2021年1月10日


「罪人のための義と憐れみの神」
創世記 4章13〜16節
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1.「前回」
前回は、カインが自分の捧げた生贄を神に受け入れられないことへの神への怒りに対する神の語りかけから始まっていました。神はカインに、神はその心を見られ、神の前にへりくだった信仰によってささげたのであれば受け入れられるが、そうでない場合は、もう罪がその人を攻撃するために待っているのだから、その罪深い心を今すぐに悔い改め治めるようにと言います。しかしカインは治めることができません。その神への怒りを、嫉妬の対象であるアベルへと転嫁しアベルを殺してしまいます。カインのその心はそこにまざまざと現れていて、カインは自分を神の前に罪人であることを認めるどころか、むしろ、自分の献げ物を受け入れず、アベルと比べて自分を蔑んだ神が悪いんだと言わんばかりに、「アベルはどこへいるのか」と問う神に対して、カインは嘘をつき「知りません。私は自分の弟の番人なのか」と答えたのでした。そのところからカインは罪人であるアダムとエバの子、罪人である人間を表し、神よりも自分を中心とし、自分の正義や他者との比較で、神の義をはかり、自分の正義で人にも神に責任転嫁をする人間の罪の性質を表していることを学びました。その罪の性質の一つの現れが殺人であり、その殺人についても、人はたとえ肉体の殺人は犯さなくても、自分の正義で人を誹謗中傷したり、さばいたり、貶めたりすることでも、他人の人格を損ない殺人をしているのと同じであるのだと教えられました。そして、それはアダムとエバ、そしてカインから世界に受け継がれている人間そのものの歴史であり、決して私達と無関係ではない今の私達の大小に関わらず人間関係にある罪の闇の現実、その縮図であることも教えられたのでした。しかし同時に、その罪は人間自身の力や理性でも解決できないことなのですが、その人間にはできない罪からの救済のためにこそ、神は御子イエスを人として飼い葉桶の上に生れさせ、そのイエスに私達の罪を代わりに負わせ十字架に従わせ死なせた。そしてよみがえらせた。その罪の赦しと復活のいのちを、今もその復活のイエスは、福音の言葉と聖餐を通して、なおも罪深い私達に与え続けてくださっている。その福音に立ち帰らされたのでした。

2.「義なる神」
「そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」10〜12節

A, 「創造の御旨に反して」
 殺された者のいのちとその血は、決して小さくもないし、まして何の影響も世にもたらさないわけでもありません。その神が創造において望んでいたのではない、人の人生の終わり方、創造の秩序に全く反する人間の血の結末は、結局は、人間自身に返ってくることになります。創造の大地は、豊かにいのちが増えていくために神が創造しましたが、アダムとエバの罪で、神は人間を楽園から追放し、その楽園は人間の手の届かないものになりました。その追放された地でも、人は自ら苦労して地を耕して作物を生じさせなければならなくなりましたが、それでも神は苦労して耕した報酬として大地に作物を生じさせていました。カインは地を耕す者として、神の恵みによって収穫していたのです。しかしその神の創造された大地、堕落後も神の憐れみが満ちていたその大地を彼は神の創造された人間の血と強制的な死で汚してしまいました。このように罪は罪を生じさせ、連鎖し、人間の思うこと行うことは、創造の秩序から逆の方へとどんどん向かって行きます。神はそのアベルの血の報いとして、カインがどんなに地を耕しても、その地はアベルの血の流れた地、神のみ旨が損なわれた地なのだから、もはや何も作物を生じさせることはないと宣言するのです。それが「その土地はもはや、あなたのためにその力を生じない」の意味です。このことは、大地は、ただの物質であり、ただ自然の流れの中にあるということ以上の意味があり、神はその創造した大地を、堕落後も支配しておられ、御心のままに言葉一つで、力を生じさせることができたり、生じさせないようにしたりできることを示しています。そして神は、アダムとエバが追われてやってきたその地からカインを追放し、さまよい歩くさすらい人になるのだと言ったのでした。

B,「義なる神:罪への怒り」
 ここで教えられることは、罪に対しては、アダムとエバがそうであったように、その報いは必ずあるということです。神はもちろん愛の方です。創造の目的も動機も愛から生まれていますし、神のなさることは愛そのものです。しかし同時に、神は神であり、神は聖であり義でもあります。創造の秩序に反し、その愛の思いに反すること、その罪に対しては、聖であり義である神は決して妥協はなく、神は罪に対して悲しみ怒る方です。そして、世を治める聖であり義である方だからこそ、罪に対する報いも正しくされる方であると言えるでしょう。だからアダムとエバは死ぬ者となり楽園から追放され、苦しんで地を耕す者となり子を産む者となりました。その罪に対する報酬として、全ての人に死が入ったのと同じように、罪の影響や報いや裁きを免れる人や例外は誰一人いません。罪は大きな殺人から、小さな嘘、そして神が何より見られる心の罪に至るまで、決してどうでもいいことと見過ごすことのできない問題なのです。そしてそこには人の思いでは計り知れない大きな報いと影響も免れないのです。その報いは法の刑罰だけに限りません。人が人に行う罪はもちろん、口や言葉でさえする心や人格を損なうような殺人行為であっても、人間の心に大きな負の感情を生み出し、その負の感情は連鎖していったり、複雑に絡み合うことによって、社会にとってなかなか解決の難しい大きな問題となることがあります。それは人間同士、家族同士、国民同士、民族同士、国同士の間で生じ、そしてそれが自然などの破壊や汚染まで巻き込んだりもしていくでしょう。人間の罪の影響は、大地に、人に、自然に及び、必ずあるのです。それは神や国家による罰はもちろんのこと、罪の影響は様々な関係を損なうことによって、結局は、自分にも返ってきて負わなければならない負債にもなります。罪は人間の最大の問題であり最大の不幸です。 

3.「罪の深刻さ:気づかない。担いきれない。」
 しかしやはりその深刻さは、その罪に気付かないことと、負い切れず、そして解決もできない現実だということです。
「カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」13〜14節

A,「気づかない。尚も責任転嫁」
 カインは「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」と言います。それは正直な叫びであることでしょう。「大きすぎて、担いきれない」その通りなのです。人はその罪も咎も担いきることができないのです。しかしそこでカインは自分の罪を悔い改めることに至りません。彼はまだそれでも自分が神の前にどこまでも罪人であり、自分がしてしまったことが、人の命だけでなく、神や創造の秩序との関係で、あまりにも重大なことをしてしまったことに気づいていません。むしろ、14節の言葉はまだ彼には神への責任転嫁があるのが見られます。「あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので」と言います。「あなたは」、「神であるあなたは、追い出されたので」。「だから」、「私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません」という言い方です。「自分は弟を妬みと神への怒りへとかられ、殺してしまったから」でもなければ、「神の前に罪を犯しましただから」でもありません。どこまで「あなたが私にこうしたので」という責任転嫁がここにもあるのです。

B,「他の人間の存在」
 そしてカインは「それゆえに、私に出会うものは、誰でも私を殺すだろう」とも言っています。まずここでは、この時代の他の人間の存在が述べられています。それがどのように現れたのかは、聖書には書かれていません。なぜなら、それは神にとって啓示する必要な重要なことではないからです。このアダムとエバの歴史だけで神の啓示は十分であるとされたのです。なぜなら聖書の啓示は、キリストのみを示しており、女の子孫として、生まれるイエス様なのですから、アダムとエバの系図と歴史だけで十分なのでした。ですから他の人間の存在のことは、何のことなのか詳しくはわかりません。後に生まれるアダムとエバの子供達とその子孫のことで、彼らが、アベルを殺した恨みや報いとしてカインを殺すことになるだろうということなのか、あるいは堕落の後に、他の人間達も神は人が知らないこととして存在させていたのか全くわかりませんが、しかし大事なことは、わからないことはわからないままにしておくということが、神を神とすると言う信仰であり、そして、そのように神は必要なことだけを啓示しており、それがすべてキリストを私達に指し示しているのだと言うことを、ここで教えられるだけで十分だと言えるでしょう。

C,「皮肉:自己中心な正義」
 それにしても、このカインが「誰かが自分を殺すことを恐れている」と言うのは、皮肉です。世界で最初の殺人を犯したものが、自分が殺されることを恐れるのですから。しかし、そのような、自己中心さこそ罪そのものの性質です。人は誰にでもそのような性質があります。公然とであろうと影でこそこそだろうと、自分が誹謗中傷されたり攻撃されたり、差別されたり、比較されたり、無視されたりぞんざいに扱われたりすることを誰よりも嫌がり、恐れたり、怒ったりするのにもかかわらず、誰かを、公然とであろうと影でこそこそだろうと、平気で、誹謗中傷したり、攻撃したり、裁いたり、差別したり、比較したり、やられたら倍にやり返したり、人間は皆そのような矛盾した、自己中心な、自分が神か王様のような存在です。そしてその罪深さ、愚かささえ、全く気づいていないで、責任転嫁をしてしまう存在。それは人ごとではない、私自身、そのような悪しき性質があることを気付かされます。このように、繰り返しますが、カインは、アダムとエバの子であり、罪人そのものであり、ゆえに、私たちと無関係ではない。私たち一人一人の姿を示しているのです。

4.「福音:罪深いカインへの神の憐れみ」
 しかしそんなカインに対して、義で聖なる神は、同時にやはり憐れみの神です。
「主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」15節
 そのようなどうしようもないカイン、罪の報いを告げられても、神の前の自分の罪深さに気づかず、責任転嫁と自己中心さの溢れるカインですが、そのカインの悲痛な、しかし身勝手で罪深いその叫びを、神は決して無視しません。蔑んで退けたりもしません。神にとっては自分への謙った砕かれた心でささげた真の信仰者であるアベルを殺した、その相手カインであっても、そしてその不十分な罪深い、しかし悲痛な叫びであっても、神は神に叫ぶもの、憐れみを求めるものには、決して見捨てない。答えてくださるのです。人の目から見れば、出会うもの誰からでも殺されても当然と思えるような弟殺しのカインですが、神はそう見ない。神はカインが殺されないようにと言葉をくださり、しるしをくださったのでした。そのしるしは何のことかわかりませんが、神は明らかにカインを「殺人から」守るための言葉を与えてくださったのでした。このことは人の目から見るならば、ある人々にとっては正しくカインに死刑を下さない神は理不尽な神のように映るかもしれません。一方でこの後見ていくように、洪水で滅ぼされる人々もいるわけですから尚更のことでしょう。しかし人間の正義や理性や価値観では計り知れない神のみ心がそこにあると言うことです。それでも神はどこまで義であり聖であり、しかしそれは人間の理性に合致するからでもなければ、それを人間が決定することでもなく、神の啓示の聖書がそう言っているからそうであると言うことなのです。それが神を人の理性に従わせる信仰ではなく、神を神とする信仰です。
 何れにしてもここから教えられるのは、不十分で身勝手な叫びであっても、神に叫び、助けを求めるものを、神はどんな罪人であっても決して見捨てない。そして答えてくださると言うことです。事実カインは「その女」、エバの子供ではあっても、約束の「女の子孫」のその「彼」、イエスの系図からは外れます。アダムとエバのこの後に生まれる子、セツがその系図になります。しかしその約束の系図ではなくても、神は神に叫ぶものを決して蔑ろにはされません。事実もし、約束の系図「のみ」の救いを表している神の言葉であるなら、救われる民族はごく少数に限られます。日本人など含まれません。しかし神は「世の」救い主として、この世にイエスを送ってくださいました。異邦人の異教の占星術師が礼拝者として招かれたでしょう。ローマ兵やギリシヤ人の多くが、聖霊の不思議な導きによって、ペテロやパウロの伝える福音によって悔い改め救われます。そのように神はイエスにつながる特定の家系の子孫のために最初の福音を与えたのではありません。罪人であるエバの子、子孫であり、カインの子孫でもある全人類の人々、どんな肌の色であっても、どんな民族であっても、老若男女、どんな罪深いものであっても、全ての人に律法による悔い改めと、福音による、罪の赦しと、信仰と、永遠のいのちとを、あなたのために受け取るようにと差し出し与えるために、その御子イエスを飼い葉桶の上に生まれさせるでしょう。神はそのイエスの誕生の最初の礼拝者として、貧しい羊飼いと異教の占星術師を選ぶことをよしとされるでしょう。そしてそのようにして人となられた御子イエスは罪人のところへ行き、友となり食事をし、弟子として招き、さらには自分の十字架の前であっても何も知らずに「誰が偉いか」と論じ、逮捕される時逃げ、三度「知らない」と否定する弟子達のため、裏切るユダのために、十字架を背負い、罵るユダヤ人やローマ人のために、「彼らをお赦しください」と言い十字架にかかって死なれるではありませんか。そして彼らのためによみがえるでしょう。どこまでも聖であり義である神が、同時に、全ての罪人にためにどこまでも憐れみ深い愛の神であることが十字架に示されているのです。この十字架と復活こそ、聖書が私達にどこまでも指し示す救いの啓示です。私達が今どんなに罪深くとも、いや全ての人が聖書を読むときに、罪を示され、刺し通されるのです。しかしその聖であり義である神が、罪に刺し通されたその心に、愛と憐れみの心でイエス・キリストを、福音を、十字架を指し示すのです。そのイエスは今日も福音の言葉で罪深い私達にこう宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日も福音の力によって平安をいただき、平安の祈りのうちにここから遣わされて行きましょう。




<創世記 4章13〜16節>
13カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。
14ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、
  地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれ
  でも、私を殺すでしょう。」
15主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」
  そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを
  下さった。
16それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。