2020年10月11日


「「一体」であることの恵み」
創世記 2章23〜25節

1.「前回」
 前回は、神が「人が一人でいるのは良くない」と、人のためにふさわしい助け手として、人のあばらからもう一人の人を形造り、その鼻にいのちの吹き込み、生ける存在として女性を生れさせ、初めの人、男性と出会わせたところでした。まず、現代言われる聖書に批判的な人の誤解として、そのところは、決して男性が女性より優れているということを教えているのではないということを学びました。神が地上の生き物を、人に与えたのも、文字通りに支配するためということではなく、神は、神の似姿としていのちを与えられた人間に、神が被造物に仕えたように仕えさせるためであり、神が生けるものに与えた、祝福から生まれ始まった「産めよ増えよ」について、正しく治めさせるためでもありました。ですから、どちらが先であるとか、後とか、どちらの肉体から取られたからとか、そんなことで優越を論じるのは神の前にはナンセンスなのです。順序でいうのなら、人間は獣よりも後、被造物では一番最後でした。しかしその最後に生まれたものに、いのちの息を与え、獣とは異なる生き物として存在させ、しかもその最後の被造物である人に他の被造物を治めることを託されたというのは、それこそ順序で論ずる人間の価値観では計り知れない神の選びがあるわけです。もちろん、一つ一つの被造物にも、また男と女にも、与えられている役割があり、全てには調和と秩序はあるのですが、それと優越とは別物であり、女性が男性より後だから劣っているとか神は思ってもいないのです。むしろ確かに、女性は男性の元に連れてこられたとあるのですが、あくまでもはじめの人、男性目線です。しかし女性目線から見えば、彼女にとっても男性と変わらない、初めての出会いであったでしょう。むしろ連れてこられたと言うところに、その出会いに人の無力さが現れています。つまり、この出会いは、どちらも神が互いを互いに出会わせた出来事であり、どちらが主導権かで起こったのか、と言うレベルではないのです。神が互いを出会わせた。それぞれの助け手として、それぞれがそれぞれにとって必要なふさわしい存在として、それが人類最初の男女の出会いであったのでした。

2.「人と人ーそれは喜びの関係」
 人は神によって連れてこられ、初めて出会ったその相手を見て言います。
「人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」」23節
 彼は、それまで周りにいて、自分が名前をつけた獣や鳥などとは姿、形の違う、人という存在をそこに初めて見たのでした。そして彼が水面に映る自分の姿を見たことがあるのかわかりませんが、自分と同じ姿、形、種類の生ける存在、神にによって鼻に息を吹きかけられ、神の似姿として、言葉を話し心を通わせ交わることができる、彼の目から見てもふさわしいパートナーをそこに見たのでした。そしてその人が同じ骨格や同じ肉体を持っているからでしょうか、あるいは神から教えられた方でしょうか?深い眠りの間に神がなさった、骨から取られ同じ肉体に形造られた、その出来事を彼は知り神を賛美をするのです。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と。それは神がなさったこと、神が与えてくださったこと、神の恵みへの賛美でした。その助け手は、自分が見出した相手、創り出した存在ではなく、人は一人でいるのはよくないと言われた神から人への最高の必要、プレゼントであったのでした。そのようにパートナーは喜びです。そして、これが世界で最初の人間関係、社会でもあるのです。そのように神の創造の秩序や御旨において、神の前において、本来は人と人の関係は、神からの恵みの関係であり、それは喜びであることが教えられます。人間関係がそれぞれの自己中心な好みで、喜びも何が良いかなどの正義も自分の基準や価値観にかなっているかどうかに限定され、好き嫌いや、憎しみあいや、裁き合い、いがみ合い、傷つけ合いになるのは、堕落の後に生まれた、罪の産物なのです。神が創造の初め、人間関係に計画していたのは、まさに神の似姿の関係として、愛、喜び、平和、助け合い、仕え合いであり、堕落はその神の似姿の損失であることを気付かされます。

3.「一体」
A,「夫婦」
 そしてその基本的な関係は男と女、それは夫婦の関係であると教えられます(24節)。骨肉の関係という言葉はよく使われ、親と子や、兄弟の親密な関係を言いますが、ここでは「私の骨からの骨、私の肉からの肉」です。その通りに神はあばら骨から女性を創造しています。「私の骨から生まれた肉」という異なるものではなく、骨から骨、肉から肉と、それは骨肉に比べ同質であり、まさに一つに近いような近しさです。そしてそのことのゆえにと、モーセは夫婦の関係を、二人でありながら一体であると続けていることもわかります。
「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」24節
 神は女性を形造る時に、もう一度、同じように地のちりから形造るのではなく、男性のあばらから取って形造ったことの意味と計画がわかってきます。それは二人であっても一体であり、そこに神からの祝福において、結び合わされ、子を宿し、産んで育て、祝福を受け継いで行く、そしてその子が大きくなり同じように異性と一体となり子を宿し産んで、育て祝福を受け継いで行く。二人での助け合い以上に、「一体として」協力し助け合うことによってです。

B,「神の似姿として」
 そこにはさらに深い意味が啓示されてもいるでしょう。人は神の似姿であると見てきました。そしてそれは三位一体の父子聖霊の関係でもあり、そのように一体となって、互いに仕え合い、助け合い、創造のわざがおこなれてきたでしょう。そして三位一体の神による一つのわざなのですから、そこには一つの大いなる「非常によかった」があり、喜びがあったのです。人は神の似姿であるというとき、夫婦が一体となるということには、その三位一体の一体の似姿があるでしょう。夫婦が一体であるのは、それは神の祝福を取り次いで行くために、家族、子供、子孫、そして、被造物に仕え治め管理して行くという大いなる任務もあるわけですからその一体は三位一体の神の似姿でもあるのです。それ位、大事な関係です。

C,「神と人との結びつき」
 そしてその一体は神と人との関係でもあるでしょう。創造のはじめの人のいのちの、平安、喜び、応答としての礼拝は、全て神の準備があり、神が備え、与え、神がその言葉によって導いていたからこそでしょう。神の言葉は堕落する前の人の拠り所であり平安の源でした。水や空気や食物だけでなく、霊的な存在であった人が生きるためになくてはならない霊の糧、導き手は神の言葉であったでしょう。そのように神と人の関係も、創造のはじめから結びついて、一体であるときにそのいのちは死んだものではない本物になるのです。そしてその一体、結びつきこそが、堕落においてこそ、失われたのです。しかしその一体、結びつきの回復のためにこそ、イエスはこられたでしょう。イエス様は、ぶどうの木のたとえで、こう言っています。
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ15章4〜5節
 イエスが十字架と復活によって、与えようとしてくださったものは、この神と人の結びつきの回復ではありませんか。その枝である人がぶどうの木である主なるイエスと結びついて、神と一本の木になり、そして木から送られる栄養によって、枯れることなく、木によって実を結ぶためです。さらにはイエスはこうも言っているでしょう。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」15章11節
 喜びが満たされるためと。一体こそ、イエスの喜び。神の「喜び」が、一体である私達の「喜び」になる。世が与える喜びや平安と全く異なる、神と一体であるがゆえの喜びを与えるために、満たされるために、イエスは世の飼い葉桶の上にこられ、十字架にかかって死なれ、よみがえられた。そして私達のところにもこられ、私達と事実、一体となってくださるのです。この夫婦の関係は、神と人との関係を表すほどに深いです。

D,「キリストと教会」
 パウロはこれは奥義であり偉大であると言いキリストと教会の関係であると言っています。
「「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。 」エペソ5章31〜32節
 英語では、教会を表す時の代名詞は「She」(彼女)が使われます。それは、イエスが、花婿であるご自身によって迎えらえる喜びの花嫁は教会であることをさしています。事実、教会は、イエスの肉体から流された血と肉によって生まれ、深い眠りの後の復活において教会は生まれます。そのように教会の誕生は、キリストの血潮とからだから生まれたものであるのですが、二人は一心同体となるその関係もまた、キリストと教会そのものであり、それほどまでにその一体の奥義は偉大だと言っています。教会は、キリストのからだであるともパウロはよく記しています。それは教会のキリストとの一体性、それは決して分かたれません。そして枝が木から離れれば実を結ばないように、教会がキリストと一体ではなく、キリストと結びついた一本の木ではないなら、教会としての意義は全くないことを意味しているのです。

E,「何がキリストと結びつけるのか」
 しかし大事なのは、そのキリストと一体となり、結びつけるものは何でしょうか。私達が私達の努力と行いで、一体を作り上げるのだとパウロはいっているでしょうか。そもそもそんなことができるのでしょうか。できません。人はその神との一体を拒み捨てたし、その罪の遺伝子によって生まれるものは、そのことを知らなかったし、自らでは知ることもできない。そして知っても自らでは受け入れられず拒むのです。救われて恵みによって、福音によって生きると教えられても、人はすぐにそれを忘れ、神がいないかのように、あるいは神が全ての源、神がなさるということをあたかもないかのように、私達は自分達の行いで天国に届こうとして絶えずバベルの塔を立て続けるでしょう。キリストとの一体、キリストと私達を結びつけたもの、結びつけるもの、それは何でしょうか。それは、どこまでも神がなさった十字架と復活の神の恵みであり、その神の恵みを私達に与える聖霊の用いる手段、律法と福音の言葉、そして洗礼と聖さんに他なりません。そのように律法によって罪示され、キリストの福音が語られ、洗礼と聖さんが与えられるところにこそ正しいい神との交わり、関係、キリストとの一体があり、私達もその一体の平安において世に出て行くことができるのです。「一体」の意味、そこには、私達にある何重もの恵みの関係を教えられるのです。幸いなことではありませんか。

4.「恥」
「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。」25節
 彼らは、同質の体、そして関係においても一体であるからこそ、恥じる必要がありませんでした。しかし彼らが、神のことばではなく、試みる者の偽わりの言葉をより信じるようになり、神の「してはいけない」に背いたことによって、罪が入り、恥ずかしという思いが生まれました。そして自分を隠し、神から隠れるようにもなったでしょう。本当の自分を見られることを恥とするようになったのであり、それを隠すようになったのでした。ですから恥というのは、自分の本当を知られること、罪深いを自分を知ること、知られることにその根源があることがわかります。いつの時代も変わらない人間の心理かもしれませんが、恥をかかないようにと、人は自分の汚い部分を隠そうとします。そして隠すことによって、その本来の恥である部分をなんとか蓋をして忘れようとする。その隠すための道具は、木の葉などでもなく、多くの人は、自分を真実ではない良いイメージで飾ったり装ったりするでしょう。そのようにして恥をかかないように、プライドやメンツをなんとか保とうとする。誰にでも起こることです。あるいは良い行いや慈善を沢山することによって、自分を良い人に見せよう、良い人だと評価されようとすることによって、本当の自分を隠そうとする、自分は罪のないいい人だと見せよう、見られようとする。それも誰にでもあることです。しかしそのように恥を知ること、本当の自分の汚い部分を知ることに隠れ、蓋をすることによって、その人は大事なことを見失います。それは神の前を忘れ、神の前の本当の自分を知らない。忘れてしまう。むしろ装い自分の行いで肥大化させたイメージの自分しか知ろうとしない。そのようなことを起こってしまいます。しかし、それは実は光ではなく、非常に深い闇です。何よりその人は、着飾って、外側を飾り、良い行いで自分を誇ったパリサイ人たちのように、イエスに気づかない。気づいても受け入れようとできないのです。何より罪深い自分、神の前には恥じるべき自分であることを知らなければ、神からの唯一の救いの道である、イエスの十字架のその光に背を向けたままです。光がわかりません。イエスの十字架と復活に開かれた、罪の赦しと新生の平安の門、そこを通る平安の道を、知ることができません。私達が、恥じを知ること、特に神の前に恥じるべき、罪人であることを知ることはとても大事なことです。神はそのためにこそ律法を語ることによって教えてくださるのです。神の前にある私達の恥を。そしてイエスはその恥を示すだけではなく、その恥を取り去るためにこそ十字架にかかって死なれるでしょう。恥を放置はできませんが、恥からの解放はイエスの十字架にしかありません。イエスはその私達の恥を十字架で取り去ってくださり、私達はだからこそ、そのイエスの十字架のゆえに恥じることなく神の前に立つことができるのです。感謝ではありませんか。今日もイエスは言ってくださいます。「あなたの罪は赦されています、安心して行きなさい」と。イエスは私達の罪を、恥を取り去ってくださっています。そしてイエスと一体とされていることの安心のうちにここから出て行きましょう。そして一体であるイエスが私達を通して実を結んでくださるのです。感謝し、喜び、希望のうちに、祈りつつ、ここから出て行きましょう。



創世記 2章23〜25節
23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。