2021年1月31日


「人々は、主の御名によって祈ることを始めた」
創世記 4章26節
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1.「前回」
 前回は、神がアダムとエバに、もう一人の子、セツを与えてくださったところを見てきました。アダムとエバは、弟アベルは兄カインに殺され、カインは弟アベルを殺したことにより神によって追放され、愛する息子二人を一度に失いました。彼らは、確かに自分達の罪ゆえに堕落し、罪が入り、楽園を追放され、汗を流し苦しんで糧を得て、子供を生むようにはなりましたが、彼らにとって神が与えてくださったその息子は、神が、堕落の時に、蛇の姿を借りた悪魔に対して言った、「女の子孫である「彼」」がその悪魔の頭を砕く、というその約束の成就のようにも思え、罪ゆえに死にゆくものとなった二人にとって福音でもあり一つの希望でもありました。エバはカインが生まれた時に、その約束の「彼」をその通りに与えてくださったと思ってしまうほど喜んだのですが。しかしその二人が失われた。その時、エバは、神が約束した通りではない、目の前の現実に直面させられ失望しても当然のことでありました。しかし神はそんな悲しみと疑いと失望の二人に、もう一人の子を与えてくださいました。エバはその子に「約束の」という言葉から「セツ」という名前をつけ、「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから」と言ったのでした。エバは、かつて神が与えてくださった約束、福音を思い出してこの名をつけたと思うのですが、それは二人の子供を失い、神が約束した通りではなかったと失望させられるような現状に、再び、神の約束は絶たれることがないということを思い起こさせることになったことでしょう。そして事実、神はこのセツにこそその計画をたて、彼を「彼女の子孫の彼」、つまりイエス・キリストへの系図の子とされたのでした。そこから、人は目の前の目に見えることで全ての良し悪しを、神の良し悪しさえ判断するような罪深い存在なのですが、しかし神はそのような人の自己中心的な秤では決して図りきれない、むしろ人間が「ない」といい、疑い、失望し、絶望するような所に、神は約束の道を通し、希望の光を照らし、命の泉を溢れさせ、幸いな食卓を用意してくださる、そしてその通りにこられたイエスにこそ、そのことの全ては証しされているのだと、いうことを教えられたのでした。

2.「主の御名で祈ることを始めた」
「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。人々は主の御名によって祈ることを始めた。」26節

A,「アダムとエバの存在」
 ここに「人々は主の御名によって祈ることをはじめた」とあります。この言葉「主の御名によって」は、実際に、どのような名前なのかわかりません。なぜなら創世記を記したのはモーセですが、そのモーセ自体は、出エジプト記6章2〜3節でこう書いています。 神はモーセに告げて次のように言いっています。
「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。」出エジプト記6章2〜3節
 このように主ご自身は、モーセに、モーセにとっては先祖ですが、セツにとっては子孫である、アブラハム、イサク、ヤコブには、ご自身について「主」という名を知らせなかったと言っているのです。ですからセツとその子、エノシュがその時代から祈ることを始めた主の御名はどういう名のかと議論はあるようなのです。Lutheran Study Bibleの解説を見ると、この26節の言葉は、人々は、後に「主」という名前として示されることになるその神を、この時から礼拝することを始めたという意味と考えられるだろうと説明されています。どのような呼び名であるのかわかりませんが、セツとその子たちは、その神の存在も、神の名も、父アダムと母エバから教えられるのでなければ知り得ないことであったことでしょう。5章を見ていくと分かる通り、アダムは900年も生き、彼が300歳くらいの時に孫のエノシュが誕生しているので、この3世代が一緒に過ごした時期もあったことでしょうから、アダムとエバを含めてこの3世代が一緒に主の御名で祈り、つまり礼拝を行い始めたということも当然ありうるでしょう。何れにしても、セツは教えられなければその主の御名も祈ることをも礼拝することも知り得ないので、その礼拝を始めるようになったのは、やはりアダムとエバの教えや影響によるものであったと言えるでしょう。

B,「楽園と堕落の原体験者」
 アダムとエバは、堕落前、エデンの園で命を与えられ生きるものとなったので、当然ですが、堕落前の原体験をしています。その時には、祈らなくても神はいつでも必要なものを与えてくださり、その語りかける神の言葉で、行って良いことと悪いことを、直接的にその耳で聞きわかっていました。そしてその神の存在と、罪が入る前の神への疑いのない全き信頼からくる平安も経験していた二人でした。ですから彼らには神の存在自体はもう疑いえない事実であり、「存在を信じる」という意味ので信仰は堕落後も無くなることはなかったと言えるでしょう。しかし彼らは同時に、人間の堕落の原体験者でもあり、原因であり、そこに堕ちた時に何が起こり、神の言葉や愛や意図への疑いと、神の言葉を超えた自意識、等が自分に入ってきたことももはや忘れることはできませんし、その思いや心は、一度、染み付いたら、堕落前に自分で戻ることなど決してできません。そして彼らにはその後に神と相対し尋ねられ神に悔い改める機会がありながらも、結局はパートナーや蛇、そして何より神に責任転嫁するようになったのですから、自分の正しさに固執し譲れない、やはり自分が神となったかのような自己中心性からは、もはや自由ではなくなってもいたのでした。それが罪の深すぎる影響であり闇でした。

C,「白黒、0か100かで判断できない人間の現実」
 そのように、彼らが堕落後、楽園を追われた後に、彼らの信仰と不信仰さは、決して白黒ではないし、0か100でもなかったことでしょう。彼らにとっては、神の存在は疑いえないし、神の楽園での神と共にあった時の素晴らしさも経験した。しかし「同時に」、神への疑いや自分中心の罪深い心、そしてそこから来る罪深い行いに対しても、あまりにも弱い、無力な現実がまざまざとあったのでした。それは私達も同じです。信じていても、わかっていても、信じれない時もあれば、祈れない時もある。信仰もその信仰生活や行いも、いつでも黒か白か、0か100か、私達は人にはそのように信仰を当てはめ、要求しようとしますが、でも実際、自分を見つめるときに、やはり、私達は、信仰者ではあるけれども、同時に、どこまでも罪人でもある現実は疑いえません。それはルーテル教会の教理で言えば、私たちは、0か100ではなく、キリストにあっては100パーセント聖徒、クリスチャンであるけれども、「同時に」、100パーセント、肉と心にあっては、どこまでも罪人でもあるのです。疑いに溢れているとき、信じられないとき、祈れないときもある。そして罪を犯してしまう時もある。行いだけでなく心でも。み言葉から何が正しいか教えられても、認められない。受け入れられない。表向きや口ではいくらそうではないと立派なことは言えても、しかしクリスチャンなら、誰でも実際に経験している現実です。牧師でもです。自分は信仰においても行いにおいても、心の中においても、なんら罪もない100パーセント信仰者だと言える人がいるなら、それがたとえ牧師であっても神の前に偽っていることになります。堕落の影響を持って生まれてくる者は誰でも、たとえ信仰者であっても、そのように罪の心に大きな葛藤を覚えながら生きる、そしてそれに対しては、実に無力でもあり、そのように生きる存在であるのです。

D,「完全に堕落したのではなく、少しはいいところが残っていると考える間違え」
 アダムとエバもそうであったのです。彼らは罪が心に入り、堕落し楽園を追われました。しかしその後の生活は、彼は神の原体験者で神と実際話をしたのだから、何かちょっとした何か失ったくらいの信仰で、まだ良いものももたくさん残っていて、数パーセント欠けているが、ほぼ完全に近いような信仰や行いや礼拝であった、カインはそこから罪ゆえに大幅にずれてしまっただけなんだ、というのは、それこそ堕落を軽く見て、現代の数値やパーセントで信仰を図ってしまってしまう間違った見方です。忘れてはいけないのは、アダムとエバは、決して軽くはない悪魔の巧妙な誘惑を直接受けた体験者でもあり、堕ちて、初めて神の言葉に背いた張本人でもあります。そしてそれまでの神の平安を捨ててまでも、その疑いと自分が神のようになれるの思いに身を任せても、その慕わしく思えた実を取って食べた、そして神に背いて自分が神になったように、誰からも命令されず、自分の欲求と感情のままに行動する、そこにあるまさに罪深き肉のひと時の快感の最初の体験者でもあるでしょう。その思いが強くあるからこそ、彼らはすぐに神に立ち帰れませんでした。だから責任転嫁もしたのです。神の存在は信じていてはいてもです。神のすばらしい平安を事実体験して知っていても、それでもそれを捨てて、悪魔の言葉と禁断の木の実を選んだのですから、決して堕落は軽くはないですし、アダムとエバの堕落の出来事は、少し何かを失って良いものはまだ少し残っているんだという軽いものでは決してないのです。むしろ彼らはまさに堕落によって完全に堕落し、罪の縄目に縛られた罪の奴隷になったのです。神の存在を信じ、その素晴らしい体験の記憶があってもです。ですから、彼らの追放後の生活は、長い寿命以外は、何か私たちよりもはるかに優れたものであったというのではありません。最初のカインが与えられたときに、確かに、主の「彼女の子孫の彼」の約束が実現したかのように、カインを見、そこに彼女の信仰を見つつも、しかし同時に、罪深いアダムとエバのまま、まさに神に問われ、隠れ、言い訳をし、責任転嫁をしたままの、そしてなおも疑いや、神のようになれるや、神のみ旨を超えて行こうとする、過剰な自意識的な欲求から自由ではない彼らでもあるのです。

E,「私たちと変わらない不完全で罪深い家族」
 確かにアダムとエバは、カインとアベルに神の存在を教えてはいたでしょう。だからこそカインとアベルは神の存在を知り、神に収穫の感謝の捧げ物を持ってきました。二人にも神の存在への信仰はあったのです。しかしヘブル書で信仰の人として書かれているのはアベルであり、そのアベルの信仰は、自分が神の前に罪深い存在であることを認めるへりくだった悔いた心でした。アダムとエバは二人にその神の存在を語って、そして自分の楽園での堕落の出来事を語ったかどうかわかりませんが、両親から神の存在の教えを受けて、カインには罪深さを悔いた謙った信仰はなく、アベルにはその信仰がありました。アダムとエバは、どこまで何をどのように教えたのかわかりませんが、教える方も罪人であれば、聞く息子たちも罪人です。その教えられた時に神の存在と自分の存在を考えさせらる中で、自分の罪を気づくのか気づかないのか、どう捉えるのか、カインのようになるものもいれば、アベルのように謙った心になる者もいます。その親子でどんなことがあったのかはわかりませんが、しかし言えるのはそれは私達と変わらない営みでもあり、決して、ちょっと堕落し創造の良いものがたくさん残っていた、理想に近い家族と教育であったということではなく、彼らは私達と変わらない罪深い親でもあれば罪深い子供でもあったということです。もちろん家族愛もあったことでしょう。しかし一人一人、不完全な存在、堕落の罪人であり、そこでは自己中心さゆえに隠すこともあれば偽ることもあり、意見の相違もあれば不和もあった。実際、妬みがあり、殺人があった。はじめの家族も罪深い家族であったという私達と変わらない事実なのです。堕落は限定的で人間には少しでも良いところが残っているという堕落観を教える教えもありますが、それだと罪人の現実やこの罪深い家族の現実を見誤り、むしろクリスチャンがそのわずかに残されている良いもので努力で達成する理想的な家族という律法で、クリスチャンに重荷を負わせることになることでしょう。

F,「主の御名で祈ることは、なぜ始まったのか」
 その罪深い家族に起こった悲劇と絶望の中で、神はアダムとエバにもう一人の子を与えてくださいました。セツです。そのセツが最初の子エノシュを産んだ。アダムとエバが罪人の夫婦の生涯であるなら、それは間違いなく、常に自分の罪深さに気付かされる生涯であり、同時に神の恵みと憐れみをも気づかされる生涯でもあったでしょう。彼らが喜びと希望を持って育てたカインとアベルでしたが、カインは弟アベルを殺し追放され、アダムとエバは二人を失いました。悲しみと失望。先週触れたように、神の約束の通りではない現実です。しかしその現実の中で、もう一つのことを二人は気づかされることでしょう。それは自分の息子に、まさに罪が受け継がれている現実です。自分勝手に、自分の正義で、妬み、弟を殺したその現実は、まさにかつて自分勝手な正義で、神のようになれると神に背いた、自分達、彼らを生んだ親の性質から出たものです。どのように教育してきたにせよ、その圧倒的な事実は、罪の計り知れない深刻さとそれを言い訳と責任転嫁で逃れてきた自分を照らし出したことでしょう。そんな子を失った悲しみと絶望、そして罪への後悔と悲しみが彼らにはあったことでしょう。しかしその時、皆さんはどうするでしょう。祈るでしょう?。神に「憐れんでください」と。そう、二人は、祈ったのではないでしょうか?もちろんここには書いていません。神は祈る祈らないにかかわらず、そのみ旨と計画を果たすためにセツを与えたことでしょう。そのセツの誕生もまた、先週述べた通りに絶望の中に通された神の希望の道でした。そのことを大きな驚きを持って、神の憐れみと恵みを思い起こさせられたのは、ほかでもないアダムとエバであったことでしょう。これらのことが、今日のところ、祈り始めた。礼拝を始めたことに関わっています。このところは確かにセツの時代から祈り始めたかのようにも思えますが、しかし「人々は主の御名によって祈ることを始めた」とあります。「セツは」とも「エノシュは」とも書いていません。「人々は」です。アダムとエバもまだ生きていた時代で一緒に過ごしていた時代です。セツとエノシュに神のことを教えたは紛れもなくアダムとエバですが、アダムとエバは、カインとアベルへ教えた時とは違う、むしろ神からの試練による訓練によって信仰的に成長させらた恵みをセツとエノジュに教えることができたことでしょう。罪の結果と悲劇、そして罪の後悔と悔い改め、祈り求めること、神に憐れみを求め、より頼むこと、その幸いをです。そこにどのような名前をアダムとエバが教えたかわかりませんが、「人々が主の御名によって祈ることを始めた」の意味があるのです。

3.「祈りと礼拝はどこから生まれ始まるのか?」
 祈りも礼拝も、そのように、人の側が思い立って、律法的に初めたのでは決してない。神が絶望という試練の教室を通して、自分の罪深さに気づかせ、主に求めさせるように導き、そして、どこまでも主の憐れみを現してくださる。荒野に泉をわかせ、死の陰の谷に希望の道を通してくださる。その神が私達の思いや理解や行いをはるかに超えたところで、一方的にしてくださる神の恵み、つまり福音を教えられ福音に促されるからこそ、人々が主の御名によって祈ること、礼拝がある、始まっていることを教えられます。罪を気づかされ、悔い改めさせられるなら幸いです。神の国の礼拝、礼拝者のあゆみ。クリスチャンの幸いは、そこにこそ受けるように招かれ、受ける十字架と復活の福音から始まるからです。今日もイエスはそのことを罪深い私達に語ってくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひそのまま受け取り、安心してここから出て行きましょう。




<創世記 4章26節>
セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。