2021年2月14日


「信仰によって、エノクは」
創世記 5章22〜32節
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1.「エノクは死を見ることなく」
 前回は、アダムの家系で、セツの家系について見てきて、エノクまで見てきました。今日は、そのエノクからもう少し見て行きましょう。前回、22節で、エノクは300年、神とともに歩み、24節、神から取られいなくなったとありました。それは、前回も、神の国へと移されたのだと言いましたが、そのことは、アベルと同じように、新約聖書のヘブル書11章に証しされています。11章5〜6節ですが、
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」ヘブル11章5〜6節
 まず「エノクは死を見ることのないように移された」とあります。居なくなった。見えなくなったのは、死ぬことなく、移されたということであり、その意味で、彼は特別ではありました。しかし、エノクもアダムとエバの子孫であるのですから、完全に堕落した一人の罪人でありますので、自ら、神の目に叶うようになることも、神とともに歩むことも、神の国に至ることもできない存在です。ですからその「神とともに歩んだ」ということも「神から取られた」ことも、彼が少ししか堕落しておらず、彼にそうする能力があって、彼の力ともに歩み、彼の力で神のところに行ったということではありませんでした。エノクの出来事は神から罪人であるエノクへの特別な取り扱いによる恵みの出来事であったのした。

2.「喜ばれる信仰とは?」
 しかし5節には、「移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」とあります。エノクは「神に喜ばれている」存在であったことがわかります。しかしそれはなぜでしょうか?理由はなんでしょう?ーヘブル記者は、ここで書いているでしょう。「信仰によって」と。6節でも、なぜ神に喜ばれていたのか?それは、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」ともあります。エノクが神に喜ばれていたのは、その信仰のゆえであったことがわかります。そして、その「信仰」については、「私たちが自分たちの努力でしなければいけない」「律法」なのか、イエス・キリストが与え、してくださる、恵み、賜物、つまり「福音」なのか?ー信仰は、賜物であり福音であると、見てきました。「信じなさい」という言葉は、全ての人にみ言葉を通して与えられ、目の前に差し出されている、神の救いの恵みを、そのまま受け取ることなんだ。空腹の人に食事の準備ができているから「さあ、きて食べなさい」と言ってくださっていることなんだと。ですからこのヘブル書でも、信仰は「何かをしなければいけないこと」というよりは、ヘブル記者が6節で言っている通りに、信じるとは、「神がおられることと、神を求める者には報いてくださる」そんな神を信じることだとも言っているでしょう。この言葉からわかるのは、つまり「神が、私たちに何かを求める」のではなく、その逆であり、むしろ「私たちが神に求める」求めを聞いてくださり、求めに答えてくださり、報いてくださる神がおられ、その神に実際に求めること、いやそれ以上に、求めることには報いてくださるんだ、そのことまで信じていい、私たちがそこまでも神に求める、神が私たちに求めるではなく、私たちが神に求める、そんな信仰が喜ばれることがわかります。

A,「世とは逆」
 皆さん、これは世の宗教や信心やあるいは社会や組織とは逆です。それらは、まず私たちに求めるでしょう。その求めに私たちが答える時に、信頼があり、報酬やご利益があると、そういう構造、教理、システム、人間関係や人間同士の信頼関係になっています。それは世の中ではそれでいいのです。しかし、聖書の神と神が求める信仰はそれと同様ではなく、むしろその逆です。全く、神の目に、神の前にあって、神の基準に叶わない、完全な堕落の子、罪人であるものに、神はそんな人類に、求めるよりも、何より、神ご自身に求めることこそを喜びとされる。それを信仰とされるのだということです。私たちは、何かをしなければ、完全でなければ神に受け入れられないと考えます。もちろんそうです。律法はそのことを示します。律法、十戒があるからこそ、私たちは、自分たちは神の目にかなっていないし、自分が罪人であるし、それが楽園から、神から、神の国から断絶されている原因だと、わかります。ですから、もし聖書がその律法だけを教える書であるなら、キリスト教も、世の中の宗教や組織の教理やシステムや信頼構造と同じでいいのです。まず要求されていて、しなければ報われないと。あくまでも律法だけの聖書ならです。でも違います。聖書は、律法も神の言葉であるけれども、その律法だけ、律法が最後の言葉として、私達に与えらえていますか?聖書は、イエス・キリスト中心で、イエス・キリストを全て指し示している、と伝えてきました。そう律法は決して最後の言葉ではなく、律法の後には福音を神は備えてくださったでしょう。罪深い人類に、神はこのイエス・キリストを十字架の贖罪によって、私たちに罪の赦しを与え、罪によって、断絶されたいのち門を開け、いのちの道を開いてくださった、その福音こそを、律法を最初に用いながら、私たちに伝えたい、教えたい、与えたい。それが聖書の目的、そして神の目的です。

B,「旧約のエノクも変わらない:神に求めることこそ」
 そのことが、やはり、旧約の時代も変わることのなかったことがヘブル書には示されています。エノクは旧約の人だったから、律法だけであり、彼が神の要求にしっかりと答えたから、信仰者として喜ばれた、ではないということです。もちろんエノクは、悪い行いをしていたということではなく、彼は良い行いも沢山し、隣人を愛していたかもしれません。しかし神が信仰として喜ばれたのは、それ以上のことを見ていたということです。それは、彼が、神に求めていたし、求めることに報いてくださると、神を信じていた、それを神は喜ばれた、その信仰を喜ばれたということです。事実、堕落前は、神の恵みに求め生きる人間の本来の姿であったでしょう。その様に、神が私たちに求める以上に、罪深い私たちが神を求めることの幸い、恵みを教えられ、旧約時代のしかもまだアダムとエバに近い時代のエノクは、その恵みに生きていたのです。その罪深い存在が神の恵みを信じる信仰こそが、やはり、いまも、昔も決して変わらない、信仰であったということがわかるのではないでしょうか。ですから、旧約の人の信仰は、福音がない時代だから、律法の信仰だったんだ。功績としての信仰だったんだ。それは、完全には堕落していない少しは良いところがあって、自分の意思で、信じたり、従って行ったりの信仰だったんだというのは、間違いです。もしそうであるなら、キリストは必要なかったことでしょう。矛盾します。私たちと神との間には罪ゆえに、深く隔たれた深淵があり、堅く閉ざされた門があったからこそ、それに打ち勝つことができる唯一の方が来る必要があったでしょう。事実、4章の終わりで、アダムとエバに新しく生まれたセツとその子供たちの家族が主のみ名によって祈り始めたとありました。神に求めるようになった。それは見てきました。神は、背を向けて、自分勝手に、自分が神のようになって、神に心を閉ざし生きて行くことではなく、神は求めることを望んでおられること、喜ばれることを、彼らは、試練を通して改めて思い出したからでしょう。自分の罪がカインに受け継がれていて、息子を二人失ったことによる、自分の罪の深刻さに改めて気づき、彼女の子孫の彼の約束が絶たれてしまったような絶望の時に、神はセツを与えてくださって、神の素晴らしい愛と憐れみ、自分は神に背を向けても、神は自分に背を向けず、約束は絶たれることがなかった、その神の創造のときから変わらない、愛と憐れみ、豊かな恵みを改めて思い起こされたからこそ、アダムとエバの家族は、祈ること、求めることを始めたではありませんか。
 そう、世の中の宗教は、まず、神や教祖が、私たちに求めることが最初で最後であり、組織は、上から下への要求に下が答えることが全てだと、考えたとしても、世界万物を創造され、全てのものにいのちを与えてくださったまことの神は、私たちが神に求めることこそ、スタンダードであり、それこそ神は喜ばれるということです。神の恵みにより、アダムとエバはその真理を、思い出したからこそ、祈ることを始めました。はじめから変わることはない、信仰は、要求される律法を完全に行うという、律法ではない。神に求めること、求めることに神は報いてくださると、信じることなのです。それを神は喜ばれた。そのことは、昔も、いまも変わりません。

3.「信仰はどこから?」
 では、その信仰は、どこから来るでしょうか?エノクの信仰は、自分の力で信じたのではないなら、どこからきたのでしょう。それもいまと同じです。神の言葉です。もちろん、エノクの時代に、こんな本の聖書も、巻物の聖書もない時代で、全くの父母、祖父などからの口によって伝えられてきた神の言葉でしょう。それはきちんとしたこんな何の書、何章とかもない時代です。エノクの時代からはるか未来に、モーセによって、創世記も書かれています。アダムとエバは、自分達の罪の重さに気づかされ、神の恵みを思い出し、祈ること、礼拝をはじめ、そのことを通して、神のことば、自分の罪のこと、神の約束のことを伝えてきたでしょう。もちろん、セツの子孫は、「彼女の子孫の彼」、イエス・キリストにつながる系図ではあっても、聖人達の系図ではなく罪びとの系図です。教えるから、みんな立派な信仰者になり、敬虔になるということでもありません。もちろん、その神の存在や神に求めることの幸い、神の恵みをそのまま受け取り信じる者達もいれば、神に求めることなど馬鹿馬鹿しいと思う人もいれば、神などいない人いう人も当然いるわけで、神に差し出されている恵みなどくだらないと思う人もいるのです。それは今となんら変わりません。人間の自由意志というのは、何か、神を信じる自由や意思のことなんだ思われがちですが、それは大きな間違いです。人間の自由意志というのは、神を信じる自由は全くありませんが、神を拒む自由は豊かにあります。もし人間が神を信じる自由があるなら、それこそやはりキリストは必要ないです。そうそのように、セツの子孫は、聖人の家系などということではなく、やはり罪びとの系図なのです。そして、もちろん、その中で、エノクだけが、神に喜ばれる信仰者だったのだということでもないでしょう。エノクのような信仰者の家族は他にもいたと思われます。エノクがこの恵みにあずかったのは、エノクがどうこう以上に、神の特別な恵みと選びであったということです。ここで言いたいのは、そのいのちと救いを与える、平安な信仰という賜物は、そのようにみ言葉を通してこそ来るということです。み言葉を通してこそ、み言葉を口で伝える人がいて、そこに聖霊が働いていたからこそ、エノクはそこにある神の恵みを受け入れました。エノクが突然、移された後も、エノクの他に、口で、その人間の堕落や、神の恵み、エノクの信仰の証しを伝えるものがいたらこそ、その後も、神によ喜ばれる信仰は、人の口を通してのみ言葉を通して、伝えられて行った。それを聞くもので、そのまま受け取るものには信仰は受け継がれて行った。信仰はそのように、人から来るのでも出なければ、人が自分で獲得するのでもない、み言葉とそこに働く聖霊によって来るのです。それは、当時は、口で伝えられ、神の時に、ノアのように、直接、語りかけもあったかもしれませんし、ルターの時代や現代のように、この文字で書かれた聖書を通してと、形は違っても、どこまでも神のことばを通してなのです。神は同じように、今も、この聖書と人の口を介してその神の言葉を語っているのです。その招きは、空腹な私たちに準備された食事を食べるように、罪深い私たちに、罪の赦しと新しいいのちを受け取るように、そして何より自分に求めるように、求める時に報われると信じるようにと招いてくださっているのです。もちろん、だからこそ、それでも信じられない、受け取れないが、当たり前なのです。全ての人がそうです。しかし信じるのにも時があるのです。だからこそ、決して一度だけ語って、それで信じらなければもう終わりということでも決してない。事実、神は、頑なな心に何度でも語られる場面がいくつもあり、信仰はそのように、神の時に目が開かれ、導かれるようなものなのです。だからこそ、みことばはいつでも語れるし、毎週、礼拝でみ言葉が語られるのです。それは、罪深い、頑なな私たちのための、神の優しい語りかけ、教え、招きであることをぜひ覚えて、続けて神の声に聞いて行きたいです。

4.「系図が示す幸い」
 さて、エノクの子は、メトシェラ、メトシェラはレメク、そして息子、娘達を生みます。このレメクが、ノアを生むのです。レメクは、29節
「彼はその子をノアと名づけて言った。「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」
 と言いました。「この子は慰めを与えてくれるだろう」とありますが、ノアという名前は、ヘブル語「ヌアッハ」「安息する」という意味から由来しています。レメクのこの29節の言葉ば、前半「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが」という言葉は、3章の堕落の後に、神がアダムとエバに語った言葉を、彼が知っていることを意味していると同時に、後半部分は、3章15節で神が悪魔に語った「この女の子孫」の「彼」が悪魔の頭を砕くという約束のことを信じていたことを明らかにしています。このところから、アダムとエバは、セツに、神がアダムとエバに語った罪ゆえに苦しんで働くものになる、という神の言葉と同時に、堕落の出来事をしっかりと伝え、そして、神の約束、最初の福音をも、祈ることを始めた時から、しっかりと伝えてきたことがわかりますし、そのように神の言葉と恵みの約束こそが、信仰を子孫にも与え続け、養ってきたことの一つの証しがあると言えるでしょう。もちろんノアは約束の「彼」、メシアではありませんが、これから見て行きますが、洪水の前、多くの人はノアを通して伝えらえらえる神の言葉を信ぜず、洪水で滅びましたが、その信じ難かった神の言葉を受け入れた人々、家族でしたが、彼らには、ノアは慰めをもたらすために用いられることになります。そしてこのノア自身も、罪深い一人ですが、今日述べてきたように信仰の人としては、神の前にその信仰のゆえに喜ばれる「全き人」であると述べられると同時に、何より、この系図では、神が約束された「彼女の子孫の彼」へとつながる一人として、聖書は示しているです。系図は、このように、イエス・キリストを指し示していて、そこに生かされ用いられた一人一人を通しても、やがて来る「彼」、イエス・キリストが、今の私たちに指し示され、主の恵みと信じることの幸いを教えているのです。今日も、指し示されているイエスキリストを見て、そのイエス様がみ言葉を通して語り、与え、差し出してくださっている、その救いの恵みを、そのまま受け取りましょう。その福音の力と平安によってこそ、私たちが真に、隣人へ仕えていくように用いられて行くのです。感謝して受け取りましょう。




<創世記 5章22〜32節>
22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。
23 エノクの一生は三百六十五年であった。
24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
25 メトシェラは百八十七年生きて、レメクを生んだ。
26 メトシェラはレメクを生んで後、七百八十二年生き、息子、娘たちを生んだ。
27 メトシェラの一生は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。
28 レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。
29 彼はその子をノアと名づけて言った。「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」
30 レメクはノアを生んで後、五百九十五年生き、息子、娘たちを生んだ。
31 レメクの一生は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。
32 ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。