2020年11月15日


「主の声に隠れた二人」
創世記 3章6〜13節

1.「前回」
 前回は、7節から「二人の目が開かれ」とある言葉から悪魔が誘惑するその姿について見てきました。悪魔は、神が「食べてはいけない」と言われたその木の実を食べる時に「目が開かれる」と誘惑していましたが、二人が実際に食べた時に、彼らはその通りに「目が開かれ」たのでした。そのように悪魔は明らかにわかる偽りで誘惑するだけではなく、むしろ本当に起こることを織り交ぜて偽りをいい、悪へと誘惑してくるのだということがわかりました。事実、イエスへの誘惑にはそのことが明らかであり、マタイ4章の荒野の誘惑からも見てきました。悪魔は敬虔な姿をしみ言葉さえ用いて、そして「こうすればこうなると書いているでしょう」「だからしてみなさい」と敬虔な熱心さを煽るように誘惑してきており、悪魔は邪悪な悪魔の姿と言葉で誘惑するのではないことを教えられました。むしろイエスが偽預言者や偽キリストがやがてくることを警告しているところからも分かるように、偽キリストとやその誘惑は、羊のなりをしキリストの姿をしてやってくるのであり、あたかも敬虔で信仰的で熱心な姿や言葉で誘惑してくることを教えられたのでした。そのようなみ言葉さえ用いる巧妙な誘惑に対して私達はどう対処したらいいか。それはどこまでも十字架にかかって死なれよみがえられたイエス・キリスト、パウロがいう十字架の言葉を聞き分けることであり、律法のような福音とか、福音に化けた律法の教えではなく、十字架の福音を正しく聞き、教えられ、理解することにこそ誘惑に打ち勝つ神の力、神の知恵があるのだということを教えられたのでした。

2.「主の声」
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた、それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」8節
 「そよ風の吹く頃」とありますが、それは日が暮れかかり、涼しい風が吹く時間のようです。彼らは、そこで園を歩き回られる「主の声」を聞きます。「主の声」ーそれは、1,2章で見てきましたように、天地万物を創造しただけでなく、鼻にいのちの息を吹き込んで生きるものとした声、そして食べるものや生きるのに必要なものを全て備え、していいことと良くないことも教え、一人では良くないと、ともに愛し協力し祝福を取り次いでいくために互いのためのパートナーを与えてくれた言葉でした。そしてその様な言葉であったからこそ、その主の声は彼らにとっては信頼でき安心できる平安の言葉でした。聞けば安心できる言葉でした。しかしここではその主の声を聞いたその時、180度の真逆の反応が生まれます。彼らは「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のでした。二人はその実を食べ目が開かれた時、一つの隠す行動をしていました。

A,「隠す、隠れる」
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」7節
 彼らはその時に、自分達が裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆って裸を隠しました。それは自意識の目覚めであったと触れましたが、二人はそれまで裸で一緒にいた、夫に対して、そして妻に対して、隠したのです。それはお互いとの関係、そして神との関係の大事な特徴でもあった、「一体の関係」が崩れたことの結果であり、その様な「一体」ではなく、個々に分離された関係とそこに生まれた自意識からの感情は、これまでにない互いを見る目と見られる目への意識、そしてそこに恥ずかしいという感情を作り出したと、LutheranStudy Bibleでは解説されてます。彼らは目を開かれることによって善だけでなく悪を知り、そこに自意識も生まれ、自分中心の視点、まさに善と悪を自分が司る、神のようになったかのような偽りの視界はそこに開けたことでしょう。しかし同時に、サタンによって植え付けられた神への不信と背きによって、彼らの互いへと、神への心は閉ざされてしまったのでした。そして目が開かれ、善悪を知ることによって、もう一つのことに目が開かれているでしょう。それはこれまでなかった自分がしてしまったことの認識です。それは明らかに後戻りできない、神がしてはいけないと言ったことへの「背き」の認識であり、そこには善や安心とは逆の、悪への目覚め、そして安心ではない不安、恐れ、絶望への思いが生まれ、そんな自分を自分で守る行為のはじめとして「隠す」ということには浮かび上がってくるのです。ゆえに彼らは背く前の彼らのその心とはもはや違います。主の声を聞いて、彼らは背いた自分と、食べてはいけないと言った神との間の分離と異質を感じざるを得ません。神が与えなかった教えなかった、裸という意識、背いた自分。恐れや不安という思い。もはや以前の神の恵みに包まれた神との一体ではない自分なのです。神とは分離された自分です。自意識はそこまでも気づかせ恐れさせます。だからこそ、その声を聞き、神の前に立つことができません。その顔を見ることができないのです。もはや否定的できない背いて食べた事実のゆえに、真実な神の言葉は、不安と恐れでしかないのです。ゆえに隠れるのでした。10節でアダムはいっているでしょう。「恐れて、隠れました」と。

B,「隠す、隠れることからの解放ーキリスト」
 みなさん。私達が救われている幸いはこの「恐れ」「不安」からの回復であり、キリストにあって一つとされている平安であるこを今一度、覚え、感謝したいです。罪は全てを分断しました。男と女、自己と他者、人間と自然。そしていつも一緒で、常に言葉があった、その神との分断です。自分を知ることは決して悪いことではありません。しかしそれは神との正しい関係、神の言葉を通して、本当の自分はわかるものです。もちろん私達は義と認められ救われました。しかしそれは私達の義、あるいは私達にある何らかの義ではなく、どこまでも私達の外のキリストの十字架の義であり、私達はただ恵みのゆえにキリストものとされることによって、そのキリストの義を着せられ義と認められたのです。つまり私達は義となったのではなく、キリストの義のゆえに聖徒ではあっても、同時にどこまでも私達自身は罪人なのです。だからこそ日々、悔い改め、キリストの十字架の恵みに与り続ける存在なのです。そのように私達は神の律法の言葉によって、本当の自分である罪人である自分を知ることができ、そうして初めてキリストの十字架の言葉、福音によって、ただ恵みによって義と認められて神の前に立つことができる自分、神との正しい関係が回復され、本当の一体が回復された自分を知ることができます。それがみ言葉を通して教えられる本当の自分を知るということです。しかしその神から与えられた「律法と福音によって」を見失うときに、そこには正しく自分を知ることができません。アダムとエバが陥った、不安で自己中心な自意識の目覚めと暴走が生まれることになるのです。そのような自意識は罪深い自分を認めることを拒みます。十字架を拒み、あるいはあまり重要なことではないこととします。そして不安な自分を神が導くのではなく自分の何かで満たしたり解決しようとするために自己義認に走ります。人の行いで自分や人の義や救いや敬虔を測ろうとします。そして福音ではなく律法を拠り所にしようとし、福音から生まれる良い行いではなく、良い行いが福音を実現するという全くの逆の教えと基準も生まれてくるのです。そのような行いによって神に義を立てようとする行為は敬虔なようなに見えるかもしれません。しかしどうでしょう。それは全てを見通し、心までも見通し、そしてその私達の圧倒的な罪深さと心の邪悪さをご存知の上で、私達にこの十字架こそ救いだと示してくださった神の前にあって自分を隠す行為ではありませんか。キリストの本当の福音を知っているなら、それを本当に恵みだと受け入れているのなら、私達は罪深い自分を知る時に、神の前に何ら行いで自分を良いように装って武装する必要はないではありませんか。しかし私達は行いで神の前に義を立てようとすることによって、罪深い自分を隠そうとしていませんか。私はしてしまいます。悔い改めるべき自分を神の前に、十字架のイエス様に明け渡すのではなく、一生懸命、自分の何かで、自分を弁明することによって、神から隠れようとしていませんか。私はしてしまいます。アダムの堕落による自意識の目覚め、隠れる行為は私達に与えられたキリストとその義認を明らかにしてくれています。そして私達が罪深い自分を律法で示され刺し通されることは必要なことであり、かつ神の前に正しく自分を知ることであり、悔い改めも神の前に正しく立つこと、それは十字架のイエスに全てを明け渡し、罪を背負っていただき、神との正しい関係、神からの分断から神との一体を回復するための福音を受けとる前の大事な備えであることを気づかされます。

3.「全てを知って、探す神」
 事実、そのような隠れるアダムとエバは自分では神の前に出ることもできず、自分のしてしまったことの解決も自分自身ではできませんが、そのような二人に歩み寄るのは神の方なのです。
「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか」9節
 神は、神の方から人に呼びかけ、神の方から言葉を発せられます。「あなたは、どこにいるのか」と。つまり神の方から探される呼びかけです。しかもこれはすでに人が何をしたのかを全てご存知で、探される声であるということです。
「あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます」詩篇90:8
 どんなに不義を隠しても、神のみ前の光には明らかだと。
「ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行い、そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう」と。」イザヤ書29章15節
 人は闇の中で「誰が見ていよう、知っていよう」と隠し通せることができ、人の前では明らかにならなくても、隠すと言うことは、主の前には隠すことのできない愚かさであるとイザヤは述べています。そしてエレミヤを通して主は言われます。
「人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。―主の御告げ―天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告げ―」エレミヤ23章24節
 天にも地にも満ちている主なる神の前に、何も隠し通すことはできない。全てを見ている。全てを知っていると主ご自身が言われているのです。もちろんこの後、主と二人の問答があるので、神はその時、知ったかのように思われるかもしれません。
「すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」11節
「そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」13節
 と。しかしそれは10節と同じように、12、13節にあるように、罪を犯した本人達からの明確な告白を引き出すための質問であり、神はすでに知っていてその質問をしているのです。その神がその質問をしたことによって、罪の本質を表す彼らの責任転嫁の言葉が明らかにされたと言えるでしょう。神はそのように全てをご存知であったのです。悪魔が誘惑した一文一句、そこに生まれた彼らの心のうち、そして誘惑に負けて食べてしまったこと、そして目が開かれ、自己中心と自意識が生まれ、責任転嫁をすることもです。しかしそのことを全てご存知の上で、神は二人を探すのです。どこにいるのか?と。それは4章でカインを探すときも同じです。しかし人はもう隠れるばかりです。堕落し、すでに死が入っています。どんなに隠れても救いはありません。どんなに隠し通せても滅びゆくだけです。神はご存知であるならそのまま放っておくこともできたでしょう。神からみれば、人は被造物でありながら、背いて反逆し、創造し非常に良かったと言ったその世界に分断を生んだ存在です。もちろんそれは悪魔によってでもありますが人がしたのです。そんな自分が創造し、素晴らしい非常によかったものを堕落させた存在を見捨てることも裁くことも、そのまま滅ぼし作り直すこともできたでしょう。しかし神はそれをしません。神はそんな彼らを探すのです。そしてそのしてしまったことは何なのかを、彼ら自身の口から聞いて、隠したままにしておかないのです。

4.「罪深い自分が示される時」
 しかしアダムとエバは、その罪ゆえに、神に問われた時に、自分がしたとは言わずになおも隠し続けます。責任転嫁をしたのでした。責任転嫁は、隠れ続け、隠し続けることですね。神は同じように私達を探してくださいました。見つけてくれました。そのように神は罪深い私達をどこまでも探してくださる存在です。「あなたはどこにいるのか?」と。そしてそこに私達は神の前にある自分がどんな存在であるのか、律法を通して必ず教えられ、何をしたのかと迫られることでしょう。刺し通されることでしょう。しかし、アダムとエバの時と決定的に異なるのは、私達にはそこに人となられ飼い葉桶に生まれ、十字架にかかって死んで復活されたイエス・キリストが立っておられるということです。もちろんアダムとエバの前にも創造主なる神の御子キリストと聖霊もおられました。そこでアダムとエバが悔い改めたら赦されたのかとい議論はナンセンスです。書いてないですし、まだ十字架の時ではなかったのですから。わからないことはわからないままであり、神の計画は計り知れません。ただ事実は彼らは責任転嫁で応答しただけです。しかし今や、神のはっきりとした計画はなされ、十字架のイエス様は私達の前にいるのです。私達も何をしたのかと問われるときに、罪に気づかされ、心を刺し通されます。しかしその時に、私達は、律法によって気づかされた罪を、それでもなおも隠し責任転嫁をするのではありません。良い行いで装い、自己義認をし、隣の罪人のようではないことを感謝しますでもありません。その示されたままの罪を悔い、胸をたたき、罪人の私を憐れんでくださいと憐れみを乞うのです。イエス・キリストに罪人の自分を告白し見上げるのです。そこに十字架のイエスが今日も言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。責任転嫁の先には不安しかありません。希望も救いもありません。しかし今日もイエスが「あなたの罪は赦されています」と宣言し、救いを与え、差し出してくださっているからこそ、私たちは今日も恵みのうちに神と一つとなり、安心して出て行くことができるのです。今日もそのまま罪の赦しを、救いの恵みを受けましょう。そして安心てここから出て行き、喜びと平安のうちに、応答し、隣人へ表していこうではありませんか。







<創世記 3章6〜13節>

6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」