2021年2月7日


「神とともに歩む恵み」
創世記 5章全(1〜32節
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1.「はじめに」

 5章の系図の記述は、単調で、何の意味があるのか、と思われる方もおられることでしょう。しかし聖書に書かれていることの中で、何の意味があるのか、これは無駄ではないのか、意味がないのではないのか、と人の側で思えるところでも、神の側では意味があるし、一切、無駄なところはありません。そのことを踏まえて今日のところも見て行きたいのですが。こう始まっています。


2.「約束は変わることがない」

「これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、」1節

 「アダムの歴史の記録」とあるように、1節からアダムの子孫の系図が紹介されて行き、32節、ノアの子供達の誕生まで記されています。ここでモーセは、創造の記録、特に人が創造されて神の似姿として創造されてと、改めて記し始め、

「男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。」2節

 と、男と女の創造。そして創造の時の祝福のことを記して行きます。しかし堕落のことはここで省略されています。もちろん、先週まで見て来ましたように、全ての人間は、アダムとエバの子孫として、彼らの堕落と罪の影響を受けており、しかも部分的に堕落したとか、少しは良いところが残っているとかではなく、神が創造した本来の人間性が失われ、全く腐敗し堕落した罪人として人は皆、生まれて来ます。しかし同時に、創造の時、主は、祝福の存在として、人類を創造している神の事実とみ旨は変わらないのであり、その全き堕落からの完全な回復のため、そしてその主の創造の御旨である祝福を恵みによって受け継いでいくためにも、神は堕落のアダムとエバの子孫から、悪魔の頭を砕いて悪魔を滅ぼし勝利し、祝福が実現していくことも約束していました。堕落の絶望にありながら、創造も世界も主の支配にあり、主にとっては人間には計り知れない大きな計画があり、その祝福の計画と約束も決して揺るがないことを新たに述べられていくのが、1、2節なのです。ちなみに2節で「人と呼ばれた」とありますが、ヘブル語では、「アダム」になり、アダムは全ての人類を表すために神から与えられた名前であったのです。


3.「アダムの系図」

「アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。」3〜5節

 ここではカインとアベルはもはや述べられていません。それは、彼らが、これまでも見て来ました、ずっと鍵となる約束であった、3章15節の「彼女の子孫の彼」の系図、つまり、イエス・キリストにつながる系図ではないからです。聖書はどこまでもその約束の彼であるイエス・キリストを指し示す書であるからです。その系図は、5章では、その終わりに、ノアへと続いて行くものとして述べて行くことがモーセのここでの意図になります。アダムが130歳の時に、エバはセツを産みました。そしてアダムは800歳になるまでに、セツ以外の息子と娘たちも持つことになりました。聖書では系図で名を付して述べられる息子については必ずしも父の最初の子供とかである必要はないので、確かに4節でセツを生んだ後で、息子、娘たちを持ったのでしょうけれども、4章17節の追放されたカインの妻の記述に関連するように、カインとアベルの他に、セツより前にも息子た娘たちがいた可能性もないとは言えませんが、そのようにはっきりと書かれていないこと、わからないことはわからないままにしておきましょう。そしてアダムは結局、930年生きて死にます。この人生の長さについては旧約聖書の先祖たちにはよく見られ、そこにはこの書が書かれた時の年月の時間の数え方がどのように理解されていたのか等について、様々な仮説や議論もあるようです。もちろん今の寿命などを考えると、信じがたい年齢にはなるのですが、私たちの理解も説明も超えていることです。環境は違うので長生きはしたとは思われますが、これも文字通りのこととはしつつも、わからないことはそのままにしておきましょう。アダムの名前が記されている息子、セツも、6節以下にある通り、150歳の時に、その妻ですが、エノシュを産みます。さらにセツは807年までの間にさらなる息子や娘たちをもうけ、セツもまた912年生きて死にました。そして、その後、エノシュの子は、9節、ケナン、ケナンの子は、マハラルエル。マハラルエルの子はエルデ。エルデの子は、18節、エノクです。エノクは、メトシェラをもうけますが、エノクについては、系図の他に、注目すべき記録が書かれています。


4.「神とともに歩んだ」

「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。」22節

 300年、「神とともに歩んだ」とあります。この言葉は、聖書では、ノアのところで使われています。6章9節ですが

「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」出エジプト6章9節

 とあります。このエノクとノア「神とともに歩んだ」と言うのは、これら二人の人に対して示されている、神からの特別な恵みの中での親密な関係を表していると言われています。さらにエノクにあっては24節ではこうもあります。

「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」24節

 後半は特に気になるところかもしれません。神がエノクを取り、エノクは居なくなったと言う記録です。この「取る」は、創世記2章で神がアダムを取って楽園に置かれるところでも記されていました。そこではアダムが意思をして動いて移動したと言うことではなく、神の一方的な御旨、ご計画、ご意志によってそのことをされた恵みの出来事でした。ここでも「神が彼を取られた」とある通りです。ですからエノクが意図せず、計画もせず、彼の力でもなく、エノクは神によって突然取られ、そして地上からいなくなった、つまり神のみ国へと移されたと言うことだと理解されるのです。


A,「私たちと無関係な記録ではない」

 みなさん。エノクの生涯は、ある意味、特別であるのかもしれません。私たちには起こりえない、無関係のようにも映るでしょう。しかし、ここに記されていることは、私たちが今、受けている救いの恵みでもありますね。まず、神は私たちと、ともに歩まれている方です。救い主の誕生の約束はどうであったでしょう。御使いは約束の成就としてヨセフに伝えたでしょう。

「「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」マタイ1章23節。

 それは、イザヤ書7章14節で神によって約束されていたことの成就でもありました。その神からの救い主の名前とそこにある約束は「神は私たちとともにおられる」ということがすでに約束されていたのでした。そして事実、イエスご自身がご自身の霊である聖霊を与える約束の時、こう言っています。ヨハネ14章16節

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」

 助け主はいつまでもともにおられると。ともにおられるために聖霊は与えられるのだと。そしてマタイ28章20節。

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」ー私たちは皆、生まれながらに罪人として生まれてきます。人の前では、いい人かもしれません。間違ったこともしていないかもしれません。立派かもしれません。もちろん、そうではないと言う人もいることでしょう。しかし何れにしても、神の前では、私たちは、誰も、自分は完全に正しいし、神の求めにも完全に従っている、神の前に義である。罪は行いでも心でも、一切ないと、言い切ることができる人はいません。クリスチャンと言えどもそうです。神の命令である、神も隣人も、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし愛しなさい。それを人の前ではできていると言えたとしても、神の前で、自分は完全にできると言える人は誰もいません。そして何より、自らではその罪をどうすることもできません。しかし私たちの聖書が伝えることは、そんな全ての罪人のためにこそ、イエスはこの約束を与えてくださり、どんな罪人であっても、イエスが「受けなさい」と差し出してくださっている、その救いをそのまま受け取る人には、つまり恵みの洗礼をそのまま受ける人は、必ずその約束の通りに聖霊が与えられるということです。そうでしょう。クリスチャンはそのことこそ証しできるでしょう。そうそうであるなら、私たちは、まさに「神とともに歩むもの」であると言えるのではないでしょうか?その確信がありますか?もしその救いも洗礼も、そして信じる信仰さえも、神が恵みとして与えてくださったものではなく、人の側のなんらかの働きや貢献や努力があったんだと言うなら、ここでそう問われても確信が持てません。「自分は神とともに歩んでいるだろうか?」と平安がありません。救いの根拠がイエスではなく自分や人においているからです。しかしいま私たちは、イエス・キリストの恵みによって、信仰を、救いを、聖霊を与えらえていることこそ告白しています。そうであるなら、いや、そうであり、それのみが福音が伝える事実なのですから、私たちは安心して、私たちも神とともに歩んでいるものであると言えるのではありませんか? エノクは、決して私たちと無関係な高尚な人ということではありません。彼はこのように神とともに歩んだ、特別な人なんだから、おそらく罪はなかったんだ。罪を犯さなかったから、こういう恵みを受けたんだと、人は勝手に思ってしまいます。しかしエノクも、アダムとエバの子孫です。一人の罪人であったのです。少しはいいところが残っていた、ではなく、完全に堕落した罪人です。ですから彼は、自分で神を見出し、神に働きかけ、自分の意思と力で「神とともに歩んだ」ということではないのです。それは不可能です。なぜなら人類は、神とは断絶され、楽園の前には、ケルビムが守っています。そう神からの恵みがなければ、誰も神とともに歩むことは決してできないのです。私たちと同じようにです。しかしその「神とともに歩む」という同じ恵みを、私たちはいま与っているでしょう?それは、恵みとして与えられたこと、差し出されたことを、受けただけです。


B,「誰でもその恵みを受けることができる」

 ですから誰でもそれを受けることができます。「信じなさい」という言葉は確かに聖書にあるけれども、その信仰の招きは、律法なのか、福音なのか、私たちの意思の一歩、努力なのか、それとも、賜物、神の恵みなのか。どう思いますか?人間は罪の性質ゆえに、すぐに律法と考えますが、そうではありません。少なくともルーテル教会、このルーテル同胞教会でもそうですから安心してください。なぜ私たちはそう信じるのかというと、事実、聖書はこう書いているからです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エペソ2章8〜9節

 その通りなのです。ですから、以前紹介しましたワルターという牧師は言っています。「信じなさい」それは、食事に招待した人が、食事の準備が全て整ったときに、空腹な招待者に「さあ、来て席について食べましょう」と言っていることなんだと。その時に、それでも食べないで拒む、空腹な招待者はいないでしょう。ただその声に応えて、席について食べるだけです。それが「信じなさい」の意味です。恵みなのです。イエスの命の食卓は、全ての人のために全て整えられて、誰でも答えて席について食べるなら、命はその人のものになるのです。どんな罪人でもです。そして福音の糧を食べて、福音と精霊の力を持つからこそ、新しく従って行くことことと良い行いや隣人愛へと、喜びと平安のうちに促され用いられて行くのです。良い行いも恵みなのです。ですから誰でも神とともに歩むように今や、招かれているし、イエスから差し出されている手をそのまま取るなら、誰でもともに歩むのです。それはイエス・キリストを通して見るなら、このところは幸いな恵みであると見えてきます。


C,「神が取られ、いなくなった」

 そして「神が取られ、いなくなった」もそれと同じです。エノクが何かをした、何か条件をクリアして、自ら天に至ったという出来事ではありません。エノクの側では、いつとかどんな時とかわからず、神が取られ、いなくなり、天のみ国に置かれたのでした。でも皆さん、神とともに歩む者の生涯は、このようなものです。いつとかどんな時とかわかりませんが、しかし神はその時を知っており、神が取られ、そして私たちが神に取られた後に、置かれる所も、ともに歩むものにはきちんと決まっているということです。私たちにはいつとかどんな時とかわかりません。それはもちろん不安かもしれませんが、しかし、神はちょうど良い時までその生涯をともに歩み、神が定めその時の後、私たちには置かれるべきところはもう決まっているということは希望です。それは天の神のみ国だからです。だからこそいつとかどんな時とか、自分が今直ぐに知りたい欲求で、目先のことだけを見るなら、不安だけになり右往左往するだけですが、約束と神の恵みの完全さとそこにある神の愛をみるなら、不安は希望に変わるのです。それが神ともに歩むということです。神とともに歩むことの幸いです。その歩みこそ私たちが受けているものであり、誰でも受け取ることができるのです。幸いなことです。


5.「終わりに」

 さて、最後のノアまでいけませんでしたが、ここまでにしましょう。ノアに繋がり、やがて、それがイエス・キリストにつながる。系図は、無意味で、読む価値のないものではありません。聖書の言葉の中には、人の合理性の秤では無駄とか意味のないと思われる所や、感情の秤で、つまらない、感動がない、等々、いろいろ言えることがっても、神の側では何一つ無駄でも意味がないのではない。つまらないと思えるところにこそ、神のメッセージがある。神の約束の系図は、ここにこそ引かれ、その時を待っている。イエス・キリストの誕生を。そして今や、イエス・キリストの恵みのうちにある私たちは、今日も、イエスが準備し成し遂げてくださった、その食卓に私たちは招かれています。備えられている聖餐を感謝して受け取りましょう。聖餐は信じて受けるものですから、洗礼者が受け取るものですので、洗礼を受けておられない方は受け取れませんが、しかし神はあなたに信仰を賜物として与えようと今日もみ言葉を語ってくださっています。その洗礼の恵みの日が来るときに、ともに与る日が来ることを楽しみにしていますし、「信じなさい」はイエスによって招かれている救いの恵みですから、差し出されていると思う人は誰でも、ぜひそのまま受け取って、神とともに歩んでいきましょう。







<創世記 5章全(1〜32節)>

1 これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、

2 男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。

3 アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。

4 アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。

5 アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。

6 セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。

7 セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。

8 セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。

9 エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。

10 エノシュはケナンを生んで後、八百十五年生き、息子、娘たちを生んだ。

11 エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。

12 ケナンは七十年生きて、マハラルエルを生んだ。

13 ケナンはマハラルエルを生んで後、八百四十年生き、息子、娘たちを生んだ。

14 ケナンの一生は九百十年であった。こうして彼は死んだ。

15 マハラルエルは六十五年生きて、エレデを生んだ。

16 マハラルエルはエレデを生んで後、八百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。

17 マハラルエルの一生は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。

18 エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。

19 エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。

20 エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。

21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。

23 エノクの一生は三百六十五年であった。

24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

25 メトシェラは百八十七年生きて、レメクを生んだ。

26 メトシェラはレメクを生んで後、七百八十二年生き、息子、娘たちを生んだ。

27 メトシェラの一生は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。

28 レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。

29 彼はその子をノアと名づけて言った。「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」

30 レメクはノアを生んで後、五百九十五年生き、息子、娘たちを生んだ。

31 レメクの一生は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。

32 ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。