2020年11月1日


「その木はまことに食べるのによく目に慕わしい」
創世記 3章6〜12節

1.「前回まで」
 3章に入り、試みる者が獣の中でもっとも賢い蛇の肉体を借りて女に現れ、誘惑したところを見ました。彼は神が言っていない言葉を取り上げ、それを「神は本当にそう言ったのか」と言う問いかけで誘惑を始めます。その「神のそれは本当か」の思いは男にも女にも、それまでになかった神に対する思いであり、そこに「本当ではないかもしれない」と言う思いが生まれ、神への「疑い」の思いを起こさせました。女はそれに対してそうは言っていないと答えるのですが、神が命じた言葉以上の言葉、つまり神が言っていない「触れてもいけない」と言う、彼女自身の熱心な一語を加え答えました。芽生えさせられた「本当か?」の疑い、そしてサタンからの当惑の言葉に神が言っていない自分の熱心さで対処しようとする彼女は、徐々に神の言葉から引き離されます。そしてそれは神が「あなた方が死ぬといけないから」と言ったからだと答えたことに対して、試みる者は言うのです。あなたがたは決して死なない。そればかりか、食べると、目が開け、神のようになり、善悪の知るようになるのを神は知っているのだと。今や「疑い」が入り、「本当か?」と言う思いが芽生え、神の言葉を超えた自分の熱心まで入っている女にとって、目の前にいる目に見える、獣の中でもっとも賢い蛇が言うその言葉には、見えない神が命じたことに対して、それを手を伸ばし食させるに十分な力があったことでしょう。神が自分達に隠しているまだ見ぬ素晴らしいもの、しかも今や、何かを隠している疑いの対象でしかないその神との対等、あるいはそれ以上の「神のようになれる」、が目の前の手に届くところに見える形であるのです。女はどう応答するでしょう。それが今日のところになります。6節にこう続いて行きます。

2.「神の言葉ではなく」
「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのによく、目に慕わしく、賢くすると言うその木は、いかにも好ましかった。」6節前半

A,「神の言葉ではなく」
 疑いの芽生えから始まり、さらには、その疑いの神が隠しているものを、「目が開かれ」わかるようになる。しかも「神のようになれる」というその思いの中で、彼女の判断の拠り所は、今や見えない神の見えない言葉ではなく、感じることのできる彼女の五感と欲望に移って行きます。それまでは神の言葉が常に先立ち全てを備えてきました。なすべこと、なしてはいけないことをを示しきました。そこには姿は見えないけれど、自分達を安心させる存在であり拠り所である神と神の言葉であったことでしょう。しかし今やそれは損なわれていて彼女にとってはどこかへ行ってしまいました。「心に」芽生えた疑いの感情、「目に」見える賢い誘惑者のその「耳」に語られたばかりの新鮮な言葉と、「目」の前の木の実への判断は、その五感で感じるままの自分とその欲望でしかなくなっています。まずは自分の「目」に見えるその木とその実、食べるのに良く、美味しそうなのです。そして「目に慕わしい」、神の言葉という基準を失った、目で見たままの感情と感動があるわけです・み言葉を失った、その見たまま感じたままの「目に慕わしい」というその感動は、自分の感情を刺激してきます。誤解してはいけないのは、感情も神が与えくれたものであり、感動もそうでしょう。しかしその感情や感動は、何にも先に知恵のはじめとなり人が生きるための霊的な糧となり、そして真理の道を導き判断の基準となるものでは決してありませんでした。どこまでも目に見えない神の、その言葉がいのちを生じさせ、全ての良き必要を備えその歩みを平安のうちに導くものであったでしょう。しかし今や女にとってはその言葉が失われています。そして神の言葉を失ったそのただ肉の目に見える感動、感情、欲望によって心が占められてしまっているのです。

B,「自分が感じるままに」
 今の私達の世の中や、あるいは教会や信仰においてはどうこのことが適用できるでしょうか。私達が日々神のみ言葉を通して律法によって罪を示され悔い、そこに本当にイエスが与えてくださった純粋な十字架と復活の福音によって罪赦され新しくされていることに真に感動できるなら幸いです。しかし今や、この自由で誰でも好き嫌いで取捨選択でき、他者からの承認こそを求め、その自己愛や承認欲求に呼応するように発展成功する現代社会において、どれだけそのような人々の感情を刺激し感動を獲得できるかに利益がかかっていると、その獲得競争で世の中は動いていますし、私達もそのように流されやすい存在です。その大きな流れは、政治などにも入り込んできています。そして教会にさえも容易に入り込んできます。そのような人々がどう感じるか、感動するか、あるいは彼らの自己愛や承認欲求をどう満たしてあげるかが最優先されることによって、聖書を人の感情や感動のニーズの基準に服従させるものとなってしまったりします。聖書を通して神が、イエスがどう教えているかの説教や教えではなく、人がその聖句を読んで、「私はどう感じるか」が解釈の基準になってしまい、どう感じるかに聖書を合わせて行くような、人間中心の聖書解釈や、教え、説教になってしまうことがあります。ディボーションや聖書朗読を毎日一生懸命することが奨励され実行されても、そこには「感じるままに自由に解釈すればいい」「感じるままにみ言葉を理解し教えられればいい」というように言われたりもします。そのような読み方が正しいと思っているクリスチャンは結構いるようです。しかしそのようにしていくことによって、人間中心の感情や感動から見るならば好ましくない、あまり語って欲しくないことは不利益、大事ではない、必要ないとされやすくなります。例えば罪の教えなどは脇に寄せられるようになって行きます。そこでは良い行いをすれば成功する、成長する、祝福されると刺激する律法は語られても、人の罪を指摘するための律法は脇に寄せられます。そして悔い改めも脇に寄せられ、必然的に罪の赦しである十字架さえ脇に寄せられるようになります。神の前と自分の罪を知って苦しでいるものには、十字架はまさに神の与えてくださる感動そのものです。しかし罪がそもそも語られないなら、十字架にある本当の神の賜物である罪の赦しは絶対にわかりません。もはや裁きに聞こえたり暗いイメージのものにしか映らなかったり、そのように罪を示す律法が排除されれば十字架の福音が脇に寄せられるのは必然になります。あるいはこういうことも良く聞きます。罪や悔い改め抜きでイエスのことや十字架も一応語るかもしれないけれども、その十字架のイエスを別の形に変えて、耳に聞こえがよい世的な例話を散りばめた感情を刺激する人間的な愛の形に変えて教えたりということも起こります。「神の愛」と教えながら、その愛の本質であるキリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったということの意味をぼかしたり薄くしたりしてしまったり、愛に生きるとということも、その十字架のゆえに、日々悔い改め、日々罪赦され、日々新しくされて生きるということではなくて、現代の人が求めるような自己愛を刺激するような歪められた人間に都合のいい神の愛とそこに元気の出るような行いを促す律法がセットになって語られたり教えられたりすることもあります。事実、そのような福音のような律法こそ人々の感情を刺激しやる気意識を高揚させ感動を与えるようで、多くの人がそのような「別の福音」を求めて集まってくるようです。しかし神中心でも正しい福音でもなく、人間中心の感情と感動の論理は罪の初めにあったこの女の感情とそこに生まれる判断や行動と同じと気づかされます。

C,「知恵はどこから」
「賢くすると言うその木は、いかにも好ましかった。」
 賢さ、知恵。女は刺激されていますが、しかしその賢さや知恵も、彼女は自分の欲求のまま自分の目に見える感覚や感情によって求めています。聖書にははっきりと書いているでしょう。
「主を恐れることは知識の初めである」箴言1:7
 と。女はここで知恵や知識を自分の欲望のままに得ようとすることによって、知恵についての根本的な真理の視点を失っています。真に知恵あるもの、賢くするのは、主を恐れること、つまり神を信じ信頼すること、そしてその信頼に基づいて神に従うことに始まる、つまり神と神のことばから来る、というのが聖書の教えです。事実、1、2章の神の似姿である人間の本来の姿はそうであったでしょう。その天地万物を創造し、動物に命を与え、そして地のちりから形作られた人間にいのちの息を吹きかけ生き物としたその神の言葉こそが人間を始め全ての被造物の必要を満たしてきました。その神の言葉によってこそ日々の歩みがあり、その真実な導く言葉であるからこそ人は拠り所とでき、そこに安心があり信頼があったからこそ人は平安のうちに歩んでいたでしょう。そしてわかることもわからないことも、神に与えられた安心で安全な知識となりました。わからないことをわからないままにしておくことも彼らに与えられた知識であり知恵であり彼らの賢さであったでしょう。事実、全てがわかることが賢いのではありません。人間が神の領域を犯してまでもその領域に入り込み、自分の考えや熱心を付け加えて成り立ち、知的にも技術的にも文化的にも発展した人間社会ですが、そこでは人間の自己中心な熱心が、縦横無尽に欲望や感情のままに、自然や環境、人や政治を支配しています。しかしそのような姿は本当に賢いことではなく、それは人間が裸の王様のようになった、愚かな姿であり行為ではありませんか。なんでもわかること、なんでも人間の思いのままに上手く行ったり、うまくいかせようとしたり、そのように操作、コントロールしたりすることは、「人の前」には賢い、世回り上手で、成功と呼ばれ、人々の賞賛と人気もあることでしょう。発展と繁栄もあることでしょう。しかし「神の前」には見事なまでに愚かではありませんか。同じように教会やクリスチャンにとってはどうでしょう。神の恵みのみ、福音に生かされることこそをクリスチャンの全てであるとパウロもいい、私たちも信じていながら、目の見える目の前のことに翻弄され、自分たちの熱心な一語や行動や意思の力、人間の正義を加えることで、律法を刺激に信仰を生きさせようとすることも、人の前には優れた方法論になりえても「神の前」にはあまりにも愚かです。むしろそのような世のしるしや知恵を求める人にとっては、真の知恵である十字架の言葉は愚かで躓きに必ずなります。十字架の言葉は脇に寄せられます。しかし十字架の言葉、十字架にかけられたキリストは、召されたものにとっては神の力、神の知恵だと、パウロははっきりと言っています(第一コリント1:23〜24)。世の求める知恵と神の与える真の知恵は逆説的です。私達はアダムとエバのように、悪によって誘惑された賢くするという、目の前の慕わしい、賢くするというその実を食べたものの子孫であり遺伝子を持っています。どこに真の知恵があるのか、私たちはその逆説を学ぶべきです。今や神の恵みと福音によって救われた私達は、もはやエバのようにその知恵を得るのではありません。それは堕落したままの罪深い人間のそのままの行動です。その先には、十字架を前にしても、それは躓きと愚かだという認識と知恵しかありません。しかし十字架の言葉によって信仰が与えられ、救われた私達にとって、そのイエス・キリストへの信仰、十字架の言葉こそ、神の力、神の知恵になるのです。何が本当に知恵深く、本当に愚かなことなのか、私達はいつでも信仰において示されていることを忘れてはいけません。真の賢さ、真の知恵は、神の前に恐れ、その神の言葉に信頼し、今やはっきりと示された救いの啓示である、イエス・キリストの十字架と復活の福音にこそあるのです。

3.「二人は食べた」
 女はその欲望と感情のままに、誘惑の言葉に陥ります。
「それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」6節後半

A,「ナンセンスな議論」
 女はその実を取って食べます。そして一緒にいた夫にも与えます。夫もそれを食べました。ここでよく言われる愚かな議論はやめましょう。女が最初に食べた、女がそそのかした。だから女がより男より悪い。どちらがより優れている、どちらがより悪い、という議論は、創造の記録から見ても神のみ心に照らせばナンセンスであることは見てきた通りです。そんなことは全く重要ではありません。神は男と女を、互いに助け合い、支え合い、仕え合い、愛し合うために創造したのであり、ともに助け合って、生き物や人間が神の祝福を取り付いていくのを助けるように神はその存在を与えたのですから。それが神の「非常によかった」であり、それが神の似姿の本当の意味であったでしょう。ここではどちらが悪いの問題は、まさにエバのように、神の言葉への人間の感情や正義の介入であり、あまりにも愚かで罪な議論です。むしろ今の世界を見れば男が女に悪を渡しそそのかしたり騙したりすることも溢れています。ここはどちらが先であるという問題ではなく、どちらも神の言葉への疑いが起こりどちらもそれを食べたということが問題なのす。もちろんこの後、いずれ見て行きますが、男は言い訳をしています。

B,「責任転嫁」
「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので私は食べたのです。」12節
 と。責任転嫁です。しかしあの木から彼女が取ってくれたのを「一緒にいた」(6節)彼は見ているのです。取ってないから罪がないとは神はしていません。神はその心を見られる方だと聖書にはあります。取っていなくても、一心同体の夫婦はその心においても夫が同じ心を持っていたことを神は見抜いていたでしょう。一緒にいた夫は、女と同じ疑いに支配され、同じように「神のようになれる」、その木を見て、食べるのによく慕わしく思い、食べて賢くなりたいと思ったのであり、それまでのみ言葉に信頼し、従い、神を恐れ、信じるところにある真の知恵ではなく、神が自分たちに隠していること全てを神のようになって自分も知りたいと思ったことを、神はしっかりと見ていたということです。女だけではない、男も等しく同じ誘惑に負け、目に見えない神の言葉よりも、目に見える最も賢い蛇のその偽りの言葉を信じ、どちらも食べた、どちらも神の言葉に背いたのでした。事実その実は、神が言われたとおりの結果をもたらし、どちらも堕落し、どちらにも罪が入り、どちらにも死が入るのです。

C,「無関係なこと?私達の責任転嫁」
 そしてその同じ結果は、私達一人一人のところに確実にきています。そうでないという人はいないでしょう。堕落の結果は、私達の今の現実なのです。つまりそのことからわかるでしょう。このところは、誰にでも、責任転嫁をさえ「自分は関係ない」と罪の声は誘ってくるのです。男が悪いんだ。いや女が悪いんだ。いや、この女を私に与えた神が悪いんだ。しかしここにはそれと同時に、いやそれ以上に、もう一つの責任転嫁が実はあります。それは現代の私達がここを読むときに多くの人は思うでしょう。それはアダムとエバが悪いのであり、自分は関係ないのだと。「直接取って食べた彼らよりも自分達はそんなには悪くない。」「自分だったら決して食べなかったのに」「遠い昔のおとぎ話のような話の主人公のことは私達には関係ない」と。そのようにして私達も現在の私達一人一人のその心にある、アダムとエバと変わらない心理、性質、そして罪の結果の現実や、神の前にあって隠すことのできない、心の罪深さ、醜さ、汚さを、あたかもないかのようにして、他人ごとのようにしていたり、責任転嫁をしてしまうのです。そのようにしてあのイエスの例え話にある神殿に祈りにきたはずのパリサイ人のように(ルカ18:10〜14)、自分の神の前の罪深さを悔いるのではなく、自分の立派な行いで自分を正当化して、「この隣の取税人のようではないことを感謝します」とは祈らなくても、私はこの罪人のようではない、このアダムのようではない、このエバのようではない、と無関係の傍観者になろうとするでしょう。そうではありません。アダムとエバは私自身です。彼らの子であるカインも私自身です。神の前に汚い心、罪人の私です。そして世の誰であっても一人一人、誰一人無関係であることが出来ない現実がある。誰も責任転嫁ができない、言い訳できない、心を見られる神の前にある罪人の一人一人なのです。

4.「その罪人である私達のところへ」
 しかし、このような罪に堕ちた私達、自分では誰もその堕ちた穴から、天国に這い上がることはできない、そんな私達のその暗闇の穴の底に、神の方から天のはしごを下ろし、私達のところに来てくださったでしょう。あの罪深いヤコブのところに来てその夢を見せてくださったでしょう。同じように、その暗い穴底の最も貧しい飼い葉桶の上にイエスは人としてきてくださり、罪人の食卓に、村の境に追いやられた見捨てられた病人に、悪霊に取り憑かれた人に、姦淫の女のところに、イエスは来られて友となれたでしょう。どこまでも罪深い、漁師達、取税人などを弟子として招いたでしょう。そして皆が救い主ではなかったと躓いたその十字架の上でこそ神のみ心は果たされ、イエスは全ての罪人のために贖いの子羊となられ死なれます。しかしイエスの贖いの死、その罪の代価が支払われたからこそ、どん底から神が罪のないものとして引きあげてくださった。買い戻してくだ去ったそのイエスのいのちの代価のゆえに、今や、私達のどんな罪も心のどんな奥底にある汚い罪も、神への責任転嫁さえも、全て罪のないものとして赦されれ、私達は安心して神の前に立つことができ、神の前に安心だからこそ私達は安心してここから罪の世へ、神の塩、神の光として遣わされていくことが出来ます。その十字架と復活のイエス様は今日も福音の宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。平安のうちにここから出て行こうではありませんか。




<創世記 3章6〜12節>

6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」