2020年10月25日


「神は本当に言われたのですか」
創世記 3章1〜5節

1.「前回」
 神が創造し、あるものには命を与え、そしてそれらを見て「非常によかった」と言われたその世界を、神は一番最後に創造し命を与えられ生き物となった人間に治めるように託されます。それは神が初めから被造物を愛し祝福し仕えることによって治めてきたのと同じように、神の似姿として創造された人間もその神のことばと思いに従って全てのものを愛し仕え、そして産み増えていくことによって祝福を取り次いでいくよう治めていくことを託されたのでした。そして神は人自身も同じように祝福を受け継いでいき互いに助け合って被造物を収めていくようにと女性を創造し男性と出会わせました。その男と女の関係には最も基本的な人と人の関係があり、それは互いが互いを尊敬しそれぞれに与えられた役割に従って互いに仕え助け合って神から与えられた目的を果たしていくことに関係の意味があったのでした。しかしこの3章ではその神と人との関係が全て損なわれていく、堕落の重大さが教えられるのです。

2.「蛇」
「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。」
 「蛇」は、英語でsnakeという言葉ではあるのですが、英語の聖書(ESV)ですと”serpant”という言葉が使われています。serpantにも蛇という意味はありますが、陰険な人、狡猾な人、悪意のある人という意味があり、theがついてSerpantと、最初を大文字で書いた意味だと「悪魔」という意味です。ヘブル語では、ナーハーシュで一般的な意味は蛇となります。とは言っても蛇が最初からサタンであるということではありません。蛇は神が創造された被造物であり一般的には地を這う動物か野の獣のいずれかのグループに属する存在であったでしょう。ですから蛇は最初から悪であったということではありません。ここでは1節後半の蛇の言葉、行動について、分脈的にはサタンがそのような一匹の蛇の肉体に入ったか、あるいは蛇の姿で現れたのかのどちらかでしょう。その蛇という存在について「神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった」とあるのです。「賢い」(crafty/ESV)という言葉、アールームですが、その言葉は、箴言では肯定的な意味で使われていますが(“prudent,” 12:16, 23; 13:16; 14:8, 15, 18; 22:3; 27:12)、ヨブ記ですと、否定的な意味で用いられています。(“crafty,” Jb 5:12; 15:5)。創世記のここでアールームが用いられているのは、直前の節である2章25節で「裸」という言葉、アーロームからの駄洒落あるいは言葉遊びがあるのではとも言われています。いずれにしましても、蛇という生き物は、野の生き物のなかで、もっとも賢い存在ではあったようなのです。そのもっとも賢いと言うその「賢さ」こそを、試みるもの、サタンは目をつけ利用したのかもしれません。1節後半こう続いています。

3.「神は本当に言われたのか」
「蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」1節後半
 蛇は言います。「神は本当に言われたのか」と。「それは本当か?」ー誘惑する者の最初の誘惑は神の言葉を疑わせることでした。この時まで人は神の言葉によってこそ導かれ安心もあったでしょう。その言葉は人が安心して生きるための全ての必要を備え、食べるものも備え与えてきたその言葉でした。そしてその園に神が生えさせた木々とその実について神の言葉は、
「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ」2章6〜7節
 でした。女はもちろんその言葉を知っていました。3章2〜3節でその神が言ったことで応答しているのですから。しかしこの1節で誘惑する者の声は正しくない偽りの言葉でまず語りかけます。神は「園のどの木からでも思いのまま食べても良い」と言ったのに、誘惑する者は「園の木のどれからも食べてはならない」となっていて、それを「神は本当にそう言われたのか」と言う尋ね方です。それに対する女の答えは「そうは言っていない」になることでしょうけれどもそこにも巧妙な落とし穴があるのす。女は神が言ったことはこうであったと答えるのですが、まずここに「神は、本当か?」と言う思いが芽生えさせられることになります。それまではその思いはなかったことでしょう。神の言葉は、真実であり、真実だからこそ信頼も安心もありました。しかし「本当か?」と言う言葉にに生まれる心理的作用があります。「本当か?」の裏側には「本当ではない」が大なり小なり生まれます。そしてそこには人にはわからない何か隠されたものが神にはあるかのような思いが生まれるでしょう。そしてそうなると信頼や安心も少しずつ崩れてくることになり、その崩れた安心、不安や恐れからなんとか自分で安心させようとする作用も生まれるでしょう。誘惑する者はこのように実に巧みにこの最初の言葉を投げかけ、人の心に疑いの種を見事に植え付けるのです。そしてその種はサタンのさらなる巧妙さによってどんどん大きくなっていくのです。女はそうは言っていないと答えます。

4.「熱心な一語」
「女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」3章2〜3節
 女は神が言った通りの言葉であるかのように返します。しかしはっきりと神が言っていない女が付け加えている言葉があります。「それに触れてもいけない」と。確かにこの「触れてはいけない」と言う言葉は、アダムとエバから生まれた敬虔さ、服従さの現れのように見えます。自ら「触れてはいけない」と加えることで「本当か?」の思いを打ち消し自分が神の言葉を守り従うのだと。しかし神が言った言葉に人の言葉を付け加えることによって、それが人のどんな熱心で服従的な思いや言葉であっても神のみ言葉にその人の言葉や思いを加えるときに、神の真実さに介入することになり、多くの場合、神を操作することにさえなります。その最たる事は、いつの時代もあります。それは、義認は福音の言葉であり信仰も福音であるはずなのに、しかしそれに人間の熱心さと敬虔そうな言葉を加える事で、教会の歴史は繰り返し福音を律法に捻じ曲げてきたでしょう。福音だけでは不十分だ。受けるだけでは不十分だ。聞くだけでは不十分だ。消極的だ。私たちの方で、意志と行動で、加えてこれこれをしなければいけない。そうしなければ、救われない。祝福されない。神の栄光をあらわせないと。それは教会を超えて政治にさえ影響を及ぼし、神のみ旨と称して、社会や政治を思いのままに操作しようとする事は、キリスト教信仰の強い国ほど行われていたり、それはイスラムの国でも同じような人による信仰操作があります。あるいは信仰は福音を通しての神の賜物であり恵みであるのに、その神からの恵みの贈り物である信仰を、人は簡単に人のわざや意志や目に見える功績によるものにしようとしてしまう。多くの人は信仰をそのような律法的なものだと思ってしまっている。そのようにして福音に人の言葉や熱心を加える事で、パウロが警告したように、簡単に福音を別のもう一つの福音に変えてしまうと言う事は、歴史的に絶えず教会に起こり、また陥る誘惑です。ルターの時代もせっかく聖書のみ言葉に忠実になって信仰義認の信仰を回復したその改革であったのにも関わらず、宗教改革者側から、結局は神の言葉のみではなく、直接、聖霊が自分の心や感情に語りかけたことを神の真理であるかのように付け加え、それに従って行動するのが敬虔なんだと、聖書にはない新たな律法と熱心な服従で宗教改革をリードしようとするリーダーが複数登場し教会は混乱することになります。熱狂主義と呼ばれれる人々でした。彼らは熱心なのですが、しかし福音による平安で導くのではなく律法と義務で導いたために教会で裁きあいが生まれ過激になりました。そのように律法を福音のように教えたり福音を律法に変えてしまった歴史は繰り返されるのです。今もです。それはパウロから言わせれば「天の御使いであろうとも福音に反することを宣べ伝えるなら呪われよ」なのです。このように熱心な一語を加える事。エバは一語だけではなく、詳しく部分部分を見て照らし合わせていけば、さらに神が言ったこととは違うことを言っているのですが、そのようにアダムとエバの熱心な神への服従に見えて、神の言葉に神が言っていないことで自分の思いを介入させようとする事は巧妙な惑わしであり落とし穴なのです。ルーテル教会の信仰告白では「悪魔は、アダムとエバを、熱狂主義者へと変えてしまった」(SAIII VIII5)とも書かれてあります。私たちにはイエス・キリストのゆえに完全な福音が与えられています。使徒たちが伝えパウロが伝えた福音、イエス・キリストの十字架と復活の福音に足し引きもできないですし、まして福音をを律法に変えたり装って律法を福音であるかのように伝える事はイエスが使徒たちにも教会にも託した事では決してありません。福音が未完成で私達が自分たちの行いや社会貢献で福音を完成させるかのような教えはもはや福音ではなく律法なのです。そのように疑いと、罪の初めに神の言葉に自分たちの熱心な一語を加える事があったのです。そしてそのような熱心な言葉でサタンの誘惑に対して正しい回答をしているようでその心の隙を付け入られることになっていきます。

5.「偽りの言葉」
「そこで蛇は女に言った。あなた方は決して死にません。」4節

A,「あなた方は決して死にません」
 蛇は言います。「あなた方は決して死にません」と。それは二重の意味で嘘です。なぜなら確かに肉体はその時は死にません。しかし食べるときに死が入り人は誰でもやがて必ず死んで地のちりに帰る存在になります。そしてその時は肉体は死ななくても、霊の糧を見失い、いのちの木からも絶対的に遠ざけられ、神と神の言葉への疑いと否定と、自分が神のようになり、神との平安な関係が断絶させられるため霊的には死んだものになります。ですから誘惑する者の「決して死にません」は嘘そのものであり、真理は神が言われた通り「必ず死ぬ」なのです。そして絶対的な偽りにサタンは今や疑いにある女に決定的な誘惑の一言を加えるのです。

B,「「本当か?」は膨らむ。神は知っている?」
「あなた方はそれを食べる時、あなた方の目が開け、あなた方は神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」5節
 と。目は開ける。神のようになる。善悪を知るようになる。サタンは言います。神は言いました。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ」と言われましたが、「本当か?」という最初の誘惑の言葉によって疑いは芽生えています。そして食べてはいけないというその「善悪の知識の木」、しかしこの賢い蛇は、それを食べると善悪を知るようになり、神はそれを知っているという。神はこの蛇が言うその素晴らしい善悪を知ることを自分たちに隠しているのか、と。まさに、一つの「本当か?」はどこまでも広がっていくでしょう。そして「人のため」の「食べてはいけない」を、人は履き違えることになります。神が「神のために」自分たちには隠している、素晴らしいことがあると。それが今やこの「最も賢い」蛇によって明らかにされた。これを食べるだけで閉ざされた目は開かれる。隠されていた善悪を知ることができると賢い蛇が明らかにしてくれている。なんという欲求を刺激する誘惑でしょうか。まさに知りたい欲に溢れ、私達の日々起こる「なぜ?」「どうして?」の矛盾や疑問への完全な解決と答えが、それを食べる時そこにあるのだと言われるならば、私達でも飛びついて食べてしまいます。そしてさらなる決定的な言葉「神のようになり」という言葉です。

C,「神のように」
 「本当か?」から始まった疑い、そして神の言葉に自分たちの熱心さを付け加える応答、それはあたかも神と人の対等な共同声明であるかのような応答であり、神と人との対等な共同作業、功績であるかのような錯覚に陥ります。人間の側から見れば美しい共同、共同作業、敬虔さに見えるかもしれません。そしてその神との共同作業や共同声明の誘惑は「神のようになれる」の言葉によって決定的なものになるでしょう。いや、「本当か?」の最初の誘惑から始まり「神のようになれる」なのですから、共同どころかそれさえ超えもはや「神になる」なのです。神は二人存在できません。ですから「神になる」は、本当の神を引き摺り落とし自分が神になることです。「神のようになれる」は最悪の禁断の実なのです。

D,「堕落の現実にある世界」
 その誘惑に対して人はどうするでしょう。次回見て行きますが、ご存知のように人は食べるのです。その結果は人間の今の現実そのものです。その悪魔の陥れようとしたところにこそ人は落ちているでしょう。神について、「本当か?」、その言葉も存在も信じられない。人は言います。そのように生まれてきます。そして今や人が神のように振る舞い、神がしたようにではなく、人が神のようになって縦横無尽に自然や被造物を力と自己中心な思いで支配しているでしょう。隣人や隣国に対してはどうでしょう。誰もどんな綺麗事を言っても、自分中心、自国ファーストで動いて選択します。自分の思い通りならないと、怒り、悲しみ、不満を言い、裁き、攻撃するでしょう。それはクリスチャンも「聖徒であり同時に肉にあっては罪人」なのですから例外ではありません。神との協力を教える神人協力の教えは律法的で合理的に世の中では作用し、に見える期待通りの功績を教会に達成するかもしれません。しかしそれも神の言葉に人の言葉と願望を介入させ、神を人が操作したり利用しての結果になってしまっているなら、それは人の前には成功であっても神の前にはどうなのかは問われる必要がある大事なことだと言えるでしょう。

6.「終わりに」
 堕落の現実の中にある人間、ゆえに私達は神の前に、救いのためにも神の国のためにも何もなし得ません。しかしそんな私達へ、私達の功績や熱心によってではなく完全な福音のその恵みによって信仰が与えられ、イエスの十字架によってこそ日々罪に死に日々赦され、復活のいのちによって日々新しくされている。そこにこそ本来あった神との平安な関係と神に信頼した本当のいのちの日々があることを教えられます。その回復こそ今日も、このイエス・キリストの十字架にこそあります。今日も復活のイエスはここでみ言葉を通して私達に宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。




<創世記 3章1〜5節>

1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」