2020年12月6日


「罪びとのために語りかける神の言葉」
創世記 3章20〜21節
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1.「前回」
 神が食べてはいけないと言われたその木の実を、悪魔の巧妙な偽りの言葉によって誘われ食べてしまった最初の男と女。「神のようになれる」その木の実を、神に背いて食べることによって、彼らは目が開かれ、善悪を知るようになり、神の言葉への信頼を失った自己中心な自意識が目覚めた彼らは、自分がしてしまった悪に、神の前にもはや立つことができなくなりました。神から隠れ、そして「どこにいるのか」と彼らを探される神の問いかけに対しても、彼らはその悪を悔い改めるのではなく、男は女と神へと責任転嫁をし、女も蛇へと責任転嫁をし、全てをお見通しの神の前にあって彼は自分の善ときよさを装おって自分の心の罪を隠したのでした。その神に背き神になろうとうする自己中心な自意識の結果として、神は男と女にこれから起こることを告げたのでした。女は苦しみを大いに抱えて子を産み育てることになり、男も苦しんで食を得る事になるのだと。それは肉体の痛み以上に、平安な神と神の言葉に背を向け、罪の世で、自分が神のように生きる事による罪の必然である、絶えることのない、疑い、不安、絶望、そして死であったのでした。しかしそのような罪の必然である、疑いと不安と絶望、そして死から救い出すためにこそ、神がこの時から既に約束してくださっていた女の子孫「彼」、イエス・キリストがその約束の通りに私達の世にきてくださり、その十字架と復活のゆえにこそ私達には、世が与えることのできない、キリストだけが与えることのできる平安に与っている、そのアドベントの恵みと幸いを覚えさせられたのでした。

2.「エバと呼んだ」
「さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。」20節
 人は彼の妻の名をエバと呼びました。それは彼女が神から与えられた役割に適した名前であったようです。モーセはその名前の由来として「彼女が、全ての生きているものの母であったからである」と述べています。母というのは子の母です。しかも全て生きているものの母です。それは動植物も含まれることでしょう。つまりアダムにとって妻は希望でした。それは子が生まれること命が受け継がれることは神の祝福であり、祝福が子孫へと取り次がれるためにという神が定めた秩序は変わることはありません。確かに彼らは堕落しました。罪の性質は入り、神への疑い、神の恵みよりも自分の熱心が優っているかのような言動、神のようになれるという思いは、既に根付いており、自己中心な自意識の、隠し隠れ、自分の悪を隠してでも自分の正義を主張する性質から人は抜け出すことができません。しかしアダムとエバ二人の経験に限っていえば、楽園を追われますが、神と共に過ごしたその日々は昨日のようであったでしょうし、堕落したからと直ぐに神を忘れ、その以前の記憶から神の存在が全く消えるわけではありません。もちろん神への全き信頼から生まれる神の知恵ではもはやなくなり、神のみ言葉による知恵に対しては閉ざされた部分は計り知れず大きいことであったでしょう。良心も理性も全く堕落し、そのままでは消えゆくかつての神への信頼にもそれらは全く無力です。 
 しかし完全に堕落し、もはや自らでは何もなすことのできない絶望の彼らに、神ご自身は語りかけることをやめませんでした。「あなたはどこへいるのか」と。そしてその後も語り続け告白を引き出そうとし、それで二人の責任転嫁に直面したとしても、それでも神は語りかけることはやめず、蛇にではあっても、15節の最初の福音の約束もありましたし、その後も語り続けます。それは楽園を追われても、堕落して腐敗しますます背を向けて行こうとする彼らに、神の語り続ける言葉は絶望の中の希望でもあったのであり、神に直接、接した彼らに与えられていたその神への知識や、保つためには何も為すすべのないその信仰が全く消えることなく保たれ続けたのも、その神の語り続ける言葉によるものだったのです。ですからその神の言葉ゆえに、彼らには希望が絶たれることはありません。それがエバという名。全ての生けるものの母だったから。そうアダムは、大きな罪を犯し罪が入り、まさに病原が蝕んでいき身体がもはやいうことを効かない病気の身体のように、楽園にいるのとは違う罪ゆえに自分ではどうにもならない堕落した人間にはなりましたが、罪を犯した後、堕落した後に蛇に語られたあの言葉はそばで聞いていて希望となったでしょう。
「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
 自分の中にはまさに罪の実である敵意がある。その敵意から自らでは抜け出せない。しかし、神は約束してくださった。このどうしようもない、罪と罪の結果、悪魔の束縛からの救済がやがてあるのだ。この妻の子孫によって。神は背いて堕落した自分と妻のために希望を与えてくださった。だからこそこの妻は希望。この妻は母になるからこそ、その子、その子孫は、神の約束の成就のために。エバという名、全てのものの母、それは、アダムの信仰であり希望でもあったのでした。そして大事な点は、それは堕落して落ちてゆく彼らの信仰にあってその信仰と希望を与え支えたのはどこまでも神の言葉であったということです。

3.「神の言葉は罪人のために」
 皆さん。これは大事なことです。8、9節からの神の声、神の「あなた方はどこにいるのか」という言葉は堕落の後です。つまり食べてはいけない木の実を食べた後、罪を犯し、罪が入り、その隠れるという性質が既に現れています。罪を犯し、神はその彼らがしてしまったことを全て知っています。それを知った上で、語りかけておられるのです。罪を犯したから、堕落したから、神の言葉を断絶し、もう一切語らなくなったということとは全く逆です。堕落した彼らに語りかけた言葉なのです。みことば、聖書の言葉。それはいわゆるパリサイ人のような、日々律法を守り立派な行いをするという意味での、敬虔な人、立派な人のためにあるというのではない。そのような敬虔で全てを守り通せる、立派な人間だからこそみ言葉は価値も意味もある。み言葉は、クリスチャンだけ、特に、立派なクリスチャン、行いの伴うクリスチャンのためにだけ、あるいはそのような人のためにこそ価値がある言葉、そのような人々のための祝福の言葉、そのような人々のための救いを保証する言葉、そうではない人には裁きの言葉なんだ、と思っていないでしょうか。そうなりやすいものです。しかしそれは聖書の言葉や信仰が福音ではなくなり、律法的に傾く時の大きな弊害です。みことばは、敬虔な人だけ、立派に律法を、定められた義務を、クリスチャンらしさを、隣人愛を守り通し、果たし通し、神の目にかなった立派な父、立派な母、立派な信徒、教職、そのような人々にだけの良い言葉、利益をもたらし心地よく響き祝福するようなそんな祝福の言葉ですか?勘違いしてはいけません。そんなことはないでしょう。神はもちろん堕落の前にも語りかけ全てを導いていました。確かに堕落する前の二人にとっては平安の言葉でした。しかし神は「堕落した後にも」語りかけるでしょう。「あなたはどこへ行ったのか」と。そして最初の福音を。その後も語りかけます。二人の最初の子であり弟を殺し隠れるカインにも「あなたはどこへいるのか」と。いやその後も、そしてこの聖書全体が神の語り掛けです。それは敬虔に全て律法を果たした人のために語っていますか?そうではないでしょう。罪を犯した人類に語りかける言葉であり、罪深い彼らへの言葉であるでしょう。100歳近いサラに子を与える言った言葉でありながらも、それを信ぜず嘲笑ったものへ語った言葉でもあったでしょう。罪深いヤコブのために荒野で語りかける希望の声であったでしょう。自分にはできない。他のものを使わしてくださいという信じられない、受け入れられない、臆病な弱いモーセに語りかける声でもありました。その後も声は絶えることがありません。ダビデへの悔い改めを迫る裁きの言葉であっても、偶像礼拝に走る民への怒りの言葉であっても、神が罪深い彼らに立ち返るようにと語りかける言葉であったでしょう。そして言葉が人となられたイエスは、罪人のところへこそ行き、一緒に食事をし、悔い改めてと神の国へと招く、友の言葉であったでしょう。神の言葉は初めのこの時から何ら変わることがありません。立派になるから、敬虔になるから、この言葉を受ける価値がある、聖餐を受ける価値がある、洗礼を受ける価値がある。そうではありません。逆です。堕落した後に神は語りかけるのです。最初の福音を。それがアダムの信仰と希望となり。エバという名に表されます。神は罪深いからこそ私達にみ言葉を語ってくださるのです。罪深いからこそ、福音を与えてくださるのです。罪深い私達に、希望を絶やすことなく、いつでも立ち上がることができるように、やがてくる約束の成就を待ち望むことができるように、信仰が消えないように、平安を得られるように。「日々、罪深い私達が」、です。そのためのみ言葉。そのための聖餐。そのための洗礼だということを私達は忘れてはいけません。今日も罪深い私達のために、神が御子イエス・キリストにおいて語ってくださる、み言葉、聖餐にぜひ感謝して、聞き、受けたいのです。さて、そんな夫婦に神はこのようなことをされます。

4.「皮の衣」
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」21

A.「神が人の肉体ためのケア」
 この「皮の衣」を神が作ったとあるところは、神がその時から動物を殺すようになったのであり、動物の犠牲によって人間が神から衣を着せられるのだからと、これはキリストの犠牲の死を表しているのだという教えもあるそうです。しかしLutheran Study Bibleでもきちんと書かれていますが、ここにそのようなキリストの意味を見出そうとすることは拡大解釈しすぎで、み言葉からそこまで読み取ることは難しいとあります。神がその時から動物を殺すようになったということはそこには読み取れません。むしろ罪によって、世界に死が入るようになり動物も死ぬようになった。その死んだ動物の亡骸から皮を利用した可能性もありうることでしょう。しかし何より大事なことは、わからないこと書かれていない事を推測し、ああだこうだと些細なことを論じることではなく、むしろ神である主はその堕落したアダムとエバのために衣服を作り与えてくださったという、その憐れみの深さ、神は堕落したアダムのためにそれでも必要は満たしてくださり、歩みをやはり導いてくださり、何を着るか食べようかということのためさえも、神は忘れず、神は与えてくださる。その幸いを見ることができるでしょう。イエスは言われます。
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。〜きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」マタイ6:28〜30
 イエスが言われたことは、堕落以来、変わることがない神の憐れみを表しています。しかしLutheran Study Bibleには、脚注でこのようなルターの言葉も紹介されています。

B.「しかし皮の衣そのものは福音ではない」
「アダムとエバは、ここで、主ご自身によって、皮の衣を着せられました。彼らは、自分たちの皮の衣を見るたびに、究極の幸福状態から、最悪の不幸と災いへの落ちたその悲惨な堕落を思い出させる代物となり続けることでしょう。すなわち、彼らは絶え間なく、罪の恐れを抱き、何度でも悔い改め、そして、約束されたその子孫を通して、罪の赦されることに安息し続けるのです。このことも、なぜ主が彼らに木の葉でも綿花でもなく、(その罪ゆえに)死にゆく存在となり、必ず訪れる死の中で生きている動物の皮で、その衣を着せたのかの理由なのです。」
 それまでにはなかった動物の死は、彼らが直面させられた罪の大きな現実の一つであったでしょう。その死は、蛇と自分たちの堕落から始まりました。ですから神からの皮の衣の提供は、神からの彼らの肉体のためのケアと憐れみでありながらも、それは堕落した世界、しかも死と言う現実から取られたものであるがゆえに、肉体には暖かさを与えるものであっても、皮の衣は福音ではなく、彼らの心にとっては死を思うたびに自分を刺し通す「律法」ともなったことでしょう。彼らにとって福音は、そのように衣に象徴される、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかにはなかったのです。人は、目に見えるもの、人や物に神や祝福、そして福音を探すものです。行いや功績、成功や繁栄、頑張った先、期待した通りになったところ、願った通りになったところに、神はおられる。祝福がある。福音はそのように律法を人が行い果した先にある、成就する、与えられると考えやすいものです。しかし皮の衣は、ただ罪を思い起こさせ刺し通す、律法でしかありません。その皮の衣のみには、肉体への神の憐れみを感じても、魂の救いも、罪の赦しもないのです。福音はどこにあるでしょうか。そのように皮の衣を見て刺し通された時にも、福音と安息はどこまでも「女の子孫の彼が、悪魔の頭を砕く」(15)、その神の福音の言葉、神の救いの約束にこそあったことを気づかされるルターの言葉です。

C.「約束の言葉こそ:律法ではない聖餐」
 皆さん、この聖餐、これはパンでありぶどうです。これ自体には罪を赦す力は何もありません。そうであるのに、このパンやぶどうを食べなければ、飲まなければならない、あるいは、立派に律法を果たしていなければ敬虔でなければ受けることができない、あるいは、この物質を見て意思を働かせ、み言葉を、イエス様のわざを思い出さなければいけない。あるいはこれをもって服従の決心を立てなければならない。となるなら、それは皮の衣への信仰であり、福音ではなく律法です。人のわざ、人の意思の力であり、聖餐は律法になります。イエスが私達に与えてくださったこの恵みを与える手段である聖餐は、どこまでも福音です。福音ですから、これはこのパンとぶどうに力があるのではありません。どこまでも福音の言葉に力があるのです。イエスがこの礼拝に、このみ言葉が語られるところにおられ、イエスの福音の言葉がパンとぶどうと結びつき、イエスがその福音で「これはわたしのからだ。わたしの血」と宣言するからこそ、これはパンとぶどうであっても、同時に、イエスのからだでありイエスの血なのです。聖餐は、理性的な説明では象徴だと言った方しっくりくるかもしれませんが、決して象徴や単なる思い出ではないのです。イエスの福音と結びついたパンとぶどう、イエスのからだと血であるからこそ、それは確実に、今日も罪深い私達にこそ十字架の罪の赦しが与えられるのであり、罪の赦しと新しいいのちの宣言をし、「安心して行きなさい」の通り安心して行くことができるのです。私達がここで求められるのは、礼拝堂のパリサイ人のように、自分の罪を隠して、自分はこんなにも頑張ってきました、こんなにも律法を守り通りしてきました。隣の罪人のようではないことを感謝します、ではないのです。罪人を集め招いてくださったイエスの前で、「この罪深い私を憐れんでください」と祈り、そしてこの聖餐は福音の結びついた、真のイエスのからだ、イエスの血、これによって私は今日も赦される。十字架と復活に与るこのみ言葉と聖餐を通して、イエスは安心して行きなさいと今日も言ってくださる。そう信じる信仰のみです。その信仰についても先に言いました。律法ではありません。痛みを負い空腹の私達に「あなたのために食事の準備はできています。さあきて食べなさい」の声に答えて食べるだけ受け取るだけです。聖餐は福音です。信仰も福音です。私達は、その食卓に招かれているのです。悔い改めと感謝を持って、この食卓にあずかり、今日も平安のうちに遣わされて行きましょう。



<創世記3章20〜21節>
20さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母で
  あったからである。
21神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。