくないとなるでしょうし、そんなことを言ったら、矛盾するし人は集まらない、人は躓く、になるでしょうけれども、モーセはその霊感によって神のメッセージを伝えています。み言葉はこのように人を介して伝えられますが、モーセもそうですが、何より当時、神の言葉を説教してきたノアやその子の父祖たちも、周りの不信心、そして自分のセツの子孫の一族からもカインの一族の発展した町に移っていき神の言葉を捨てていき、そのように悪が蔓延し心に思い計ることが常に悪であることをまざまざと体験してきたことでしょう。そこで彼らは神の語りかけを聞く中で、モーセと同じように神のこの心を感じていたと思われるのです。神の言葉を伝えても人間はそれを軽んじて捨てて行く。見えない神と神の約束より、他の目に見えるもの、カインの国の発展や、神の言葉を信じない心の偽りの自由さ、好みのままに選べるひと時の満足や目の前に広がる願望や野望にを選んで行く。そこで彼ら、そしてその最悪の状態を生きていたノアは、神がそれを見て残念に思い、創造を後悔するほどに、神は深く、悲しみ、深く、怒り、深く、失望していることを明らかに汲んでいたことでしょう。神からその言葉を聞いたノアはそのままを表しているし、モーセも「人との矛盾しない線」ではなく、たとえ人には矛盾しているように見えても、モーセは「その神との線」に従ってそのままを記しているとわかるのです。

D,「暴虐は、神の前、心の中でも」
 そして、もちろん、11〜13節でも見ましたように、目に前に広がる暴虐が溢れていたのはまぎれもなまい事実ではありますが、それは当然、目に見える暴虐や悪い行いだけではないということです。ここでは11節「神の前に」とあり、13節でも「わたしの前」とあります。「人の前」の悪や暴虐だけではなく、それ以上に「神の前」の罪です。アダムとエバから変わるのことのない、堕落の原因。神や神の言葉を疑い、信じないこと、神の言葉よりも、「神のようになれる」の思いで自分が神のようになろうとする、自分中心で全てを考えようとし選ぼうとする。つまり神の言葉を退けて、神が喜ばれた神に求めることもしなくなり(ヘブル11:5〜6)、「その中から好きなものを選んで」(2節)のその「心」です。それは「人の前」では大したことではなくても、「神の前」には罪そのものであり、それは神に対する、心の「暴虐」でもあるのです。
 皆さん、ここで私たちが、避けて通れず教えられなければいけないことは、これまでの創造における素晴らしさや被造物を洪水で滅ぼすほどに、神は決して、その行いの罪はもちろんのこと「神の前」の罪を軽くされない。軽く見ない。いやむしろ滅ぼすというほどに、それを実行に移すほどに神は怒りに溢れ、そしてその暴虐はもちろん、私たちが神と神の言葉を信じない、神に求めないことを、今でも紛れもない「神の前」の罪として、深く悲しんで残念に思っておられるということです。堕落は決して軽くない。罪はどんな小さくても、見えない心の中でも、それは決して軽くないのです。

3.「義を相続するもの」
「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」8節
 と始まっています。ノアは「主の心にかなっていた」。
「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」9節
 とあります。ノアは「正しい人」「全き人」そして「神とともに歩んだ」とあります。ノアはもちろん周りの流れに乗らず悪い行いに走ったりはせず正しい行いに生きた人であったことでしょう。しかし彼もアダムとエバの子孫であり罪人であることには変わりありません。しかしではなぜ彼は「主の心にかなっていた」のでしょう。その正しさはなんでしょうか。それは4章のエノクのところでも見てきましたように、彼の神を信じる信仰のゆえでした。エノクの場合は、神に求めること、求めたことはその通りになると信じたことを神は喜んだことがヘブル11章6節で証しされていました。ヘブルではノアのことが書かれています。
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」ヘブル11章7節

A,「信仰によって:神は求めるものを捨て置かない」
 「信仰によって」「信仰による義」を相続するものになったとあります。ノアが「神の前」にあって、その主の心にかなっていたのは、行い云々のこと以上に、どこまでも神を信じる信仰のゆえであったのでした。神はこのノアに洪水が起き被造物が滅びることを告げ、ノアに箱舟を作り家族で箱舟に乗るように命じたのでした。それは周りには暴虐と不信心の溢れる世界にあって、孤独なノア家族にあってはまさに慰めであり、ノアはその名の通り人類と家族の慰めであったのでした。そのことには私達へのメッセージがあり、たとえ、どんなに暴虐が溢れる世界、創造主なる神とその言葉を信じない人々がもう大多数という世界であったとしても、私達がたとえどんなに少数であっても、それが一人であったとしても、神はその人のその心を、信仰を、求める思い、悔い改めを、決して忘れてはいないし捨て置かない。神はそのようなお方であり、そのような神であると信じることは幸いであり慰めと平安を与えるのです。

B,「神は救いの約束を忘れない」
 そして事実、この後、箱舟に乗るのがノア夫妻とその息子夫婦と1つがいのあらゆる種類の動物のみであったことから、もはや地上にはノアとその家族以外には信仰者はいなかったのです。仮に洪水がなかったとして、ノアも罪人ですからやがて死を迎えます。そして見てきたように、ノアも父祖たちのように神のみ言葉を語ってきたのでしょうけれども、そのみ言葉は、セツの子孫の多くにさえ人には止まらず、人は神のみ言葉を捨てて「好きなものを選んで」(2節)の道を行き、そしてもう聖霊は留まらなくなったのですから、このままではさらに悪は広がって生き最後に残ったノアの家族にさえ及びます。ですからノアは全き人で信仰の人であっても、やがて死を迎え、最後のノアの一族さえ暴虐に飲み込まれていく可能性は大いにあったことでしょう。しかし皆さん。なぜ神の怒りはそのまま洪水に表されなければならなかったのでしょうか。その一つとして、明らかに神は、3章15節「彼女の子孫の「彼」」を決して忘れてはいないからでしょう。み言葉を捨て、聖霊も離れたノア以外の滅んでいく人々の暴虐をノアの前から断ち切り、最後のノアの血筋、つまり、彼女の子孫の「彼」への約束のために洪水と箱舟は用いられることになるのです。もちろんここは「人の前」人間には理不尽のように思えたり理解をはるかに超えたことのように思えるかもしれませんが、神の正義は人の義では計り知れません。ただ罪の現実への圧倒的な裁きと同時に、しかし神の破棄されることも忘れ去られることも決してない神の約束があり、そこにある悪魔と罪への勝利の実現がある。ノアの命と血筋が神によって守られたからこそ、信仰と祝福、神の言葉と約束は断たれることなく受け継がれて行った。そして被造物の全てを滅ぼしたのではなく、神はそのなおも罪の性質を受けついだアダムとエバの子孫のままで人類に、創造の光と罪に対する勝利と赦しの約束を残されたでしょう。事実、洪水の後にも、変わらぬ神の前の罪が世界を席巻していきます。しかしこの約束こそが守れた事実に、私達は、本来の目的がただ滅びや裁きに終わるのでではない、神の本当の計画がイエス・キリストのこの十字架と復活に実現されることに何よりも目を向けることが大事なことではないでしょうか。

4.「罪を悔い改め、十字架の福音を」
 私達、いや私自身が実に罪深い一人です。事実、十戒を完全に守れないし赦せない、愛せない、があります。何より神を愛する、第一の戒めにおいて、私自身が本当に神を忘れ自分中心に生きてしまっている、私自身にある罪の性質の現実を今日のところからまざまざと気づかされる一人です。本当にみ言葉は私の罪を刺し通し、私は悔い改めさせられます。神の前に滅びるべき絶望の存在は私であり、私は洪水で滅ぼされるべき罪人なのです。しかし洪水後において、神はそんな私に再び絶望と滅びの洪水ではなく、このイエス・キリストを私達のところへ送ってくださった。罪を悔いる私達のためにこの神の愛する御子を飼い葉桶の上に生まれさせ、私達の友となり、そして私の代わりに十字架につけて死なせた。その十字架のゆえに、罪赦され、主の復活のゆえに、日々新しくされる。今日もイエスはここで、み言葉と聖餐を用いて「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださっています。これにまさる感謝と喜びはありませんし、これ以上の平安はありません。ぜひ罪を悔い改め、そしてこの主の言葉が、パンとぶどうに結びついて、イエスが受けよと前に差し出してくださる、イエス・キリストのからだと血を受けましょう。そして平安のうちに隣人を愛し仕えるよう祈りつつ遣わされていきましょう。





<創世記 6章5〜22節>
 5主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのを
  ご覧になった。
 6それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
 7そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜
  やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
 8しかし、ノアは、主の心にかなっていた。
 9これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人で
  あった。ノアは神とともに歩んだ。
10ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。
11地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。
12神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上で
  その道を乱していたからである。
13そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来て
  いる。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とと
  もに滅ぼそうとしている。
14あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外と
  を木のやにで塗りなさい。
15それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。
  その高さは三十キュビト。
16箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口を
  その側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。
17わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の
  大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。
18しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、
  それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。
19またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、
  あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。
20また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつ
  が、生き残るために、あなたのところに来なければならない。
21あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物
  の食物としなさい。」
22ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。