2020年11月8日


「試みる者の誘惑の言葉」
創世記 3章6〜13節

1.「前回」
 前回、試みる者の「決して死なない」むしろ「食べるとき、目が開かれ、神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っておられる」というその言葉は、「神は本当か」という疑いが芽生えている彼女に、神の言葉を失った単なる五感からの感情と欲望による判断へと駆り立て、神が食べてはいけないと言ったその実を「食べるのに良く、目に慕わしく」と彼女を引きつけました。そして彼女はそれまでの神の言葉による本当の知恵よりも、悪魔の「賢くする」という言葉により惹かれ「賢くなりたい」と思ったのでした。もちろん「神のようになれる」にも惹かれました。そのように彼女は神と神の言葉を退けその実を食べ、一緒にいた夫にも与え夫も食べたのでした。そこから今の私達一人一人に受け継がれている堕落した罪の性質と心理を考え、そのように神の言葉よりも自分の思いや感情や感動を優位にする信仰の危うさはいつでも私たちに付きまとう誘惑であると学びました。そしてそれはどちらが先かの問題ではなく、アダムとエバ、両方が、同じ心の思いと行いで食べて背いたのであり、その結果はアダムとエバの両方に及んでいるとも学びました。更にそれは私達と無関係な出来事ではなく、責任転嫁をするアダムとエバを見て「私とは関係ない、私は実行した二人に比べればそんなに悪くない。二人の責任だと」思ったり言ってしまうところに私達の責任転嫁があり、私達はアダムとエバの子孫。堕落の子、紛れもない罪人であると教えられたのでした。しかしそのようにどうすることもできず、自分では這い上がり自らを救うことのできない堕落の人類のためにこそ、神は神の方から御子イエス・キリストを送ってくださり十字架の死に従わせ贖いの子羊としてくださった、そして罪の赦しを与え、更にはその御子を死からよみがえらせることによって、私達をも罪の死から新しいいのちへと日々生かしてくださる、その素晴らしい救いを改めて教えられたのでした。

2.「ふたりの目は開かれ」
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」7節
 この「二人の目は開かれ」とある言葉は試みる者の言葉にありました。
「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるそのとき、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」4:5

A,「誘惑の言葉の真の姿」
 そのように悪魔は善悪の知識の木の実を食べる時、人の「目が開ける」ことを知っていました。そして悪魔は「決して死にません」というような偽りの言葉だけではなく、「目が開ける」という、一部、神の事実を巧みに加え用いて誘惑してくる。あるいは、その「神のようになれる」とか「善悪を知るようになる」など、事実ではないけれどもそれに近いことが確かに起こるというような情報を織り交ぜて誘うのです。しかし決定的な特徴は、それらの言葉が人のために良いこととして語られているのではなく、どこまでも悪魔主観の悪魔の目的に沿った、悪魔を益するための「誘惑」であるということです。「神のようになれる」という誘いは、神にはなれないし、神のようにもなれないので偽りですが、しかし人に自己中心が入り、人自身が神であるかのようになり、まことの神をないかのようにしてしまうようになるという意味では、事実として神になったのではなくとも、一人芝居であるかのように自分が「神のようになった」思いに心を支配させたのでした。そしてそうすることによって、神と神の言葉への信頼を捨てさせることが悪魔の最大の目的でもあったのですから、誘惑の言葉は人のためではなく「悪魔のため」の言葉でした。それは神の言葉とは正反対であると気づかされます。神の言葉は神のための言葉ではなく、どこまでも被造物と人のための言葉、人のために仕える言葉、そして、堕落後も、人の救いのための言葉であったからです。ここで教えられるのは、誘惑の言葉の姿です。そのように誘惑の言葉というのは、もう明らかに分かるようなサタンの姿をした悪の言葉としてやってこないということです。分かる形できません。

B,「荒野の誘惑」マタイ4章
 事実イエスへの荒野の誘惑はそうでした。悪魔は、イエスを誘惑する時に、明らかに口汚い、万人がわかるような邪悪な聞こえの悪い言葉で誘惑してこなかったでしょう。マタ第一の誘惑は、「あなたが神の子なら」と誘います(マタイ4:3)。もちろんそこには「もし」という言葉がありますが、悪魔は「あなたは神の子だ」と知っているし認めているのです。イエスに対して「あなたは神の子だ」という言葉は敬虔な言葉です。そしてその神の子は石をパンにすることができると認めているからこそ「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」と誘惑しています。第二の誘惑はどうでしょうか。
「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き神殿の頂に立たせて言った。「あなたが神の子なら下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから」5〜6節
 ここでも「あなたが神の子なら」とありますが、悪魔は、聖書の言葉を引用しています。
「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」詩篇91篇11〜12節 
 悪魔は聖書からこの言葉を引用しました。聖書にそう書いてあるなら、そうなるのだから、その神殿の頂から身を投げても天使が助けてくれるでしょう。その通りで信じているならやって見なさい。なんと敬虔そうな言葉でしょうか。事実、繁栄の神学を教えるメガチャーチの説教はこのような説教で溢れています。こうすれば、成功します。繁栄します。ビジネスも家庭もうまくいきお金持ちになります。病気が治ります。等々。聖書を引用してです。もちろん聖書は真実な言葉でありその通りになる言葉です。しかしそれは人間の価値観や感情を中心に人間の思いや願望を乗せた魔法の言葉でもなければ、自己目的を達成実現するためのポジティブワードやそれを保証する言葉でもありません。神の言葉は「人が」ではなく「神が」その御心のままに人を用いて語りかける言葉であり、パウロのいう「十字架の言葉」(コリント第一1:18)に分かるように、罪深い世の価値観に対して逆説的な意味合いがあるでしょう。悪魔は、悪魔の主観と悪しき目的のために神を試みているに過ぎませんが、人間も人主観と自分勝手な目的のために、神の言葉を利用するなら、それはこの悪魔の誘惑と変わらないことになることを教えられます。そのように悪魔はみ言葉を巧妙に用いて誘惑するのです。敬虔そうな姿と言葉で誘惑するのです。そしてイエスへの第三の誘惑はあからさまで悪意が見えます。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」4章9節
 と。悪魔をひれ伏して拝むならとあるのですから。しかしその前です。
「イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々と栄華を見せて」4章8節
 とあります。悪魔はイエスに「この世のすべての国々と栄華を見せて」それをあなたにあげようと言っているのです。もしクリスチャンが地上のこと、人の前のことだけを見ているなら、そのようにイエスに「この世のすべての国々と栄華」が与えられるなら、なんと良いだろうと思うかもしれません。ローマの刑罰を用いた犯罪者として殺される十字架のイエスの逆説の真理よりはなんとわかりやすい。暗い十字架、分かり難い十字架、人が聞きたくない罪の十字架という方法よりこちらの方が分かり易く、全世界がキリスト教になり、キリスト教の支配だから誰もがどの国も繁栄し平和でありあらゆる問題が解決すると。世の栄華は全てキリストの手に。それは十字架とは反対ですが、地上の目、「人の前」を優先するなら、人間の理想や実利的な考え中心の世界観と道徳で国と世界の覇権をと考えるクリスチャン達にとっては、十字架よりも美味しそうな実に見えることでしょう。いやそれはいつでも私達にとっても実に巧妙な誘惑になりうることでしょう。しかし、まさにそこには「神の前」を退け、十字架を退け、「別のものを拝むなら、中心とするなら」の誘惑があるのです。それこそ、エバが陥った「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」の思いに重なっているでしょう。そのように悪魔の誘惑はアダムとエバの時からイエスへの誘惑を経て現在に至るまで悪魔の姿をしてこないのです。それはキリストの形をし羊の皮をかぶり、聖書の言葉さえ用いて敬虔な信仰の姿をしてくるのです。イエスは言われます。

C,「イエスの教え」
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやってくるが、うちは貪欲な狼です。」マタイ7:13〜15
 私達は、罪の性質ゆえに大勢の人が通ろうとする広い門が正しい道のように思えてそこを通ろうとするものです。しかしいのちに至る門は小さく、狭い、見出し難いとイエスは言います。その狭き門はご自身を指しており、人が自ら見出し得ないただ福音のみによる賜物であることを教えています。むしろ広い門が正しい道であるかのように誘う羊のなりをした貪欲な狼、悪魔が、私達を救いに至る狭い門ではなく滅びに至る広い門へと誘い続けることをイエスは教えています。またこうもあります。
「そこでイエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけてあわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかしそのようなことはみな、生みの苦しみの始めなのです。そのとき人々はあなたがたを苦しいめに会わせ殺します。またわたしの名のためにあなたがたはすべての国の人々に憎まれます。またそのときは人々が大ぜいつまづき、互いに裏切り、憎み合います。またにせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。〜そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」マタイ24:4〜24
 誘惑の声はキリストの名と聖書を掲げてやってきます。あたかも敬虔な姿、教会やキリスト教の保護者、味方としてです。しかしその代償に、争い、戦争が起こる。分断、敵意、相互に疑い、暴力、差別、優先意識、等々。世の終わりにはそのようにキリストの姿を語った偽りの教会、偽りの信仰、偽りの福音が私達を試みることでしょう。「あなた方は目が開ける。神のようになれる。」「世の栄華を見せよう。与えよう。」と。それもキリストの名においてそれを与えようと。しかしそこには誰が隠れているのか?それは偽キリストであり悪魔です。私達はどうしたら良いでしょうか。誘惑の声に対しどう区別し判断したら良いでしょうか。

3.「巧妙な誘惑に対抗するために:十字架の言葉」
 私達が、その悪魔が用いる言葉や聖書の言葉が、本当に神のみ心であるのかそうでないのか、それを判断するのは、やはり聖書であり聖書のみです。しかも悪魔が聖書の言葉さえ用いる時に、特に注意すべきなのは、私達にとって、「人が」「私が」ではなく本当に「神が」何を伝えようとし、何を与えようとしているのかを聖書から見失わず、しっかりと目をあげそこにすがることが自分を誘惑の声から救うことになります。それはイエス・キリストであり、ただイエス・キリストではない、十字架にかかって死なれたイエス・キリストとその真の福音、十字架の言葉こそ福音であるという信仰ですね。パウロは、十字架の言葉にこそ、逆説を理解でき、世の誰も思いもしなかった、神のみ心がはっきりと示され、狭いいのちの門であるキリストの道があり、それこそ神の力、知恵であることを言っています。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。?しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」コリント第一1章18、23〜24
 悪魔は人によらないこの「神の御子イエスによる十字架」こそを避けさせようとゲッセマネでイエスを誘いました。アダムとエバが目が開かれた後、彼らは自分達が裸であることを知って木の葉で裸を隠します。それは自意識、自我の目覚めです。神の恵みではなく自分が神、中心になり、それを満たそうとする罪の目覚めです。悪魔はエバにそうであったように神のみ言葉を用い律法を自分で果たそうとする人の熱心でいくらでも人を堕落させることができますが、しかし十字架の言葉、この世にとっては躓きで愚かな十字架に真の救いがあり、そこから福音による自由な平安な新しいいのちの歩みがあるとは決して語れません。誘惑の時代にある私達にとって闇に対しての光であり悪魔に対する真の武器はどこまでも十字架の言葉です。福音を正しく理解し信じることです。律法のような福音や、福音に化けた律法でもありません。人のわざや人の意思の力に未完成な福音を実現する使命がかかっているかのような間違った福音でもありません。それだと直ぐにサタンに足下をすくわれ躓きます。イエス・キリストの十字架と復活のみが我が力、我が知恵、そして律法を動機として頑張った先の人の期待通り願い通りの栄えや成功や豊かさに神がおられ祝福があるのではなく、今既に完全な十字架の福音が今日の自分の罪深き現実の命に立っておられ、今罪深い私にこそイエスはおられる。そこにこそ十字架は立っていて「あなたの罪は赦されている。安心して行きなさい」と、罪の赦しに既に祝福がありそこに平安な派遣は日々ある。その福音にこそ真のキリストはおられます。真のいのちの門、狭く人の力では通り難い門だけれども、イエスが通してくださるいのちの門があるのです。今日もイエスの十字架のゆえに罪赦された平安のうちに、安心してここから出て行きましょう。





<創世記 3章6〜13節>

6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」