2020年11月22日


「神と悪魔の間」
創世記 3章12〜15節
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1.「前回」
 前回は、試みる者による巧妙な偽りの言葉によって誘われ、「神が食べてはいけない」と言われた善悪の知識の木の実を食べてしまい、自己中心な自意識に目覚め、自らを隠し、それまでは平安な声であった神と神の声からも隠れようとする男と女を見てきました。彼らにとって神の声は今や信頼と安心の声ではなくなり、それまでは人は三位一体の神の似姿として、男と女の一体の関係のみならず神との一体の関係において平安に過ごしていたのですがその関係は分断されてしまったのでした。そのように神の「非常によかった」であったこの世界でしたが、試みる者の誘惑とともに人がしてしまったことのゆえに本来あったところから堕落したのでした。その時、神はそんな背きの蛇と人間を見、破壊者である彼らを見捨て全てをリセットすることもできたことでしょう。しかし神はそんな彼らのしてしまったことをを全てご存知の上で「あなた方は、どこへ行ったのか」と探される神でした。そしてその「探される神」のその目的は、本当に裁きに終わるものではなく、どこまでも愛と救済の十字架に繋がっているのです。

2.「責任転嫁」
 神は男に「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」と尋ねたのに対し、答えます。
「人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」12節
 アダムは、自分は手渡されたから食べてしまったが、それは「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と言い、まず女に責任をなすりつけます。しかしアダムは、ただ「女が」と言うだけではなく「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と、その女をこの私に「与えた」とも言いません。「そばに置いた」と言います。それは神が自分のために創造し連れてきて与えてくださったパートナーであることや、そのパートナーが与えられたからこその自分のそれまでの喜びや感謝を、あたかもないかのような突き放した言い方にも聞こえます。「あなたがそばに置いた、この女が」と、私のそばにこんな女を置いたあなたが悪いのです、と言わんばかりの言い方をしたのでした。女だけでなく、神にさえ責任転嫁するアダム、人間の姿、その罪の姿がここにあります。そのように罪の真の姿は、自分の罪を否定し、自分には罪はない、悪くない、あの人が悪く、神が悪い、とすることが、むしろ、隠れる、隠すと同様に罪の実として顕著に現れるものであることがわかります。いや責任転嫁そのものが、本当の自分のしてしまったことや、本当の罪深い自分を神から「隠す」ことそのものなのです。それは女も同じです。女も責任転嫁します。
「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」13節
 「蛇が」と。アダムは、自分の「してはいけないことをしてしまったこと」とその悪しき本当の自分を、女と神に悪を着せることで隠れ、エバは、蛇に悪を着せることで隠れたのでした。そしてそこには心刺される特徴があります。それはそれまでは神からの恵みそのものであった存在や出来事を、自分の責任逃れのためにあたかも簡単に忘れ、むしろ自己義認や自己実現のために容易に捨てスケープゴートにしてしまう性質です。

3.「責任転嫁A:それは、神の恵みを悪しきものとする」
 男にとって、女は、神の恵みと愛そのものでした。神は「人は一人でいるのは良くない」と言って女を与えてくれました。それは女にとっての男も同じであり、二人は一体として、互いに助け合い、愛し合い、協力して、自分たちを含めた命ある存在が神の祝福を取り次いで行くのを、神がしたように仕える姿で治めるためにと与えてくださった恵みでした。それは一方的に与えられた恵みであり、単に「置いた」と言うものを超えた出来事でした。そして言うまでもなく、神とその言葉は、彼らにとっては信頼と平安そのものであったでしょう。神の言葉があったからこそ、自分の命があり、日々の必要が満たされ、歩むべきことすべきこと、してはいけないこともわかりました。それは脅されてや恐怖でもなく、喜んで従っていける平安な歩みであったでしょう。しかし自分がしてしまったことの恐れ、自分が悪いと言う現実を彼らは告白することができず、そんな自分を隠すために、こんなにも簡単にその恵みの存在を忘れるのです。その神の恵みを簡単に悪としてしまい、自分は「悪くない」と弁護するための、隠れ蓑、スケープゴートにするのです。ここに私自身も日々してしまっている罪とは何なのかがはっきりと示され、刺し通される思いがします。
 私達には溢れるばかりの恵みが日々あります。全ては神からの恵みであり、それは良いことばかりではなく、試練や苦難など人の目には悪いと思われることさえも実は神の良いことのためのはかりごと、恵みなのです。何より、イエスの十字架と罪の赦しは日々、闇の中に輝いている救いの光、平安の源、希望ではありませんか。信仰の拠り所であり、神の前に何も隠す必要のない、安心して神の前に立ち、行き来できる救いの門です。しかし「十字架こそ救い、それこそ神の恵み、神の愛、神の祝福だ」と思わなくなってしまう。忘れてしまう。ちっぽけな事や、力のない事、単なる名目や看板にしか思わなくなってしまう。そして本当は揺れ動いては移りゆく世の物事、目の前の利益に心が支配され、思い通り期待通りになるならない、あるいは自分が一生懸命祈った通りになるならない、そんな事で右往左往してしまう。そして不安になり、そこで主に立ち返って祈り、主を待ち望むのでもなく、誰かのせいにしたくなる。自分が思い通り、期待通りにならない、計画通りにならない、祈った通りにならないのは、誰かのせいだ。隣のあの人、この人のせい、悪いのは皆この状況、誰かのせいだ、としてしまい責任転嫁をしてしまう。そのようにしてしまうことがないでしょうか。そうしてしまう私自身がいます。それだけでない。そのようにして神のせいだ。神が悪いんだ。とさえ容易にしてしまいます。ですからせっかく信仰を持った人も、期待通りにならないときに、やはり神は嘘つきだと、神はよくしてくれない、と言って神に責任転嫁をして信仰を捨てて行くことさえ少なくありません。恵みを忘れ、人に神に責任転嫁をし、恵みさえ悪にしてしまう、それは私自身にはないとは決して言わない。私自身にまさにある、人の罪の性質であることを気づかされます。そして絶望的なのはそれを自分で完全に断つことは誰もできない。いやその重大性に気づくことさえできない。とても深い罪の根であるのです。

4.「神と悪魔の間」
「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」14節

A,「蛇への裁き」
 蛇もまた悪魔に利用されただけなのかもしれませんが、誘惑の声に従って「人が」実際に実行したのと同じように、その神から授けられた、獣の中で最もと呼ばれるその賢こさを、悪魔の誘うままに、人を誘惑するために行動した蛇自身も、実際の実行者なのです。その背後には悪魔がいたとしても、悪魔が誘惑したのだから、悪魔が禁断の実を食べさせた、と言うだけでなく、同時に蛇が誘惑したであり、誘惑された二人が実行したのです。ですから14節15節の言葉は、蛇に対してであると同時に悪魔に対しての言葉として語られます。神は、野の獣の中で最も賢いとされていたその蛇に、今度は、野の獣の中でも最も呪われた存在としました。もちろん人間によってでもあるのですが、堕落のはじめ、この悪魔に利用され誘なわれ罪を犯した蛇によっても、野の獣や自然界にも、罪の影響は及んで行くことになります。そして蛇は一生腹ばいで歩くのはこの時から始まり、「ちりを食べる」は、事実として、蛇はちりを食べるわけではなく、古代西方アジアにおいては、敗北の統治者が、服従を表すために、その顔を地面につけさせられた屈辱と敗北を表していると言われています。そして、神はさらにこう言います。

B,「敵意」
「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」15節
 はじめは、「お前と女との間に」と敵意が述べられ、その次は、「お前の子孫と女の子孫」と子孫同士の間の敵意が述べられます。しかしその敵意ですが、最終的には、子孫同士の戦いではなく、「彼」と言う女の子孫と、試みる者自身との闘いとして書かれています。この神の言葉は、明らかに、女の子孫としてやがて誕生するものが、ついにはこの試みる者自身、悪魔を打ち負かすことを示しています。つまり女の子孫である「彼」とは、誰か?頭を砕くとは?それはイエス・キリストとその十字架の出来事のことです。それゆえにこの15節の神の言葉は、神からの最初の福音の約束であると言われています。
 16節から分かるように、子は女エバから生まれ、やがてそのアダムとエバの子孫であるマリヤからイエス・キリストが生まれることから、女との間、女の子孫という言い方なのかもしれませんが、実質的には敵意が置かれているのは、女だけでに関わらず、人と悪魔の間に置かれています。罪の結果、堕落は、人間が神に背を向け、罪を認めず責任転嫁をして行く事実があると同時に、それは「敵意」とある通り、常に、その罪との格闘であることも示唆しています。しかし旧約聖書を見て行くときに、そのエバの子孫たちは、やはりどこまでも罪深い存在であり、敵意に自ら打ち勝つことができず、敗北するばかりです。それは息子カインのように罪を犯すということだけではなく、そこに描かれている信仰者や主の民の姿は、完全な信仰者だとか、理想とするような完璧な敬虔な姿では決してありません。彼らは、信じることのできない存在であり、弱い存在、迷う存在、嫉妬したり驕り高ぶる存在でもあるでしょう。アブラハムやヤコブ、モーセや、ダビデ、などなど、預言者達も彼ら自身も、弱く失敗し、だからこそ悔い改めの人々でもあったでしょう。もちろん信仰的な素晴らしい証しもあります。しかしそれは弱さと欠点のあった彼らが主とその励ましと約束の言葉によって、人の思いをはるかに超えて何度も助けられてきた、そのことによって、信仰を養われたゆえの実りとしての姿です。そう「人間と悪魔の間」、そして「信仰者達と悪魔の間」にも、この時から絶えず敵意があるのです。そして私達自身はどこまでも自己中心な罪人であり、自分達自身ではその間にある結果は常に敗北です。信じることができない、常に神と神の言葉に背を向け、御心を行えず、行っていないのに全て行えているかのように思って行いを誇ったり、そして、状況が悪くなると、責任転嫁をする存在です。「あなたがこうしたから」「あなたがこうしなければ」など等。悪魔との間に、敵意が常にあるだけではない、敵意に対して私達にあるのは敗北でもあります。それほど堕落の影響は深く大きい。まさに「あなたはいったいなんてことをしたのか」(3:13)の神の言葉は真実なのです。しかしその同じ神は、そのように人間がその罪ゆえに、常に敵意に敗北する絶望的な存在であることをご存知で、いやご存知だからこそ、この始めの時から、私たちに希望の約束を立ててくださっているのです。

C,「最初の福音:彼は頭を砕く。しかし痛みを負って」
「彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」15節
 と。「彼」です。神の御子イエス・キリスト。この15節の言葉を語った神ご自身、そこに三位一体のキリストもおられたのですが、父なる神は、その愛する一人子を、この敵意に打ち勝つことができず滅びに至るしかない絶望のアダムとエバの子孫のために、その子孫から生まれる一人子として送り、その彼がその敵意、その悪魔に打ち勝つのだと。その壮大な救いの計画、勝利の計画をこの堕落したその時から立てていた。いやそれを与えてくださったのです。主の約束の言葉はその通りになる言葉であり必ず成就する言葉です。神にあってはもう既に成っているとも言える確実な言葉を人類に与えてくださった。それがこの約束なのです。神の「あなたはどこへいるのか」と探す声は、ここにこそ繋がります。十字架と復活にです。裁くために探すのではない。裁くための言葉ではない。もちろん律法の言葉がありそこには断罪があり私達は刺し通されます。しかし神の目的は常に愛です。救いです。そしてその愛は「一人子をこの罪の世に与えるほどの愛」だということがここから分かるのではないでしょうか。
 そして心に留める大事なことがあります。それは、その敵意への勝利の計画は、人間が成功物語や武勇伝などなどで聞くような誰もが認めるような華やかで力強い形ではきません。「彼」は「罪の世、敵意によって痛みを負った姿で」生まれてくるでしょう。世の君主の勅令の最中、そして世の喧騒の中で居場所を失ってしまい、他に行く所のないやむを得ない最も貧しい場所で、その貧しいダビデの子孫の夫婦は、幼子である「彼」を産み、その幼子として誕生した「彼」は飼い葉桶の上に寝かされます。その彼には「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえも」(イザヤ53:2)ありませんでしたが、彼は貧しい人、罪人達、村の外れの病人や、悪霊に疲れた人のところへと行き、そして罪人と一緒に食事を友となりました。その彼は「さげすまれ、人々からのけ者にされ」「人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」のですが、彼は「悲しみの人で病を知っていた」でしょう(同53:2〜3)。そのように「彼は」世の敵意にかかとを噛みつかれ、痛みを負って生まれてきますが、そのように悪魔はかかとに噛み付いているようで、その彼が、その頭を見事に砕きます。ローマの軍勢によってでも、イスラエルの革命による武装蜂起でもない、人間の作り上げる主義思想、共産主義革命や暴力や強制でもない。それらは強そうに見えても神が用いる手段ではない、悪魔の敵意の術中にはまった見事な噛みつきとも言える方法ですし、そのような方法、世界最高の軍隊や、暴力的な主義思想や、カリスマ的な人気と権力でも、人間の堕落以来根付いている、圧倒的な闇である罪に対して、そしてそこからの救いに対して、神の前に平安に対して何もできません。無力で愚かでしかありません。しかしまさに誰も思いもつかない、世にとっては愚かと思える神の力と知恵で、見事に悪魔の頭を砕いて打ち負かしたでしょう。罵られても罵り返さない、黙って従われ、罪の贖いとなられた、ご自身のこの十字架と復活でです。そして神は宣言するでしょう。この十字架のゆえに、罪は赦される。今尚罪がある罪人であっても、このイエスの十字架のゆえにイエスは「罪はない。あなたの罪は赦されている」「あなたはわたしのものだ」と。そのようにイエスとその十字架と復活でこそ悪の頭は砕かられ、創造の初めにあり堕落とともに失ったはずの、あのみことばに常に導かれた正しい関係、神との平安な一体の関係に回復されるのです。今その恵みに私たちはあることを感謝しましょう。そしてこの恵みは全ての人のためのものです。全ての人に、十字架の罪の赦しと復活の日々新しい歩みは目の前に受け取るように差し出されています。信じなさいは命令のようで決して命令ではありません。ワルターというアメリカのルター派の牧師は言います。「信じなさい」は、お腹の空いた人に「さあ食事は整っているから、ここにきて食べなさい」という言い方と同じだと。喜んで食べるだけです。信仰はそのように恵みを、準備された全てを受け取るだけです。今日も罪の赦しの宣言をそのまま受け取り、新しくされて、ここから安心して遣わされて行きましょう。





<創世記3章12〜15節>
12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」