2021年1月3日


「人の罪、キリストによる罪の赦し」
創世記 4章7〜12節
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1.「前回」
 4章に入り、アダムとエバの息子カインとアベルについて見てきました。二人は収穫の終わりにそれぞれささげ物を持って神の前にきました。しかし神はアベルのささげ物に目を止めて、カインのささげ物には目を留めませんでした。それはアベルのささげ物の方が高価で価値があり優れていたからということでも、行いや人間性としてアベルが優れていたからということでもありません。目に見える良い行いとしてはどちらもささげたのですから、良い行いをしたのです。ではその判断のために神は何を見ていたのか?神はそれぞれの心に目を留めて判断したのでした。では神は二人の心の何を見ていたのかというと、それは信仰でした。その信仰も、ただ神を知っているかどうか、神の存在を信じているかどうかということではありません。そのような信仰であれば、その動機が律法や自分のためにせよ、カインは信じていたからささげ物をしたのです。神が見ていた真の信仰、それは、彼の両親が陥り堕落した原因、自分も神の前に怒って顔を伏せざるを得ない、その原因である神の前の自分の罪を、認め悔いる心、砕かれた霊の心、主よ憐れんでくださいの信仰でした。それは自分が「神のように」の信仰ではなく、自分は罪人であり、神を神とする信仰でした。神は、アベルにその信仰を見たからこそ、そのささげ物を良いとし彼を義と認めたのでした。カインにそれを見えなかったでした。そのことがカインの応答に見ることができます。

2.「罪は戸口で待ち伏せし:自分中心の期待通りにならないことへの怒り」
「あなたは正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」7節
 前回、「正しい行い」は、その「真の信仰から出る行い」であると見てきましたが、カインはその信仰によってささげ物をしていなかったので、神はカインのささげ物に目も留めませんでした。神はこの言葉をカインが「正しく行っていない」のを知った上で言っています。「あなたが正しく行っていないなら」と。ーカインには、自分が神の前に罪深い存在であり、神の前にあってはただの罪人、神はただ一人とする、主よ憐れんでください、というその信仰のない心と行いを全て見通し、神はカインに警告します。「罪が戸口で待ち伏せして」と。英語で”crouching”とあり、身をかがめて攻撃に備えるというような意味になります。そしてその罪が「あなたを恋い慕っている」という言葉。その欲望があなたに向けられている、というような意味です。 この後にあるように、それはカインの強力な神への怒りの欲望ですが、それは神の前に自分が罪人であるという自覚の希薄さの表れです。むしろそこには彼の強力な自我、自分の正義の正当性が現れていて、「自分は悪くない。自分は正しい。むしろ神が間違っている。自分からの苦労して育てたせっかくの捧げ物を拒むとは」ーそんな怒りがあります。カインはささげる時、自分のささげ物による、色々な結果を思い描いて期待していたことでしょう。それはイエスのところにやってきて、自分は律法を全て守っていますと自信を持って言い、イエスに褒められると思っていた青年のようです(マタイ19:20〜21)。イエスはその彼の心に自分の罪深さに刺し通される砕かれた心のないのを見抜かれて、持ち物をみんな売って貧しい人に施せと究極の律法を言われましたが、その青年は悲しみイエスに背を向けて去って行きました。青年は自分がこれだけのことをしている。これだけのものを捧げている。完全に行っている。自分は敬虔だ。だから神は受け入れてくれるだろう。報いてくださるだろう。多くをくださるだろう。祝福してくれるだろう。そんな思い、願い、期待があったことでしょう。しかしその彼の自分基準の正義や義が神の目に合致しないや否や、青年のように悲しみ、カインのように神に怒る。その神を神としない信仰、自分中心の信仰、こうすればこうなるの行為義認の信仰は、自分の期待に神の結果が合致すれば祝福となり賛美になるが、合わないと怒りになる。それは「自分が神のように」の信仰、自己義認の信仰、栄光の神学者の信仰です。その結果はここに明らかです。怒りであり神への自己主張です。神を神とする信仰ではなく、自分中心の信仰では、罪は攻撃し易い「カモ」がそこにいるかのような姿勢で攻撃しようと待ち伏せしており恋い慕っている。そしてその攻撃に非常に弱いということが教えられます。

3.「罪の心に対する人の無力さ:妬み、そして責任転嫁」
 このように言う神のカインへのみ思いは何でしょう。それは「さらに堕ちること、アベルを殺すこと」ではない。「治めるべき」とはっきりとあります。神はその怒りを収め、自分の罪深さを認めて悔い改め、カインが神に立ち返ることを何よりも願っているのです。そうすればそれからでもカインのささげ物を神は喜んで受け入れたことでしょう。しかし人間の罪の深刻な影響と結果は実にあからさまにここに描かれています。
「しかし、カインはアベルに話しかけた、「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。」8節
 カインは神の警告にへりくだって聞き、従うことができませんでした。彼のその歪んだ正義、それは妬み、嫉妬からでています。アベルはカインに対して何も悪いことをしていないのですが、カインは神に受け入れられたアベルと自分を比べて、そのアベルに自分の怒りのいわゆる「転換」が向けられます。ここにも「自分は悪くない」という父と同じ責任転嫁の性質が見えてくるのです。そして何も正義でもないのですが、彼はアベルを殺すことで神に答えるのです。お父さんがかつて言った「あなたが私に与えたこの女が」と全く同じ神への怒りの一つの表れとして、自分の抑えられない怒り、恥、屈辱、嫉妬、神への責任転嫁として、アベルを殺すのです。「あなたが受け入れないから、悪いんです」と。しかしそれはアダムやカインに限ったことではなく、全ての人間に、私達にもある罪の心の性質です。ここで教えられることはなんでしょう。それは人は神の警告や教えに自分自身から従うことはおろか、その罪を収めることは極めて難しいということです。事実、例にあげた、イエスに財産を全て売って貧しい人へと言われた青年は、自分は完全に律法に従い、なんでも聖書に従っていると自負していながら、そのイエスの言葉の通りにできなかったでしょう。私達も同じで、聖書から正しいことを教えられても、それが自分に当てはまり刺し通され、悔い改めるべきことであっても、なかなかできない、従えない、それは私自身にもある性質です。人間の罪は、そのように神の言葉よりも、自分の正義や自分の利益を優先させようとする、自分が神の前に悪い、罪人だとはなかなか認めれない。自分は悪くない。正しいと言いたい。それは誰でもあることであり、私達は自分達の力や理性で、どれだけ従わせようとしてもできない。そんな人間の罪深い性質が、アダムにもエバにも、そしてこのカインにも現れていて、私達にもあることが教えられます。
 イエスは、そのような自分を正しいいと自負しイエスに褒められるためにやってきた青年との場面で、金持ちが救われるのはラクダが針の穴を通るより難しいと言っていますが、それを聞いて弟子達は言いました。それでは誰が救われることができようかと。しかし、それに対してイエスは言ったでしょう。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」と。このようにカインには人間が現れています。カインのように、人は自らでは罪をコンロールすることができないし、自らその心を砕き、霊を砕き、悔い改めの心で、神に受け入られる信仰を持つこともできません。しかしだからこそ、そのアダムとエバの罪の遺伝子を受け継いでいる全ての人のために、神が遣わしたイエス・キリストの福音は、その罪の悔い改めと罪の赦しの信仰を豊かに与えるものでしょう。イエスはそのために来られ、十字架にかかって死なれよみがえられ、そして福音を通して、人が自分では得ることも行うこともできない、その罪の解決と信仰を与えてくださるのです。カインは私達に絶望的な人間の現実を示しながら、その先にある十字架を通して、救いの光を私達に見させるのです。

4.「罪の行いに対する人の無力さ:罪の心と行いは全ての人へ及ぶ」
 さて、カインはアベルに襲いかかり殺してしまいました。罪が戸口でカインを攻撃するのを待っていたように、罪の誘いに落ちたカインはアベルを攻撃し襲いかかり殺すのでした。神はどんな目で見ていたでしょう。世界最初の殺人が兄の弟への嫉妬によるものだったのです。

A,「殺人の根は全ての人の心にある罪の根」
 悲しむべきことですが、世界のこの最初から、殺人は、どのような形であれ人に止むことなく残っています。殺人に大きい小さいもなく、正義の殺人などもありません。小さな社会、家族や親子での殺人もあれば、戦争はまさに正義の名の下での殺人です。もちろんそこに国家の正義と呼ばれるものはあっても、それさえ他者を顧みない自分たちの利益のために他者を犠牲にしても構わないという、不完全で不条理で残酷な正義です。しかし、その自分さえよければ他は犠牲になっていいというのは、戦争のみならず、全ての人間関係の不条理さの原因です。いじめもそう。裁きあいもそう。責任転嫁もそう。親子同士、兄弟同士、隣人同士。人間関係のあるところ、どこにでもそれはあります。そしてそこでは命は奪わなくても、相手の人格を否定したり、貶めたり、誹謗中傷したり、公でも隠れてでも、どこにでも起こっている。それは相手の人格を殺すことです。そのようにカインのように、実際に殺していなくても、カインの罪の根っこは全ての人、私自身にもあるものであり、私達は隣人の人格を貶めたり傷つけたりしている限り、それは殺人を冒しているのと同じなのです。ルターの小教理問答書を詳しく解説した大教理問答書では、「殺してはならない」の戒めはそこまでも含んでいます。ですからカインの殺人もまた、それは私達と決して無関係ではない、人間を表しているし、人間は真に罪人であることを、歴史を通じて語り続ける起源であり証しなのです。

B,「自己中心な他者との比較による神への責任転嫁」
 主は、カインが何をしたのかを知りながら、カインに問いかけます。
「主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」9節
 殺したことを分かっていながら、それでもカインに語りかけることをやめない神がここにいます。そして分かっていながら、アベルはどこにいるのかと神は問いかけます。それはアダムとエバに、分かっていながら「問いかけ」て罪の告白を引き出そうとしたように、カインからも自分がしてしまったことの告白を引き出そうとするためです。しかし、カインはやはりできません。アダムとエバは責任転嫁をしたように、カインは嘘をつき、また神に対して皮肉を言います。「知りません。自分は弟の番人なのか」と。「弟の番人か」という思いには、ささげ物を拒まれたことによって、弟と比べて、弟の方がより神に目をかけられ、自分は神に蔑まれてると、何かカインが勝手に作ってしまっている、差別やひねくれが見て取れます。自分はあなたの目には弟の僕、番人に過ぎないのかと。しかしそれはカインの勝手な正義に基づいた誤解にすぎません。神の前に差別はありません。神が見られたのは、その人やその行い、ささげ物の量や質や価値ではなく、その心の中の、神を神とする信仰、罪人であることを告白する悔いた砕かれた心の信仰です。しかし一方で人は、行いや目に見えるものでしか神を計ろうとしない性質をカインのこの言葉には見ることができます。目に見える行いではかる義の危険性がここにあります。それは比較を生み、他者と比べて神はああだこうだ、祝福はああだこうだ、信仰はああだこうだ、と言い出します。み言葉に照らしてではなくです。それは結局、人間が基準になった正義の言葉や、責任転嫁、だれかを悪者にする言葉しか出なくなるのです。

5.「罪の結果は神の造られた世界の荒廃」
 しかし、その結果として語られる神の言葉はこうです。
「そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地はのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」10〜12節
 殺人の結果は土地の荒廃です。神が創造した大地は殺人の血で汚すために創造されたのでは決してありません。神は人に、被造物に仕えるためにこそ被造物をおさめるように命じたのであり、互いに仕え、助け、愛し合うためにこそパートナーを与えました。人は互いに仕え、助け、愛し合う存在が、神の創造の秩序でした。それと全く正反対の殺人の血は、創造の秩序を破壊し、大地を荒廃させるのです。それは物質的な荒廃以上に、人と人の関係の崩壊は、世界の歴史において解決できないあまりにも大きな問題や悲劇を生み出して現在に至っています。荒廃したのは物質としての大地や自然だけではない人の心も荒廃してきたのです。殺人というと大きく捉え、自分はそんなことしないと無関係なことのように思えるのですが、実はこのカインの罪と結果と罰は、人間、つまり私達の罪の性質と今の世界を表していることを教えられます。そして自分も同じ性質がある罪人であり、自分もそのような意味で、人を傷つけることによって簡単に殺し得るものである、自分もカインであることを気づかされ悔い改めさせられますが、それでも自分ではその自分の罪を制御できない、神の鋭い刺し通す言葉に素直に従えず、自分は正しいとしてしまうどこまでも罪深いものでもあることまでも気づかされます。

6.「神からの答え:キリストこそ神から私達のための唯一の救い」
 しかしそのような私達のために、神は御子イエスを飼い葉桶の上に生れさせ、十字架に従わせた、そしてよみがえらせた。そこに達成された義、罪の赦しと新しいいのちを、それを受ける信仰を、こんな罪深い私にも与えてくださった。それでも罪深いものに、何度でも律法と福音の言葉を語ってくださり、福音と聖餐を通して、罪の赦しと新しいいのちをたえず新しくしてくださり、安心しなさいと今日も、今年も遣わしてくださる。このことに勝る喜びと平安は他にないでしょう。この罪の世にあって、この罪深いものに信仰が恵みとして与えられて、神の国に与り、平安のうちに遣わされていることを心から感謝し賛美しましょう。そして今日もイエスから福音と聖餐を受けとりましょう。イエスは「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるのですから、ぜひ安心してここから遣わされて行こうではありませんか。





<創世記 4章7〜12節>
7あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていない
 のなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治め
 るべきである。」
8しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野
 にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
9主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。
 「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
10そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの
 弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。
11今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あな
 たの弟の血を受けた。
12それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。
 あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」