2020年12月20日


「約束の彼は、「飼い葉桶」の上に」
ルカによる福音書 2章1〜7節

1.「最初の福音の成就」
 今年のアドベントは、創世記講解の続きとして3章を見てきました。そこには人間の堕落が描かれていて、アドベントに何の関係があるのかとお思いになれた方もおられる事でしょう。そこでは最初の人が試みる者の偽りの声に従って、それまでの平安と信頼の言葉であった神の言葉を退け、神に背を向け、神が食べてはいけないと言われた木の実を食べてしまった。それにより人間には罪が入り、神を神としないようになり、逆に、自分が神になったようになり、自分中心の生き方が始まった出来事でした。その結果、人間は死ぬようになった。そして、苦しんで子を産み育て、苦しんで食を得るようになり楽園を追われる、と書かれてあるところです。しかし先週までのそのメッセージは、決してアドベントとは無関係ではなかったでしょう。そこにはご自身に背いて罪を犯し隠れるその二人を、それでも探し語りかける神の姿がありました。そしてその言葉の中には救いの約束が含まれていたでしょう。それは動物で最も賢いと言われた蛇を用いて巧みに誘惑してきた悪魔に対しての言葉でしたが、
「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」創世記3章15節
 と。この言葉は「最初の福音」として、やがてアダムとエバの子孫として罪人の女から生まれるその子によって、悪魔の頭は砕かれる。そのような約束でもありました。その言葉は、罪を犯し、神への疑いと強い自己中心さに心が支配され、もはや自分では自分自身をその罪から救うこともできない、そんなアダムにとって福音となり希望となりました。その女の子孫として生まれる「彼」こそ3章で毎週のように繰り返してきました。イエス・キリストでありその誕生を指し示していた。そのことは成就するのです。

2.「神の時はそれはなる」
「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」1節

A, 「世界最高の支配者さえ用いて」
 皇帝アウグスト、紀元前27年、ローマ帝国の元老院は、当時統治していたオクタビアヌス帝にこの「アウグスト」という名誉ある名を付しました。それは「高く挙げれた人、高貴な者」という意味があります。彼はそのように当時の世界の統治者でした。エルサレムを含むこのユダヤ、パレスチナ地方もローマ帝国の属国として、ローマ帝国の政治的、経済的、支配下にありました。アウグストは文字通り、人の前では、世界で最も高く挙げられた方、世界最高の支配者であったのです。しかし神の前では、その世界最高の支配者も、神の計画の一つの道具として用いられるにすぎないことが今日のところには表されています。彼は全世界に住民登録をするように勅令を出します。それは全世界の人々が自分の出身の地へ行き登録をしなければいけない強い命令なのです。そこにこの子を身籠っているマリヤと夫のヨセフなのです。彼らはナザレというガリラヤと田舎地方の小さな村に住んでいました。そのガリラヤ地方も、ローマ帝国の支配の中にある世界の一部ですから、二人にもその勅令の力は当然及ぶのです。では二人の出身はどこであるのか。
「それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、」3〜4節
 彼らの町は、ベツレヘムという町でした。しかしそれはガリラヤ地方ではありません。そこから歩いて3日、ユダヤ地方にある町でした。マリヤはもう月が満ちて生まれるばかりの日に迫っていました。そんな中の勅令です。行かないというわけにはいきませんでした。彼らはそのような皇帝、国家の政治的、法的な力によって、ベツレヘムへの移動を強いられる形になるのです。しかしそのことは皇帝アウグストはもちろん、ヨセフとマリヤでさえも思いもしなかったことですが、神が前もって約束し定めたことの成就のために用いられ働くのです。旧約聖書のミカ書5章2節にこのようなその時から遥か昔に与えられた預言があります。

B,「遥か昔の約束の通り」
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」ミカ書5章2節
 神は預言者ミカを通して、その約束の救い主は、ベツレヘムに生まれることを、神からの約束として人々に伝えていました。しかも、そのミカの預言には、「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」ともあります。それは先ほどの創世記3章の最初の福音を想起されます。神があの人間の堕落の時に約束した、「彼」の誕生は、その永遠の昔からの定めとして、まだその時はそんな町も名前もなかった、ベツレヘムとして定められていたのだと。しかもルカ2章4節には「彼はダビデの家系であった」ともあります。ダビデはアダムとエバの家系です。創世記3章15節にある「女の子孫」です。そのように聖書では、神の前では、私たちの思いを遥かに超えた神のなさろうとすることの完全さが、ひとつの線に繋がっていることがわかるのです。その神が定めていたこと、その場所、そして、その時でもあるでしょう、そのために世界最高の支配者の勅令をも神は道具として用いて、その約束の母と、その約束の「彼」をベツレヘムへと導くのです。

3.「人の目には理解できない方法で」

A,「人の前:合理性の価値観で見ると愚かに見える」
 しかしながら、そのように神がその時、その場所へ、マリヤを導くにせよ、人の前、人の目にはなんと理に合わない、不条理で非合理的で、理不尽にこのところは映るでしょうか。5節にも、
「身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」
 とあります。マリヤは身重です。歩いて3日の距離を歩くのは、身重の月が満ちようとしている彼女にとってはなんという苦難であり試練でしょうか。身体の痛み、疲れ、そして心の不安、恐れ。その時だけではありません。マリヤはそれまでも、その子が聖霊によって宿ると天使に告げられた時から既に、その苦難と不安が重くのしかかり、彼女の「子を宿し産む」道は、苦難の道であったのです。しかしそれが神が定め、導いたことだというのは、人の前、世の常識では考えられないことです。もっと環境と状況が良い時に、なんでも揃い、不安と恐れのない中で、生まれるようにすればいいじゃないか。そんな田舎の貧しい大工の家ではなく、高貴なアウグストの家であれば、全てのものが揃って、多くの人に守られ、祝福され、華やかに、全て満たされ生まれてこれたであろう。誰からも人知れず馬小屋で生まれるより、その方が世界的に大宣伝になり、救い主の布教にはちょうど良く合理的ではないか。人はそう思いそう期待します。人が救い主を計画するなら、そのような成功論を頭で思い描き計画することでしょう。しかしなぜそれとは真逆の苦難の中に、多くの解決されない試練、貧しさ、悲しみ、不安と恐れの中に、しかも衰退したダビデの家の、田舎の貧しい大工の家の罪深い夫婦のもとなのか?人間の繁栄や成功や合理性の価値観に縛られた人には神のなすことを理解できません。その自分の価値観や正義に合わない事実、しかしそれは神の前では、計画のうちに許されているからこそ起こっているその出来事であっても、それを見て、失敗だ、ダメだ、ということでしょう。そのように世の常識の前、人の前には、神のなさることの素晴らしさも本当の恵みも、信仰の素晴らしさも隠されていて決してわからないのです。

B,「神の前:神の目には確かな御心:聖母マリヤではなく、罪人マリヤを通して」
 しかし神はこの時も、場所も、そしてマリヤの苦難の道も、すべてその創世記の初めから変わることのない、計画として、み旨として、神が皇帝の勅令さえも用いて、実現したのです。事実、神の言葉の通りに、マリヤにも起こってこそ、その最初の福音は実現します。マリヤは、聖母と呼ばれ、彼女は神に選ばれた一人ではありますが、しかし一人の罪人にすぎません。もしマリヤが聖人、聖母であるなら、同じように遡れば、その女の子孫とあるその「女」、エバはまさに聖母エバであるはずです。聖なる女であるはずです。しかし罪深い人を聖人化するのは、神ではなく、どこまでも罪人であり、罪人の罪深い性質です。まさにサムエル記にあるように、神のみことばをまっすぐに伝える裁き司サムエルと彼の語る神の言葉ではなく、人間の王の方が欲しいと求め、彼の語る神の言葉に力があるとするのではなく、人間の王の繁栄や豊かさや十分秩序立て組織立て支配する人間の律法の言葉、力の言葉の方が欲しいと言い、サムエルを退けた愚かな民のようにです。
 しかしマリヤもその先祖であるエバも、聖母でも、聖人でも、王様でもなかったでしょう。彼女たちは、罪人でした。そして最初のその福音は、エバが、あの今や私たちにも同じ人間として現われている愚かな罪の行い、罪深い心の一つ一つの思いが実行された直後の、「後の」神の約束であったでしょう。神は、明らかに聖母エバに語られたのではなく、罪のどん底で、それでもその罪にどうすることもできず、隠し隠れ、責任転嫁することしかできない、そんな罪人エバのために約束された最初の福音であったでしょう。罪人のための福音でありました。しかも、その約束の「彼」は、「罪人である」女の子孫から生まれるのであり、その女について、神は、「苦しんで子を産まなければならない」と彼女に伝えていたでしょう。そうマリヤが苦しみも不安もない、聖人の特別な身体で、しかもなんでも揃っている悩み苦しみもない、楽園で子を産むのではない。罪人として、そして神が言ったその通りに、罪の世と罪深い自分ゆえの苦しみと試練、不安と恐れを抱え、苦しんで子を産むことも、神の言葉と計画の矛盾でもなければ、永遠の昔からの一貫した矛盾のない定めであるということがわかります。そしてそれは救い主は、罪人の中に生まれ、「かかとを噛まれ」とある通り、悪魔の及ぼした、罪の痛みと影響を追うためであることこそを示すための、神が選ばれた、時と場所、状況であることが見えてきます。そして、その人の目からみれば理不尽で、不適切なように見えて、神は間違っていると言いたい、そんな時に「彼」は生まれるのです。

4.「神の約束の通りに」
「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」2章6〜7節

A,「人の前:人の目には比すれば惨めな状況」
 「飼い葉桶に寝かせた」「彼らのいる場所はなかった」ーなんということでしょう。人の目には、恵まれていないと思われる状況です。何も備えられていません。動物の繋がれる、横穴の中しかいるところがなかった。神は居場所を備えていなかったのか。「飼い葉桶に寝かせた?」神はそんなことしか準備できないのか。それは、世の中の「出産」という価値観、他の立派に上手く行っている「出産」と比べれば、何も整っていません。他と比べれば、何も上手く行っていません。失敗だ。ダメだ。そのように人は断定するでしょう。そう罪人は、人の前を気にし、人の前の価値観にあった上手く行っている経験と「比べて」、右往左往し、ダメだ、失敗だ。そのように断定してしまう。私自身そうしてしまうことを気づかされます。しかしマリヤやヨセフがそのような比較に立つなら、二人のそこに神も神の言葉もなく、信仰もありません。彼らの信仰が死んでいます。

B,「神の前:神が約束してくださったことを思い巡らす時に」
 しかしマリヤは、その場所は望まないところであっても、その場所を良しとしたからこそ、いる場所のない状況で、その子を、布にくるんで、そして飼い葉桶の上に置いたと言えるでしょう。彼らがそのように世の価値観に翻弄された栄光の神学者であったなら、その状況を呪い、その子を呪うでしょう。神は死んだ。神はいないと。人を批判し、宿屋を批判し、ローマ皇帝を批判するでしょう。神のない価値基準はそのような結論になります。しかしマリヤは、その子を布に包み、飼い葉桶の上に置きました。その子を抱き、その子に乳を飲ませました。二人は、その状況に不満を言い、互いに非難し合い、人を、宿屋を、皇帝を、神に責任転嫁をしたでしょうか。この後、彼らは、最初の来訪者、貧しい羊飼いの訪問と礼拝をそのまま受け入れ、神が羊飼いたちに現した言葉や出来事を聞いた時に、19節ですが、その羊飼いに現れた神や神の言葉を呪ったり、皮肉ったり、否定的になったりせずに、「思いめぐらしていた」(19節)とあります。何をですか。それは神の御使いが初めてマリヤのもとに現れた時から、常に語りづけ、励まし続け、そして信じられない、理解できないようなことを、それが苦難であっても実現してきたその約束の言葉を、彼女は、羊飼いへの神の言葉と照らし合わせて、思い巡らせたのです。マリヤの現実は、苦難そのものでした。人間の目には理に合わない、不条理で、何も必要を満たしてくれない、状況をよくしてくれない神です。人の目、人の価値観でみるなら、批判的な言葉しか出てこない現実でした。目先だけを短絡的にみるなら「ダメだ」としか言えないことであったでしょう。しかし、彼女の信仰の拠り所は、人の前でも、世の価値観でも、他の上手く行っている人の比較でもない。神の前であり、神のことば、神の約束なのです。だからこそ思いを超えた苦難に直面しても、それはまさに恵みだという信仰になるのです。逆に、福音のみ言葉に拠り所をおかない信仰になると、恵みは成り立たず、恵みも信仰も、律法となり、人のわざになり、平安がありません。信仰による平安がないから、目に見えることに不安になってしまうのです。

5.「かかとを噛まれ、彼はその頭を砕く」
 人は罪人となり、罪ゆえに、苦しんで子を生み、食を得るようになりました。人の世は、いつでも誰か他人だけでなく自分自身も罪人であり、まさに自分を含めて罪の世であり、理不尽で、残酷で、苦難が溢れています。しかしそのどん底の罪人エバに、罪人マリヤに、そしてまさにかかとを噛まれ、罪の理不尽な世の中の、この時、この場所、飼い葉桶の上こそ、神は約束の「彼を」私たちに与えてくださったのです。罪人を責めるため、裁くためではない。律法で人を責め、状況を責めるためでもない。罪人のところにへ行き、共に食事をし、友となり、立派な敬虔な人々から「間違っている、神を冒涜している、律法に反している」と批判され、裁かれ、罵られても罵り返さず、世には理解できない、世は受けいられない、世は愚かと切り捨てる、その十字架の死を黙って負われた。それはまさに「しるしを求め、知恵を求める人々にとっては、愚かで躓き」であり、何の力もないという、その十字架の言葉ですが、しかしその十字架の苦難にこそ「かかとを噛まれ」と、神のみ心はあり、十字架にこそ「彼」である御子は来られ、その十字架にこそ悪魔の頭は砕かれた。そして、そこにこそ救いがあり力があると聖書は私たちに語っているのです。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」第一コリント1:18〜24節
 パウロは言っています。人の価値観や正義、律法でも他との比較でもない、十字架の言葉があるところにこそ、使徒たちの信仰、私たちの死んでない、生きた信仰、生きた教会があると。クリスマスは、約束の通りに、すべての罪人のために救い主がこられ、神の前にどこまでも罪深いからこそ、福音を差し出して受けよと言ってくださっていることを教えてくださるとともに、クリスチャンには、その変わることのない立つべき拠り所へと立ち返らせてくださっています、今日も福音を受けましょう。そして神の前に罪赦され、安心してここから遣わされて行きましょう。



<ルカによる福音書 2章1〜7節>
1そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
3それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
4ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
 彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
5身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
6ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所
 がなかったからである。