2021年2月28日


「人が肉にすぎないからだ」
創世記 6章1〜6節
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1.「カインの家系と隣り合わせの世界」

 前回、6章の始めを見てきましたが、もう少し2、3節から学んでいきます。そこでは「神の子ら」が「人の娘たち」の美しさに惹かれて、その人の娘たちの中から好きなものを選んで自分の妻としたと言うところから始まっていました。それはこの箇所が5章でのノアまでの系図の「後に」書かれているので、ノアの時代だけの出来事を示していると思われるかもしれませんが、そう言うことではないと思われます。5章で見てきたアダムからノアに至るまでの父祖たちが何百年も生きるような時代であったのですから、そこで父祖達が何世代も重なって、つまり共に生きていた時代でもあったことでしょう。そしてモーセは、その「神の子ら」を、神を信じる人々、セツの子孫、そして、「人の娘たち」は不信心で神を信じない人々、カインの子孫とを区別するために用いていた表現と見てきました。アダムとエバは、息子カインとアベルの悲しむべき試練と罪の影響の大きさとともに、神の憐れみに立ち帰らされることによって、新たに与えられたセツやその子達に、天地創造の神のこと、神とともに生きていた時代のことやそこにあった神の恵みと祝福と平安、それにもかかわらず、自分たちが神の言葉よりも、誘惑の言葉に従い、罪をおかし堕落したこと、それに対する神の言葉を罪の報い、しかしそれでも神の豊かな恵みは絶えないこと、等を教えてきたことでしょう。しかし現実として、アダムはじめセツやその子孫は、地球においては限られた地域で過ごすカインの子孫一族の、その発展と、そこに自分たちが父祖から受け継がれてきていた神の教えとは異なる不信心な生き方をも無視しようとしても目には入ってくるものとして見てきて、あえて交わらないように避けてもきたでしょうし、そのように子達にも受け継いできたことでしょう。カインの家系は政治的技術的には大変発展をしてきて、町を最初に作り、金属加工などを発展させ、つまり武器などを持ち発展させたのも、カインの家系でありました。セツの子孫の素朴で細々と日々大地が与えてくれるもので生きてきた生活とはかなり違ったことでしょう。そしてカインの家系には4章でも見てきたように、神と神の言葉に背を向けていった必然として性的な堕落や暴力などの悪い行いも蔓延していたのでした。時代は何百年も生きるような超高齢の時代でもありますから、アダムはセツとだけでなく、何代にもわたる子孫とも同じ時代を生きたと思われますが、アダムとセツとその家系、子孫は、そのように、側にある罪の誘惑や脅威との戦いの中での生活であったと思われるのです。そして前回も述べた通りに、セツの子孫は決して神でもなければ聖人の家系でもありません。あの堕落の原因であった、アダムとエバの子孫であり、それは、彼らはまだ創造の記憶に近いから、少しだけ堕落していて、良いところが沢山残っていたと言うことではない、神の前には完全に堕落し腐敗している、肉にすぎず、私達と変わらない罪人でありました。彼らは神が約束した「エバの子孫の彼」の約束を受け継ぎ、神の言葉と信仰を受け継いていた「神の子ら」ではあっても、同時に100%罪人でもあったのです。その中で、隣り合わせのカインの子孫の発展と欲望の社会の誘惑に対して、いつでも全ての家族が完全に勝ち得て彼らは完全な神のような存在であったと言うことではないのです。事実、彼らが「神の子ら」であるのは、神がこのセツの家系を約束の彼への家系として一方的に選んだ神の恵みのゆえであり、その恵みのゆえに絶えることなく受け継がれてきたみ言葉と信仰のゆえでもあり、つまり彼らの力による完全な服従のゆえにモーセは「神の子ら」と呼んでいるのではありませんでした。むしろ現実は、彼らは罪深い一人一人であるのです。


2.「人が肉にすぎないからだ

   :堕落以来の人間の現実:カインの家系だけでなく」

 事実、人間とは弱いものであり、神の言葉や神の見えない計画やそれへの信頼ではなく、自分の肉の目に見える発展や繁栄や多数が従っているところに正義や道があるように容易に判断しやすいものです。それは人間の歴史が物語っており、発展の勝者が歴史を都合よく物語ってくるし、多くの人はそのような価値観や正義を簡単に受け入れ従って生きますし、長いものに巻かれるとか、勝ち馬に乗ると言うのは、誰もが自分を守るためや、正義をかざし、自分も勝ち組であることを誇示するために容易に選ぶ道です。それが多くの人間の現実でもあり、そのような強者と多数派によって価値観も歴史観も正義も形成されているものです。ですからセツの子孫の隣の繁栄や悪との戦いは生易しいものではなく、実は非常に苦しく困難なものであり、そこには悲しい結果も多々あったことでしょう。その何百年の彼らの葛藤と罪の現実が、2?3節のこの短い説明には書かれていると言えるでしょう。そしてそこにある何よりの問題は一貫しています。神の言葉に聞き、神の言葉に求めることを退け、アダムとエバが、誘惑の声のままに、神のようになれると言う、その実を食べるのに良く慕わしく思って食べたその動機と同じように、神も神の言葉にも聞くことなしに、自分の肉の欲と感情に任せて、「その中から好きな者を選んで」と言うことにありました。それは、妻を選ぶときだけではないでしょう。あの発展した町、技術、生活、そこにある自分たちにはない多数の人々、経験したことのない喜びや驚きをも、同じように、その中から好きなものを選んで、と。彼らは、人の娘たち、人の町、人の持っているもの、へと惹かれ、選んで行ったのではないでしょうか。

 主は、3節で「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。」と言っています。ルターは「わたしの霊」である聖霊は、どこまでも神の言葉を通して働くと言うことにたって、「わたしの霊」を「神のことば」、その「正しい教え」と同じ意味で解説しています。ですから「わたしの霊が永久には人のうちにとどまらないだろう」と言うことについて、みことば、正しい教えが、いくら語られても、人はそれを受け入れようとしないその人の性質を意味しているのだとルターは意味しています。事実、アダムはセツに神の言葉、自分の堕落や罪の重大さ、そしてそこにある神の憐れみと約束を語ってきたことでしょう。セツもその子たちへと、そのように受け継がれ、ノアの父レメクもノアへ、レメクの父メトシェラもレメクへと神の言葉を語ってきたと思われます。そこに聖霊はみ言葉を通して働いてきたのです。しかし人間の性質は、実に深刻であったことが3節の「人は肉にすぎない」は物語っています。人は、自分の力、どこまでも肉であるその肉の性質では、その言葉とその正しい教えを、自分に留まらせ続けることが決してできない。アダムとエバがかつてそのように目に見えない神の言葉の素晴らしさよりも、目に見える誘惑者の目に見えるような約束と果実の方を良いと思って行動に移したように、その性質を人は決して脱ぐさることができない。だからこそ禁断の実であり、それほどまでに堕落の影響と罪の深さは深いことを示しています。「人は肉にすぎない」と言う、その肉のみでは、人間はどこまでも神の言葉に背を向けて退けていく。そのように神の言葉が退けらていくからこそ、神の霊、助け主なる聖霊はもはや働きようがない。それが神の霊が人に永久にとどまらないの意味に他なりません。


3.「ネフィリムによる支配と悪の蔓延」


A,「ネフィリムによる支配」

 そのように神の子らであるセツの家系の人々も、もちろん全てではないにせよ、「神の言葉によって」よりも「自分の好みのままに」道を選び、カインの家系の町、技術、文化、価値観、信心に飲み込まれていきました。そのようにして互いの子孫が交わったその子孫も誕生し、家族を形成していくことになりました。そして4節こう続いています。

「神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」4節

 ネフィリム。ESVの英語訳でもネフィリムとありますが、ルターの注解では、giants、巨人、大男と言う言葉が使われています。しかしルター自身、それは物理的な大男ということではなく、Lutheran Study Bibleでもそれは残忍な悪を行うもの、暴君、抑圧的に統治する者を意味しているとあります。ですから「昔の勇士であり、名のある者たち」とありますが、彼らはカインの子孫であり、戦いに長け文明を支配してきた有力な支配者であったことでしょう。しかし神の言葉のない、むしろ自分が神になったかのような、独裁的な専制君主として暴力で支配してきたと思われます。しかしその支配は決して秩序も平和も生み出しませんでした。このように続いています。


B,「人の悪が増大し」

「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」5節

 人間は、神によって創造され、命を与えられ、神とともにあり、神の言葉に導かれて生きる存在として創造されました。ですから人は実は、何かを信じなければいきていけない存在でもあります。神から離れて行っても、結局、神の代わりが必要であり、悪魔と罪は、確かに人に創造主なる神に背を向けさせましたが、結局、人が自分が神のようになれる、考える、行動するよう欲するようにさせることには成功しており、結局は、信じる対象が、自分や自分の都合のいい何かになっただけでのことであります。ですから無神論の人も、結局は何か自分に都合のいい対象、それが人であれ何であれ、それが自分自身であったとしても、何かを信じ拠り所にし依存して生きているし、それがないと生きていけないのです。そのような中で、そのような強力な支配者とそこでもたらされる富や繁栄や強さは、まさに肉の目に見える神のような存在として惹きつけるものがあります。しかし人間はどんなに強力な支配者でも決して神になり得ません。人間の統治はどこまでも不完全であり、どこまでも罪深いものです。それは今やキリスト教を掲げる国でさえそうです。ましてこのような人の暴力と力と富に結びついた社会であれば、その民への影響は深刻で顕著になります。堕落は堕落を生み、罪は罪に連鎖する。それは列王記や歴代誌などに見られる、偶像礼拝に走る王の悪が、国民の偶像崇拝や悪に見事に反映されるように、暴力による統治は暴力を生み、不正は不正を生み、抑圧は抑圧を生んでいくことになります。しかし主は、ここでただ、そのような悪い専制君主による統治のことだけを言っているのではないようです。なぜなら、主の言っていることはこうだからです。


C,「その心に計ることが「みな」、「いつも」悪いこと「だけ」に、」

「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」5節

 と。人の「心に計ることが『みな』」と言い、「いつも」と言い、「いつも悪いこと『だけ』」と言っています。主はネフィリムの統治のことだけを言っているのではないことがわかります。ネフィリムは一つの最悪の「例」にすぎません。むしろその根源は全ての人にある罪の根です。人が神の言葉を退けて誘惑の声に従った。誘惑の声に従って、神の言葉に疑いを持ち、神の言葉に自分の熱心を加え「神が自分を」ではなく「自分が神を」守っているかのような錯覚の中で、「神のようになれる」と言うその言葉に快感と魅力を感じてしまった。欲しいと思った。そして食べてはいけないと言われたその木の実を、食べるのに良く慕わしく思えて、その思いを実行した。その衝動、その動機、その欲求が、カインに現れた。カインの子孫に受け継がれていって、そして事実、彼らは自分が神であるかのようになり、世界を統治して行こうとし、人々もそれに従った。いや彼らだけではない。セツの子孫もやはり罪から自由ではない。神の言葉が語られても、神の言葉に背いて行こうとする。アダムとエバのように。それはアダムとエバの子孫だから。そしてセツの子孫が「その中から好きな者を選ん」だその結果は、人が神になって実現できる楽園でも平和の国でもない、悪が増大したのでした。「その中から好きな者を選んで」は人間にとっては神からの自由と自立の目覚めであったことでしょう。人間中心の視点、人間が神のよう振る舞うことに未来を見たい人には、それは歓喜の言葉かもしれません。しかしそこにたとえ、人の前では理性的で秩序立った発展した社会や世界が地上に実現したとしてもです。神の前にあって、神は、神不在で人間が神のようなった現実は、アダムとエバの動機と同じで、堕落の影響はいかに深刻で、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」と言うことをどこまでも見ていたのです。神が求められるのは、神を亡き者、無視し、背を向けても、地上に平和な秩序が繁栄がもたらされればそれでいいと言うことではない。人の前で良い行いや人の望む自分中心の愛が実現できていればそれでいい、と言うことでもない。エノクがなぜ喜ばれ、堕落前のアダムとエバの何が神の喜びであったのかで見てきた通り、神は、離れられるのではなくどこまでも求められること、そして求めたことをその通りになると信じる、その信仰こそを喜びとされたのです。神にとっては、その信仰こそ喜びでもあり、神の前の義でもあり、人間の本来の姿でもありました。人はそうではなかったのであり、その神の喜ばれる「神に求める」信仰がなければ、神の前ではどんな崇高な理想も「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」でしかなかったのでした。


4.「終わりに」

「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」6節

 神は悔やんだとありますが、後悔したというよりはESV聖書だと、”sorry~grieved”とあり、7節の最後にある通り、残念に思い、深く悲しまれた、あるいは、ここにある通り心を痛められたという訳です。次回は、この難しいところを見ていきたいと思いますが。今日のまとめとして、多くのキリスト者や教会は、少しでも人間を良いものに思いたい。そんなに堕落していない。創造の良いところは残っている。全的堕落などしていない。そういう風に全的堕落を教えるから、人は敬遠する、と言いたいようで、そのような牧師先生も多いようです。しかし私達の現実、行いだけでなく、特に心の現実を正直に見つめ、堕落後の人間を通して神が私達に語りかけることに耳を謙虚に傾けるときに、そこには人の前ではない、神の前にあって、神の声から背を向けて退けようとし、自分を神のようにしようとする、そのような意味での圧倒的な罪深さ、そしてそれに対して何もできず、罪と不信仰を受け継いでいく、そこに悪は栄えていくという、今も変わらない罪の深刻さの現実と、そして神はそのことを決して軽いものとして見ていない。少しは良いところがあるから、人間には希望はあるとも見ていない。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧に」なり、その罪をいつでも残念に思い、深く悲しんでおられるということは紛れもない事実です。それなのに堕落は最小、限定的、人にはいいところが沢山残っているなどと、神の前に言うことは私はできません。何よりそのように私達は完全に堕落しておらず、良い部分は沢山残っているというならキリストは必要なかったのです。私達の残っている良い部分の力で、帰ってきなさいになり、「恵みで半分助けるから」とか「少しは助けるから」、になり、結局は私達の努力による救いになることでしょう。それはもはや福音ではありません。キリストは、どこまでも罪深い私達を、洪水のように再び滅ぼすのではない、罪人をその完全な堕落、罪から救うために私達のところに来てくださっています。そして十字架にかかって死なれたのです。そしてよみがえられました。私達はその十字架の罪の死とよみがえりのあたらしいいのちを受けるからこそ、神の前に正しいものとされ、神からの安心があり、そこからまったく新しい、しかしそれは創造のはじめにあった本来の道に回復され、喜んで神に従い隣人に仕えていく歩んでいくことができるのです。その福音、救い、義を、そのまま今日も受け取りましょう。





<創世記 6章1〜3節>

1さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、

2神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分

 たちの妻とした。

3そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉

 にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。

4神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、

 ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

5主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのを

 ご覧になった。

6それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。