2020年12月13日


「手を伸ばして」
創世記 3章22〜24節
■音声はこちら


1.「前回」
 前回は、アダムが妻をエバと呼んだところから見て行きました。その名の由来は、「全て生きているものの母だったから」とあるように、アダムは堕落をし、罪の影響である自己中心な自意識と消えることのない疑い、そしてその理性や良心までも腐敗してしまった中、自分のしてしまったことにも何もなすことができない、そんな絶望の中にありましたが、そんな堕落の後にもかかわらず、神は二人に語りかけることをやめなかった。そしてそんな中で語られた、最初の福音。「女の子孫が悪魔の頭を砕く」というその言葉は、彼にとっては希望となったのでした。その希望が、全ての生きるものの母として、エバと呼んだことに現れていることを見たのでした。そのように人間は完全に堕落し、自分の力では、信仰を生むことも保つこともできず、その罪の影響と死から自らを救うことはできないのですが、神の絶える事のないその言葉こそ、罪に冒され遂には闇しかない二人にどこまでも光と希望を与え続けるのであり、それが私達にとっても同じ恵みであるという幸いを教えられたのでした。第二に、神が彼らのために作って与えた動物の皮の衣からも教えられました。その皮の衣は神が罪深い彼らの肉体の必要を考え与え配慮してくださる憐れみであり、しかしそれは同時に、罪ゆえに世界に死が入り動物が死ぬようになった証拠であり、彼らがその皮の衣を着る毎に確かに体は暖かく裸は隠せるのですが、同時に自分の罪を指し示し刺し通す律法ともなるものでした。つまり皮の衣は福音なのではなく、福音は、そのように決して、物や人、目に見える物質、行い、何かを行った先、功績や自ら敬虔になった先にあるのではなく、どこまでも福音は、そのように罪を示され刺し通される時の、神から与えられる約束の言葉とそこにある希望。つまり神が与えてくださった、女の子孫である「彼」、悪魔の頭を砕くその「彼」、イエス・キリストとその言葉にこそあるのだということを教えられたのでした。

2.「善悪を知るようになった」
「神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」22節

A,「善悪を知る」とは?ー善を行えるようになった?」
 「人はわれわれの一人のようになり」とあります。1章の人の創造の、1章26節にも「われわれのように」とあったところでも述べましたように、それは神が複数いるのではなく、三つの人格でありながら神は一人であるという、三位一体の神のことを意味しています。その三つの人格の「ひとりのように」の「ひとり」はどの人格を指し、「ように」自体もどのようなことを意味しているのか、ここでははっきりとわかりませんし、ここには様々な訳や解釈があり、わからないことはわからないままにしておくというルーテル教会の原則に立ちますが、そこではっきりとしていることに目を向けると、それは人は、神が生えさせ神が食べてはいけないと言われたその善悪の知識の木の実を食べたその時、悪魔が「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と誘惑したその通りに「善悪を知るようになった」という事実です。その事実は、何より、彼らが以前のようではなく、隠れ、疑うようになり、自分のしてしまったことを恐れながらもそれを神の前に認められず、むしろ自分は正しいと装って責任転嫁するようになった事実からも、疑いえないことであったのです。しかし善悪を知るとはどういうことでしょう。堕落する前は神の善のみがあり、彼らはその神の善を経験していたいたことでしょう。しかし「それは善だ」と認識するというより、神の善のみがあり、神の善は当たり前の経験であったのですから、その善という概念を知る必要もないことであったでしょう。もちろん神ご自身は善そのものであっても、ご自身は善と悪の概念は知っていたでしょうし区別もわかっていたでしょうけれども、人間の側にあっては、その善という概念は、対象の悪という概念があってこそ成り立つ概念であり、悪のない状態で当たり前に存在する神の善はもちろん自分の善ということをも考える必要はないのです。ですから善悪の知識の木の実を食べた時に、もちろんそういう意味で悪とともに確かに初めて善も知ったのかもしれませんが、しかし善を知ったということを、同時に、その時初めて、善の能力を得たとか善を行うことを知った、するようになったということでは決してありません。むしろそれまでの当たり前で認識する必要のない善に対して、悪が入ってきて確かに悪を知ることによって、そうではない善を知り、神のように善悪の区別を知ったということだと言えます。むしろ彼らはその悪を知ったからこそ、善でる神の前に悪である自分達は隠れざるを得なかったのです。彼らはその木の実によって悪を知ることによって、今までの善とは全く違う悪を抱える自分を知った。まさにその区別の認識が善悪を知ったということなのです。

B,「自ら信じることができる自由意志?完全に堕落はしていないという信仰」
 ある人々は言うかもしれません。人はこの時、能力として善も知り持ったのだから、人間には自らの力でわずかな可能性があるのだ、それが自由意志であり、自由意志で人は善を達成し、信じることもでき、神の国に貢献できるんだと。人間の可能性を信じたい気持ちは良くわかりますが、しかしその時、能力として善を知った、善を行えるようになったのであるなら、それまでの神の善は人にとっては何の意味もないことになります。堕落する前は神の溢れるばかりの善の中で彼らは生きていたでしょう。悪も知らず悪を考える必要もなくです。つまり彼らは悪も分からないのですから、善だとわからず善を経験し善を行っていたでしょう。ですから木の実を食べたから善を知る能力も生まれたといのは辻褄が合いません。むしろそれまでの神の溢れるばかりの善から程遠い自分を知り、それが自分に入った罪であり悪であり、自分自身は決して善ではないという認識こそ、悪を知ったということになります。人はそのような意味で善と悪を知ったのです。そして悪を知り、それが自分にある悪であり、それに対して彼らは何もできないからこそ、神の善に対しては不完全なのであり、神の善の最高のものが信仰であるのなら、その最高の善に対しては完全に無力だと言わざるを得ないのです。ですから善を知り、人には自由意志が生きているから、人間には救いや信仰や神の国のために自力の可能性がわずかでもあり、神と人との協力が成り立つというのは大きな間違いです。何よりそうであるなら、キリストは人となり救い主としてくる必要はなかったし十字架の死はまさに無意味になります(ガラテヤ2;21)。人間は悪を知ったのです。自分の中にある悪、そして世界を支配するようになった悪、動物に死をもたらした罪の結果、そして悪の支配を知った、そしてもちろん善も知ったが、それにどうすることもできない自分がいる、そのことが明らかになったのです。事実、神はこう続けているでしょう。

C, 「「手を伸ばし」の信仰の落とし穴」
「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
 「「わわれれのように」善悪を知るようになった」とそこだけを見るのなら、このところに疑問を持って思うのではないでしょうか。善も知ったんだから、別にいのちの木を遠ざけなくてもといいのではないか。「神のように知った」なんだからと。しかし実際は、その「神のように」こそ、悪魔の最悪の落とし穴であったでしょう。「神のようになり、善と悪を知るように」(3:5)と悪魔は誘惑しました。しあし悪魔はそうは誘惑しても、彼はその時、決してそのように神のような善を行うようになるために、という目的のために誘惑したのではありません。神に背かせ、神を疑わせ、神をないもののようにし、自分が神のようになり、神の力や恵みではなく、自分の意思と力で、自分を神のように思わせ行動させることにこそ、悪魔の狙いがありそのようになったでしょう。その木の実を食べたことにも、悪魔の策略に落ちた事実と結果には、もはや人間やその弁明や言い訳が入り込む余地は全くありません。むしろ「神のように」の誘いに促され「慕わしい」と思い動いたのですから、その思いで、さらに神から神のものを奪おうとします。ですから、人は今や悪を知り、悪を思い、悪を行うようになったからこそ、堕落する前、神の溢れるばかりの善を受け生かされていた時には食べることを許されていたいのちの木から、悪を知った人が正しくない思いで、取って食べるのを神は防ぐのです。神は人をエデンから追放し、24節にこうあります。

3.「いのちの木への道を守る、ケルビムの輪を描いて回る炎の剣」
「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」24節

A,「なぜ守らせるのか?」
 いのちの木への道を守るためにとあります。それは何から守るのか、というと、追放した人がその園に帰ってきて、いのちの木の実に手を伸ばして食べないようにです。そのためにケルビムと輪を描いて回る炎の剣まで置いたとあるのです。ケルビムは天使のことですが、輪を描いて回る炎の剣というのは、直訳だと「剣の炎」であり、おそらく天使ケルビムが振り回すその光り輝く剣と関連しているだろうと言われています。ケルビムはその輝く剣をもってアダムとエバが帰ってこないように園を守りました。なぜ守ることが必要であったのでしょう。22節には「彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」とありました。そう人は悪を知るだけでなく、悪が入り、悪を思い、悪を行うになった人間です。そのアダムが、自らいのちの木に手を伸ばして、実を食べようとする、そのことのゆえであることが見えてきます。そのような性質がないのならケルビムに守らせる必要はありません。ましてもし人間の善を信じる人が言うように人は善を知って自ら神の善を行えるようになったというのが本当なら、ケルビムはあえて木の実を守る必要もなく前のように食べさせればいいのです。ここにも人間が善と悪を知ったということの本質がわかってきます。何度も言いますが、この堕落で、「人が善悪を知った」とあることに、人間に善の希望を抱いたり、ゆえにそこに新たな律法による偽りの希望を人に抱かせその人間の力による善を駆り立てることは全くナンセンスです。むしろミスリードです。

B,「何を守るのか?」
 堕落は、人が犯し、人に悪が入った出来事そのものです。それによりむしろ神の善を失うことによって、善悪の区別を知り善悪を知ったのです。堕落から始まり、その堕落は、神の善と恵みと祝福のうちに生かす神の言葉への信頼から、神の言葉への疑いに堕ちた出来事であり、その疑いは、神の言葉を超えた、熱心な敬虔、神は人が神のようになれる、賢くなれることを隠している、それを知りたい、得たい、それがその実を見て慕わしいと言う欲望を生み出しました。そしてその結果、自己中心な自意識に芽生え、自分を自分で守ろうとし、自分の悪を偽りの善で装おうとし、隠し隠れ、責任転嫁をするようになりました。そのように、神の与えるもの、神の恵み、神の善、神の平安、それらの賜物をもたらす神の言葉を退けて、神のもの、神が与えるものに「自ら手を伸ばす」行為そのものが罪であり、最大の悪なのです。ですから神はそのいのちの木の実を守ると同時に、つまりアダムがその何よりの最悪の反逆であり悪を行おうとすることからも、それをしないようにアダムをも守っていると言えるでしょう。そう神はいのちの木を守っているのと同時に、自らとって食べようとするアダムをも、その悪ゆえに取って再び大きな最悪の間違いを犯さないように守っているのです。

4.「ケルビムに示されている救いの真理」

A,「神のみ心:手を伸ばさないように」
 そしてこのことには救いの真理がはっきりとしているでしょう。罪深い人間が、「自分の手を伸ばす」ことによって、永遠の命を得ようとすることは、まさに神は決して望んでいない。ケルビムを置いて守らせるほどに、それは人間が陥るべきではない罪であり、悪であるということです。しかし人間にはどこまでも罪の性質があるのが明らかです。それは今や、神の恵みによって、信仰を賜物として与えられて尚も、そしてそこに崇高で立派な意思の力、行い、決心があったにせよです。自分の力で、つまり自分の「手を伸ばす」ことで、救いの完成を達成できる。神の国を実現できる。御心を実現できる。敬虔になれる。信仰を成長させることがで、信じること、信頼すること、委ねること、なんでもできるんだと、クリスチャンになっても、何度でも錯覚しやすい、陥りやすいです。そしてそれを当然のように人に、兄弟姉妹に、隣人に、要求しやすいです。そのように自分やあなたが意思と力で一生懸命、手を伸ばした先に、神がおられ、祝福があるのだと。自分で手を伸ばした先に、永遠の命があるのだと。自分で獲得できるのだと。それは人の目にはどんなに敬虔に見えたとしても、明らかに行いによる義、単なる律法主義です。そしていのちの木の実への強行突破であり、神がケルビムを置いてまで守らせようとしたそのいのちの木の実を自ら手を伸ばして取ろうとする行為と同じです。しかし神のみ心はここにあります。ケルビムの炎の輪に。神はケルビムに守らせるほどに、それを私たちがしないようにと望んでいる。求めている。我々が手を伸ばして取らないことを。それが神のみ心です。

B,「神のみ心:手を伸ばさせず、神の方から、神の手から私たちへ」
 ではそのケルビムの剣の先にある、手の届かない永遠のいのちは、神は「もう人には、あげない」と、ずっとエデンの園に隠し続けていたでしょうか。そんなことはありません。人が手を伸ばして取らなくても、神は神の方から、約束していた「彼」、三位一体の神であり、神の一人子である御子イエスを、その約束の通りに私達のこの世へ与えてくださったでしょう。それも手を伸ばす必要が全くない。そんなこと全く求めていないし、人間のわざや思いや計画とか熱心でもないことを示すように、世の誰からも知られず、誰もわからず、その時は神の定めた時に、しかも神の約束の通りに堕落した女の子孫としての卑しい罪びと夫妻に、「神の方から」その言葉はきます。その子は聖霊によって、神の方から宿るでしょう。その女は、神が言ったように、罪の結果として、肉体的精神的に苦しみ、試練と不安の中で子を産みますが、その子を神は、人間の社会の頂点ではなく、どん底の飼い葉桶の上に置くでしょう。その子は罪を犯さすことのない聖い方でありながら、しかしあえて罪人のところへと行き、裁くのではなく悔い改めと神の国の福音を宣言し、彼らに罪の赦しの慰めと平安を与えるでしょう。そしてついには、罪がないその彼が、世の全ての罪をその身に負って十字架にかかって死なれよみがえります。約束である聖書は私達にその福音を宣言しています。そのイエス・キリストの十字架のゆえに、あなたの罪は赦される。安心して行きなさいと。世が与えることのできない、わたしが与える平安を与えると。それゆえに私達は本当に、世が決して与えることのできない特別な平安、福音による平安を経験し、平安だから安心して行くことができ、それは死の先に至るまでも、平安と喜びを持って、主なる神へ信頼し従って行くことができるでしょう。それが「いのちの木の実」「永遠に生きる」「永遠のいのち」ではありませんか。その永遠のいのちはどこからですか。自分たちで手を伸ばしたからですか。全て神から、イエス・キリストを通して、そして福音とそこに働く聖霊の全き力によってではありませんか。神の恵みのゆえではありませんか。決して「自分で手を伸ばしてとる」ではないのです。それをしようとするなら、ケルビムの剣の前に何もすることができないだけでなく剣によって滅ぼされることになります。イエス・キリストが世にこられた意味とメッセージは、今日のところにも溢れています。私達は、自分で手を伸ばして神のうとすることを悔い改めて、神の一方的な恵みとして十字架に実現し与えられている永遠のいのちを、今日もそのまま受け、受けていることを感謝しぜひ喜びましょう。




<創世記3章22〜24節>
22神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るように
  なった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
23そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出さ
  れた土を耕すようになった。
24こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビ
  ムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。