2020年10月18日


「心を騒がせないために」(召天者記念礼拝)
ヨハネによる福音書 14章1〜9節

1.「はじめに」
 キリスト教において、召天記念礼拝は、私たちの主なるイエスから私たちのための、死を超えた希望の言葉の時です。このイエスの言葉もまた、死は終わりではなく、その先には、世に残された私たちへの一つの希望があることを伝えてくれています。イエスは、この時、最後の晩餐の時ですが、ご自身が迎える「死」を見ています。しかしそれは病気などの死ではなく「十字架の死」です。それは、この後、罪がないにもかかわらず、ご自身が逮捕され、ピラトの前で裁判をされ、罵られ、鞭打たれ、ローマの重罪人の極刑である十字架刑で処刑されることを全て分かっていての「自分の死」を見ているのです。しかし、その死を前にして、イエスはいうのです。

2.「心を騒がしてはなりません」
「あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」1節
 と。イエスのその死は壮絶なものになります。ご自身も分かっています。人はそうであるなら誰でも「心騒ぐ」ものです。当然のことです。イエスの周りもそうでしょう。イエスは弟子たちが、ご自身の死に直面する時に、心騒ぎ、絶望するのです。イエスは、そのことをも知っています。しかしイエスはそんな弟子たちにいうのです。
「あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」1節
 と。イエスは、そのやがて迎える死は、それが死ぬものにとっても、また残されるものにとっても、それは「心騒がせる」ことに決して終わらないということをつたえたいのでした。私たちが生きる時に、恐れ、不安、悲しみの連続です。自分や世の中の様々なことに失望もします。絶望もあるでしょう。そのように私たちには、人生に「心騒ぐ」ことは数え切れないほど沢山起こってきますね。そして、誰もがやがて必ず迎える「死」はその究極とも言えます。しかし、イエス様はその死を前にし、しかも分かっていながら、「あなた方は心を騒がしてはなりません」と私たちに語りかけています。どうしてでしょうか。

3.「行くべき父の家の住まい」
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなた方に言っておいたでしょう。あなた方のために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしがあなた方に場所を備えたら、またきて、あなた方をわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなた方をもともにおらせるためです。わたしの行く道はあなた方も知っています。」ヨハネ14章2〜4節
 イエスは何を私たちに伝えたいのでしょうか。第一に言えることは、父の家、つまり、天の御国、神の国のことを言っています。そしてイエスは「住まい」と言っています。人は必ずアインデンティーを持っています。家柄であったり、出身都道府県、国や民族などなど、様々ですが、大事なものです。ここで「住まい」というのも、1つのアイデンティティーですが、「住まい」ですから、それは「居場所」「帰るところ」です。ですから、父の家に「住まい」があるといい、「あなた方のために」それを「備えに行く」とイエスが言っていることには、幸いな事実が伝えらえれています。それはイエスは、私たちが帰るべき本当の家があり、しかもそれは地上のどこかの国や家ではなく、「父の家」つまり「天の神のそば」であることを、指し示しているということです。聖書はむしろ、この世の生は、むしろ仮の住まい、あるいは、聖書では「旅人であり、寄留者である」ということを伝えています。
「これらの人々は皆、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していました。」ヘブル11章13節
 と。地上では旅人であり寄留者であるとあります。しかしその人々も「はるかにそれを見ていた」つまり「未来のまだ見ぬ約束」に見ていたものがあったというのです。それは何でしょうか?こう続いていますね。
「彼らはこのように言う事によって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出てきた故郷のことの思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられたのです。」ヘブル11章14〜16節
 彼らは、「さらに優れた故郷」、つまり「帰る国」です。そこを見て希望を持っていたというのです。今日のところと同じ約束があるでしょう。そして同じように、神は彼らのために、ここでも「「都」を用意しておられた」、ともあるのです。このように聖書は死を超えたところに希望を指し示すのです。神にとって、そして何よりイエスにあるなら、死は終わりではありません。イエスは復活の主、いのちの主、生ける主、日々新しい新生の主ではありませんか。そのイエスが約束されているのです。天に帰るべき住まいが用意されていると。その通りに、帰るべき真の「住まい」が、帰るべき真の「故郷が」待っているのです。召天者の兄姉はそこに帰ったのです。ですからイエスにあって「死」は終わりではないだけでなく、やがて同じ真の住まいで、真の故郷で再会できる、希望を私たちに約束しているものなのです。だから「心騒がしてはなりません」なのです。

4.「信仰による希望と平安」
 しかしそれらの希望も約束も、天の御国も、ここに「神を信じ、またわたしを信じなさい」とある通り、肉の目や理性や知識による理解ではなく、「信仰によって」こそ見ることができ、不安がなくなり、信仰によってこそ「心騒がせる」必要はなくなるということをイエスは伝えていることもわかるのです。4節にイエスのこんな言葉があります。それは「わたしの行く道はあなた方も知っています」という言葉です。それはすでに知っていること、つまりすでに明らかにされていることだということです。つまり、天の御国は、すでに明らかにされていて、あなた方は知っているではないか、とイエスは言っているのです。どうでしょう。まだ死んでいない弟子たちに、そう言っているのですから、実に不思議な言葉です。そのように天の御国は、死んでから知ることができるものではなく、死の前に弟子たち、つまり私たちにも「既に」明らかにされていると、イエスは言っている事になります。しかし、それに対してトマスは言います。
「トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」14章5節
 トマスは、イエスの言っていることが「わからない」と言います。「どこに父の家が、住まいが、見えるのか?わかるのか?全く見えないではないか。どこにも実現していないではないか?」そのようにトマスは言うのです。それは8節のピリポも同じです。彼はこう言っています。
「ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」14章8節
 みなさん。以前も繰り返し触れてきましたように、弟子たちの信仰、そして同時に疑いは紙一重であり、彼らにはどちらもあることがわかります。信じていながら、しかし疑っているのです。「〜すれば、満足します」と言っているように、つまり「満足していない」のです。そしてそれは、「見せてください」とあるように、彼らはそれを「自分たちの目で見れない」から、満足していないのです。トマスも同じです。彼らは「神の国」も、「救い」も、彼ら自身の「目に見えるもの」「自分で知覚できる」ものとしてしか捉えていないのです。そして「満足」も自分のそのような五感にあったものかどうかに基準があるのがわかるでしょう。「見ることができたら、そこに神がいると信じる、満足する」ということです。これはどこまでも人間が中心、基準、土台で神を見よう、探そうとする、信仰を理解する見方です。
 しかし神の国はそのようなものではないことがここからわかります。いや、そのような人間自らの何かによっては、「神の国」「天国」はどのようなものかわからない、理解できない、信じることもできない、もちろん行くこともできない現実が、ここにはあります。しかしそのような彼らに対して、イエスは、「わたしの行く道はあなた方も知っています。」と言っている事実です。すでに示され、表されているということです。実に不思議なやりとりです。噛み合っていないことがわかり、弟子たちは全く理解できていません。そうであるなら、いったい、神の国はどこにあり、どこに開かれ、どのようにして知りうるのでしょう。それは「信仰によって」です。

5.「イエス・キリストを通して」
 しかも「何への信仰」でしょう。これも示されているでしょう。イエスははっきりとその答えを伝えているのです。
「イエスは彼らに言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」14章6節
 そしてこうも続けているでしょう。
「あなた方はもしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなた方は父を知っており、また、すでに父を見たのです。」14章7節
 「父なる神を見せろ。そうすれば満足する」というピリポに対してはこう言っています。9節途中。
「あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』というのですか。」14章9節
 聖書にある通り、神の国、天の御国は確かにあります。しかしそれがどのようなところか、またいつとかどんな時とかも、それは誰もわかりません。ただその様子の一部を窺い知ることができますが、そこでは「死も悲しみも涙もない」とあるような、今の世にはなく目に見えない「平安」のことを示しています。私たちはトマスやピリポがそうであった様に、私たちの五感や肉の力で神、神がどこにいるのか。神の国はどうであるのかをしようとしてもそれはわからないのです。しかし、イエスがこの言葉からはっきりと示すのは何でしょうか?それはイエスご自身です。「わたしを見た者は父を見た」とまで言っています。そして指し示しているでしょう。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」14章6節
 イエスが示されたのは、イエスこそ道であり、真理であり、いのちであるということが全てです。その道であるイエスを、真理であるイエスを、いのちであるイエスを通らなければ、誰も父に会えない、父がわからない、父を信じることができない、そのイエスを通して信仰で見るのでなければ、天の御国もその神のわざも理解できない、そう断言しています。しかし、ご自身が示されているその通り、イエスを通してこそ、神はわかる、天の御国は開かれていて、「あなたがすでに知っていること」になると言うことでしょう。イエス・キリストにこそ、そしてイエス・キリストの十字架にこそ、神は、神のみ心は、神の救いは、神の天の国は、はっきりと示されているということです。

6.「終わりに」
 キリスト教以外の宗教にとって、葬儀や告別式、このような記念の法事などは、どうしても死者を祀るものであり、死者が主役であり、死者を指し示し、死者を思うものです。しかし、キリスト教においては、死者を祀るのでも死者が主役でもありません。今日イエスが、召天記念というこの礼拝とみことばによって指し示し導いているのは、イエスが約束しイエスが与える平安な生き方と絶ゆることのないいのちと、その希望なのです。そして、そのイエスの約束も恵みも希望も、私たちには計り知れず大きいからこそ、私たちはまだ見ぬものも、そして人間の理解や理性では計り知れない、わからないことも、召天者の霊とともにすべてをそのイエスに委ねることができるのであり、だからこそ、また私たちは安心と希望も消えないのです。十字架のイエス・キリストが、今日もその約束を持って、私たちが見上げるべきところを指し示しているのです。そうこの十字架と復活のイエスを。そのイエスが今日も言ってくださいます。「あなたの罪は赦されています。恐るな。心配するな。あなたはわたしのものだ。安心して行きなさい。」と。ぜひ、この召天記念の時、イエスにある平安と希望のうちに、ここから出て行きましょう。そして、私たちには死を超えていのちの希望があることに生き、証ししていこうではありませんか。




<聖書箇所> 新約聖書:ヨハネによる福音書 14章1〜9節

1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。