2021年1月24日


「神は私にもう一人の子を」
創世記 4章25節
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1.「前回」
 神からの言葉の後、去っていったカインのその子孫。カインの子孫は町を作ったり、あるいは、遊牧の民となったり、鍛冶屋や楽器を奏でる民の始めとなったりと、ある意味、文化的な発展の始めではあったようでした。その子孫のレメクから少し教えらました。レメクは、神が決して結婚や家族についての創造の秩序とはしていなかった、二人の妻をめとったりしました。レメクの先祖であるカインの罪、自体も、まさにその父と母、アダムとエバが、罪のはじめとして、神の言葉を信じないようになり、神に背を向け、むしろ、その「神のようになれる」という誘惑の言葉の通りに、自分中心の価値観や正義で、自分が神になったかのようになっていった、その罪の影響でしたが、前回は、その罪が、アダムとエバからカインに遺伝したように、カインからその子孫達、そしてレメクにも罪の性質は受け継がれている現実を教えられたのでした。むしろ、罪を悔い改めず、そして、子孫に、人間はどこまでも神の前に罪深いものであるということを教えていかないときに、人間は、ますます自分が神になったかのように錯覚して行き、罪はどんどん連鎖していき、受け継がれて行きます。レメクが二人の妻をめとったのも、神の創造の秩序と御旨からどんどん遠のいて行き、そして神の言葉よりも、自分の価値観で都合よく結婚や家族を捉えて文化や伝統として正当化していった結果であったでしょう。そして何よりレメクに受け継がれていったのは、カインと同じように自分の正義で人の命を容易に絶ってしまったということでした。レメクは自身が一族の誰からか打ち傷を受けたことに、彼は復讐を正当化して一人の若者を制裁的に殺しました。そして二人の妻にはそれを機に、「カインに七倍」という神からカインへの約束を自分に都合よく解釈し、「レメクには七十七倍」と告げて神の約束を巧みに利用し、恐怖で人を支配するような言葉を放ったのでした。人間の罪はそのように連鎖し自らでは断ち切ることはできず、それが地上に悲劇を生み、やがてノアの洪水での滅びに繋がっていった、それは人間の罪の避けられない報い、裁きと死を示していたのでした。しかし神はその自らではその罪の連鎖とそこにある絶望に対して何もできない人間に福音を与えていました。3章15節、女の子孫である、彼が悪魔の頭を砕くのだと。このようにカインの歴史には人間の絶望感がありますが、神はその約束を決して忘れてはいないことが今日のところには見ることができるのです。

2.「二人の子を失った現実に直面した時」
「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」25節
 カインの記録のところでは、アダムとエバ、そしてカインとアベル以外の人々のことが書かれていました。それは詳しいことが書かれていないので、どのような存在なのかわかりません。アダムとエバの別の子供達と子孫なのか、あるいは全く人の知らない、創世記を記したモーセにもわからない、神が人類を地上においた出来事があったのかどうかも、わかりません。聖書で書かれていないことは、わからないままにしておくということが神を神とする信仰であるとしてそのままにはしてあるのですが、しかしそのアダムとエバの系図、エバの子孫から、「約束の彼」が生まれるという神様の約束は、アダムとエバにとっての希望でもあり、エバはカインを出産した時に、その約束の彼が生まれ神がその約束の彼を与えてくださったと思ったほどでした。しかしそのカインはその約束の彼ではなかった。そしてその弟アベルは、ヘブル11章で証しされている通り、信仰の人であったけれども、彼はカインによって殺されました。もしカインとアベルの他に、その後の子がまだいなかった場合に、アダムとエバの二人は、神は「女の子孫から」と約束したものの、その自分の子を、続けざまに二人も失ってしまったその時、どう思ったでしょうか。神が与えてくださった、その「約束の子孫」「彼」への希望が失われてもおかしくないことでしょう。

3.「約束の通りではないと思える目に見える現実を前に」

A,「神の言葉ではなく、目に見えるもので判断する性質」
 人間は目に見えるもので、勝手に未来を推察して決定しやすく、神や神のなさること与えることについても目に見えるもので判断しやすいです。それはまさにアダムとエバが悪魔によって目に見えるもので巧みに誘惑された時から目覚めたことであり、その代わり、神のみことばとそのみ言葉に信頼することから湧き上がる未来への希望ではもはやなくなりました。そして神の言葉ではない、目の前に見える美しさや慕わしさや偽りの未来の約束によって、彼らは自分勝手な期待やゴールを思い描いたからこそ、神が約束したものとは違う、禁じられた実を食べるということを実行しました。まさに目に見えるものへの信仰であり、目に見えるもので自分勝手な正義で全ての良し悪しを判断する生き方です。それはカインも同じ、レメクも同じです。自分の罪深さを認めて悔い改めるというのは人間のプライドが許さない、見たくない、目を閉ざしたい、蓋をしたい現実です。彼らは本当は見なければいけない見えない神を都合よく見ないで、逆に自分の都合の良い目の前の物事だけを見て実行に移しました。カインは自分のプライドを傷つけた神に怒り、妬みの対象であるアベルを殺しました。神に問われた時も、自分の罪を認めず神のせいにして責任転嫁しました。レメクも神の言葉や御旨など目を留めず、目の前の家族の平和でも、未来の希望のために怒りを抑え自分に打ち傷をつけたものを赦すのでもなく、感情と自分の正義のままに復讐と制裁として一人の若者の命を絶ちました。そして家族を恐怖で支配しようとしました。彼らにとってはまさに合理的な手段であり、目先の目に見える物事と自分の利益とメンツや自己実現のための行動でした。それが罪ゆえの人間の判断基準であり、罪ゆえに人は信仰で神のみえない計り知れない約束に希望を抱くのではなく、目先の物事で神をはかり、目に見えて期待通りであれば神を賛美し、逆に目に見えて期待通りでなければ神のせいにしたり神に怒ったり、それを人のせいにしたり人にぶつけたりもする。つまり自分が神のようになった。自分が中心、自分が神なのです。人の信仰はそんな御都合主義的な信仰や神観だったりするものなのです。それはまさしく自己中心の根である、罪の影響に他なりません。

B,「神は希望のないと思われるところに道を開かれる」
 どうでしょう、同じように、目先の、目の前の現実を見れば、アダムとエバにとっては、カインを失いアベルが死んだ時、神の「約束の子孫」の「彼」の希望の約束は絶たれています。一度に二人を失いました。どこに「女の子孫」の希望が持てるでしょうか。そのように、目先の、目の前に見える現象だけで見るなら、誰でも神の約束は決してならない、神の約束は嘘である、かのように判断したくなる状況ではありませんか。しかし、神は本当に不思議な方です。神はそのように人間が予測できるような先、期待しやすい思い描きやすい先に、その約束を実現され私たちに約束のものを与えるのではなく、むしろ人間が思いもしない、期待通りではない、むしろあり得ないと、絶望的に思えるところにこそ、神は道を開かれるお方なのではないでしょうか。神はアダムとエバに、もう一人の男の子を与えます。エバはその子にセツという名を与えます。セツはシェッツとも呼び、ヘブル語、シャアツ、訳すと「約束の」という言葉から来ていると言われています。エバは、セツを産んだ時に、
「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
 と言いました。エバはその時、神の約束のことを思い出した、あるいは、決して忘れてはいなかったのかもしれません。カインとアベルを失い望みが絶たれたように思われる状況ですが、神はもう一人の子を授けてくださった。アベルの代わりに。もちろんそれはエバは、セツの家系が未来にどうなっていくのか、はっきりとわかっていてその名をつけたわけではなく、カインに名をつけた時のように、神の約束を覚えての彼女の信仰としてセツを見ていたことでしょう。人間には未来もまして神のなさることも計り知れません。しかし神のなさることは実に不思議で、神はそのように人の目には約束が断たれたかのようなところにこそ、約束の実現の道筋を通されるのです。このセツこそ神が約束した「彼女の子孫である」「彼」、イエス様が生まれるまでの、系図の子であったのでした。

C,「人中心に神や神の国を判断する(栄光の神学者)」
 みなさん。ここに私たちは教えられます。神のない今の世の中の世界基準は、人間の計算や期待や大多数の価値観が基準となって全てが判断され全てを動かそうとするでしょう。神を掲げる国や政党でさえその傾向は顕著です。しかもものすごく目先の利益だけで人は判断し、その判断に従おう従わせようとします。そこに理性とか主義主張。あるいは一致とか発展とか、様々、名目や目的が掲げられても、その動機づけは基本、皆同じです。教会にさえあります。そこには神も神の言葉もなく、あっても2番目も3番目です。結局は、人間の目に見える事柄に基づいた人間の判断が動機にもなれば、律法にもなっているでしょう。そしてそのようにして動かして行くことが、合理的で理にかなっており、実現可能で、人も動かせそうに思えるし、正義にさえ思えるものです。もちろん、神のない世の中、人の前ではそれはそれでいいでしょうし、それで事実、動いて行き、利益も産み、カインの家系がそうであったように文化、技術も発展します。もちろん良いか悪いかは別としてですが。人の前でではそれでいいで寿司神の許可のもとにそれは日々起こり用いられもするでしょう。しかし神の前と神の国のことでは全く別です。救いや信仰の歩み、神の国のための、神の御旨や計画は、人間のそのような期待や計画の枠に決してはまらない。むしろ逆説的でさえあるでしょう。

4.「「神中心に神と神の国をみる(十字架の神学者)」
 このように人間の側ではどこに約束の子孫がと思われるような現実にこそ、神はその約束の「彼」の道を開いています。アダムとエバも思いもしないところにです。二人の子を失った時、その道は、状況だけを見るなら希望にも信仰にも映らなかったことでしょう。しかし神はセツを与えました。そしてエバは、その時、もちろん本当に彼が「約束の子」になるとわかっていたわけではありません。しかしそれでもアベルの代わりに与えられたその子に「約束の」という「セツ」という名をなぜつけたのかといえば、それは、その時は、実現しないかのように思われたもはや遥か昔の出来事であったかもしれない、あの神の約束「彼女の子孫の彼」という神の言葉を信じればこそでしょう。このように約束の通りになりそうもない現実があっても、それでも神の言葉を信じるその信仰こそ、人には真の希望を生み、神は人のための未来の計り知れない神の約束の実現に、真に繋げて動いていく。そのことがここには現れています。そうではなく「アダムとエバが、期待し計画し、崇高な理想を掲げて、その通りに協力して実現して達成して行って、彼らがみ言葉を、祝福を、計画通りに実現していった、その通りになっていった、だから祝福である、だから神の言葉である。」という信仰であるなら、何か順序が逆さまになっているし、まさに神や神の言葉は2番目か3番目、人間の計画に神の言葉を従わせていて、人間が神のために全てを実現するかのようにです。恵みだ、恵みだと、叫んでいながら、恵みを律法にしてしまっているという、大きな矛盾になってしまいます。しかしそれでは、その神の約束、人間がありえないと思える絶望の現実にこそ、通される約束の系図、約束の実現、そこにあるみ言葉にある真の希望は決して見えませんし、誰に見せることできません。思い出してください。イエスは誰にも知られず、どうしてこのような方法で、このようなところに、このような時にと、人間の目、人間の価値観、常識、目の前の貧しいありえない現実ばかりで、人間が躓くようなところにこそ神のみ旨として生まれたでしょう。誰が思いましたか、誰が計画し予測できたでしょう。しかし福音として私たちに指し示しされている救い主は、誰も思いもしない、計画もしない、期待もしない、貧しい寂しい、世にとっては敗北の、家畜小屋の飼い葉桶の上ではありませんか。人の思い描くような敷かれたレール、人間の計画通り期待通りの繁栄と祝福の先に生まれたのではありませんでした。そのような世の中の価値観で、最初にヘロデの王宮を訪れた東の博士は宮殿では救い主に会えませんでした。人間の理性や自分基準の期待や願望、主義主張に神を従わせ、人を従わせようとする信仰では、救い主の恵みに出会えないし、出会わせることもできないのです。そしてイエスの生涯もそのことが貫かれていますが、何よりこの十字架はそのことを指し示しているでしょう。多くの世の、人間的な目先の繁栄や計画や期待で、メシヤを待っていた人々はイエスの十字架につまずきました。しかしその人間が目を背け、つまずく、十字架にこそ、神の御旨は表され、神は「そこにこそ、あなたの罪の赦しはあり、そこにこそ、あなたの本当の平安、世が与える事のできないイエスだけが与える事のできる、天からの平安があるのだ」と、この十字架を指し示しているでしょう。そのように私たちにも、世が思いもしない失望のところにこそ、「彼女の子孫」である「彼」の道、実現は証しされ、そこに道は開かれ通されていることを私たちは見失ってはいけません。通るべき道は、そのようなキリストとその十字架にこそ通っている道です。人間がその期待通り、願い通り、計画した通りの道を、私たちが頑張って実現する先にあるのでは決してありません。それだと世の中の組織と同じようではあることができるかもしれませんが、それは決して神の教会ではありません。私たちのルーテル同胞教会が告白している、教憲教規の上に位置し、私たちの教会が聖書の何を信じるかの告白である、アウグスブルク信仰告白にはきちんと書かれています。教会とは、聖徒の会衆(congregatio)であって、そこで、福音が純粋に教えられ聖礼典が福音に従って正しく執行せられる」場、それが教会とは何かであり、教会の真の一致は、福音の教理と聖礼典の執行に関する一致だと。

5.「おわりに」
 キリストとその十字架、その十字架の言葉であるイエスの福音こそ、世にとっては、愚かで躓きであっても、救いを受ける私たちにとっては、永久の神の力です。それこそ私たちの平安。私たちを本当に遣わし、良い行いをさせ、奉仕をさせ、祈りをさせ、隣り人をを愛させる、真の力、真の動機、それ以外にはありません。それ以外で、平安を得ようとしてもありません。それ以外で遣わし、良い行いをさせ、奉仕させ、隣人を愛させようとしても、それは、律法で人を制する、レメクであり、現在の国家と同じです。単なる世の組織のための神が許可している必要悪と同じレベルです。国家や社会はそれでいい。しかし神の国は違います。私たちは何よって救われ、何によって、生きるのか、何によって遣わされるのか、それは初めから終わりまで変わらない。そしてそれこそ、イエス・キリストとその福音に明らかされ、クリスチャンとして召されてる私たちに常に指し示されている御旨です。今日もイエスは、聖書の言葉の通りに、私たちに言ってくださっているのです。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい。」と。空腹な私たちを今日も招いてくださって、さあ食べなさいと、福音を差し出してくださっているのですから、そのまま福音を受け取りましょう。そして福音によって安心して、ここから遣わされていきましょう。




<創世記 4章25節>
アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」