2020年9月27日


「いのちの木と善悪の知識の木」
創世記 2章8〜17節

1.「前回」
 前回は、神の創造の言葉によって、まだ大地に植物が芽吹き始めたときに、神が土地のちりから人間を形作ったと見てきました。最初はちりから形作られた土の器にすぎない人間でしたが、神は、その鼻に命の息を吹き込むことによって、人を生き物としたのでした。そのように神からのいのちの息があったからこそ、私達人間のいのちとその霊的な存在としての歩みが始まって行ったという、神の恵みと幸いを教えられたのでした。8節以下では神によって鼻にいのちの息を吹きかけられてそのいのちが始まった人間についての記述が続いていきます。前後しますが、後半の園を流れる川と、四つの川について先に触れたいと思います。

2.「源流と4つの川」
 10節以下には、エデンを示す地理的な記述として4つの川のことが書かれています。一つの川がエデンから出て園を潤していて、その一つの川が4つの川の源流となっていました。4つの川の流れは、名前から位置を推測できるものもあれば、ピションなどは場所が特定できない川もあります。何れにしてもこの後の洪水の影響などで、地理も変わったことでしょう。「ピション」の川については、ピションという言葉としては、押し出す、あるいは、泉が湧き出るという意味がありますが、場所については諸説ありつつもはっきりわからず思索を超えるものではありません。ただピションはハビラの全土を流れていたとあり「そこには金があった。 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった」ともあります。この「ベドラハ」というのは、確かな意味がわかりませんが、アラビア半島にこの名前と関連する植物があるようで、それゆえに、ハビラは、アラビアと結びつくのではとも言われます。そしてそのベドラハの樹脂が固まったものが、黄色い綺麗な色のものになりますが、具体的に何であるのかはわからず、文脈上、黄金やしまめのうと並べて書かれており、特にこの「しまめのう」は、ギリシャ語で書かれた旧約聖書である70人訳聖書などでは「緑色の石」とされ、エメラルドではないかともされます。そのように高価なものとの関連でベドラハは紅玉や水晶や真珠などにも様々な解釈されています。13節に、二つ目の川、ギホンが書かれています。ギホンは、ヘブル語では、湧き立つ、とか、突然現れるとかの意味なります。エルサレムの主な水源として、キドロンの谷の泉と関連しているとも言われます。ただそれは「クシュの全土を巡って流れる」」ともありますが、クシュは現代のエジプトの南、スーダンとかエチオピアに当たるナビアの地と関連しており、よってギホンはナイル川のことだと言われます。そして14節のティグリスは、アッシリア、現代のイラクの北、北メソポタミアとも呼ばれた地の王国ですが、そこを流れる川で、最後のユーフラテスは、そのさらに東、もっとも大きな川で、15章18節で、主は、大いなる川、ユーフラテスとも呼んでいます。これらの川については、特にはっきりしないピションの川や、エデンの園を流れる川がどこなのかなど、興味も尽きないでしょうし、そのための探求ももちろん素晴らしいとも思いますが、しかし、場所の特定に労力を割くことに、神のメッセージの意味があるのではありません。神におけるいのちの歩みは、地上のある場所に限られたものでは決してなく、それは、恵みのゆえにイエス・キリストのみを信じる信仰を通して来る、ということこそを大事なこととして私たちは心に留めておきたいです。

3.「仕えてくださる神」
 では、8節のエデンに設けられた園の記述ですが、
「神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」8節

A,「置かれる」
 「神である主」は、その人間のために一つの園、英語では“garden”を設けます。それはエデンと呼ばれるところの一部に設けられた園であり、そのエデンについては「東の方」とも書かれています。それはおそらくですが、モーセがこの創世記を書いた時、イスラエル人がいた地域の東方のエリアを指しているのではとも言われていますが推測にすぎないようです。その園に、主が形造りいのちの息を吹き込まれた人間は「置かれる」のです。つまり人がそこに偶然いたとか迷い込んだかということでもなければ、そこに意図して人がやってきたとか、まして作ったということでもありません。人は「置かれた」。つまり神が置いたのですが、どこまでも神の意志と計画によって、人はそこに置かれたということがわかります。そしてその人が置かれるために、前もってその園を設けてくださっていることも分かります。つまりその園も神が人のために準備をしてくださっている。そのように、神は人のために仕えてくださっているのがわかります。

B,「前もって備え。仕えてくださる神」
「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。」9節
 園の中にも神は、芽生えたばかりのその木々や草花ですが、その園に「見るからに好ましく食べるのに良い」とあるように、人がその目で見て、食べるということへ促されるような、あらゆる木の実をも生えさせてくださいました。そしてこう続いています。15節、
「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」15節
 実がなる木々を生えさせ備えてから人を置き耕させます。つまりそこ置いた人間がまだ耕し育てたりする前に、毎日の食事をしてきちんと生きて行くように、その必要を神は備えてくださっていることがわかります。神はどこまでも人に先立って必要与え仕えてくださる存在であることがわかります。しかし食して良いのはこの後続いている善悪の知識の木以外でした。

4.「いのちの木」
 ここでその「いのちの木」と「善悪の知識の木」に注目して行きましょう。まず、「いのちの木」は、聖書では箴言や黙示録などにも出てきます。この創世記では、まず今日のところ、16〜17節で、間接的にいのちの木のことをうかがい知ることができます。神は言われました。
「神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」16〜17節
 このように善悪の知識の木を食べてはいけないと命じられていますが、このいのちの木からは食べてはいけないとはありませんので、堕落する前、この園ではいのちの木の実は食べることは許されていたことがわかります。しかし3章の終わりには、こうあります。
「神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」22〜24節
 このようにいのちの木は、永遠に生きるという大事な特徴を持っているものであり、そして人が善悪の知識の実を食べて堕落し死ぬ者となって以来、神がケルビムの剣に守らせるほどに、人が食べないように厳格に区別されている存在であることがわかります。このようにいのちの木の実は永遠のいのちを与えるものとして最初の人に食べることが許されていたので、神は、最初の人である男と女を創造した時に永遠に生きる存在として計画し創造していたことがわかります。つまり人間は堕落する前は、死ぬことのない、永遠の存在であったのでした。

5.「善悪の知識の木」
 しかしもう一本の木です。善悪の知識の木の実を食べることで、人は善を知るどころか、むしろ神に背く悪を知るようになり、神を疑い神に背くようになり、死が入り死ぬものとなりました。そのように罪人となった人は、永遠のいのちの木であったいのちの木に、決して自ら、食することができないばかりかその前に立つこともできないし見出すこともできないのです。

A,「それも神の被造物、神の良かった」
 そのいのちの木の隣にある「善悪の知識の木」ですが、「善悪」とあります。それはLutheran Study Bibleには、「全ての知識」の簡潔な表現であり、より厳密な意味では、道徳的な知識と判断を全て得るような言葉であると書かれてありました。ですから3章で試みる者は、アダムとエバに、食べてはいけない善悪の知識の実を食べる時、目が開け神のようになり善悪を知るようになると言っていることは、誘いの言葉でありますが、一部、本当のことを言って神に背くように誘っている、詐欺師の言葉のようなその誘惑の巧妙さに気づかされます。そしてその「道徳的な知識と判断の全て」は神の律法を思い起こされます。忘れてはいけない事実は、善悪の知識の木も神によって創造されたものであり神の良かったの存在なのですから決して悪ではありません。良いものなのです。しかし人が神のもとにあり、神の言葉に信頼し、いのちの木の実を神に与えられている時には、本来、必要ないものでした。試みる者が「神のようになれる」と誘ったように、善悪の知識の木は、被造物には与えられていない神の所有であったことでしょう。だからこそ「食べてはいけない」でありそこには神のご計画もあったのです。しかしそれを、神に促されてではなく悪に促されて、神の言葉ではなく、悪の偽りの言葉によって誘われ食べ、人はそのように悪によってそれを自分のものとしてしまいます。それはまさに神が人のために、しかも人の永遠の命のために本来、計画していたことを、自ら歪め損なうことには当然なるでしょう。「神の良いものの、悪用」がそこに始まるのであり、人間が悪を持って食べたのですから、神の良いものである、知識も聖なる律法も、人間は悪としてしまうし、自分の都合で解釈したり利用したりするようになってしまう、現在への当然の結果へと繋がっていることを気づかされます。事実、イスラエルの民でさえ、神の与えたみことばを正しく教える導き手であるモーセや裁き司や預言者なしには、律法を間違って解釈したり、都合良く、捻じ曲げたり歪めたりして、偶像礼拝にそれて行くでしょう。同様に、パリサイ人たちも、聖なる律法を、極端に解釈したり、社会や組織や文化に都合よく解釈したりもし、律法主義が生まれてもいました。それに対して、むしろ律法の正しい説教者であるイエス様は律法からそこにある正しい教えをし、福音へと向かわせようとしましたが、彼らはイエスとその教えが正しいとわかっていてさえ、背を向け、拒み、むしろイエスを憎むでしょう。私たちはここでパウロの言葉を思い起こすことができます。

B,「木が悪いのではない。人の罪のゆえ」
「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」ローマ7:7〜13
 このように律法そのものは決して悪いものではなくむしろ良いものであり、律法によって確かに罪を明らかにし罪を知るようになる、けれども律法が罪や死をもたらしたのではなく、悪によってうながされ神の言葉を疑い信頼しないようになり、背くようになり、自分の都合で用いるようになった、その罪のゆえにこそ、私たちは善を知る以上に、極度に罪深い者になり、神を神とせず、神のようになれるその自己中心の思いで律法を解釈し用いることによって、ますます罪を犯すようになった。そしてその罪ゆえに、死ぬようになったのでした。

C,「神の「してはいけない」にも」
 ここでは、善悪の知識の木も、神の被造物として、そして、それが園の中央、ど真ん中に、他から見えるように置かれていることから、決して悪いものとしてそこに置かれたのではないということ。むしろルターは、神からアダムとエバへ、彼らの必要と喜びのために、この木を食べないようにという言葉があったのだから、彼らはその言葉を尊敬し、信頼し、それを言われた通りに食べないことにこそ、アダムとエバの礼拝や主への賛美が本来はあったということを示唆しています。被造物も神の言葉も、そして、それが「してはいけない」という、たとえ禁止であっても、全ては神は人の良いことのためにそれを与えているということを忘れてはいけません。自分の価値観に合わない、厳しい否定の言葉だから、愛がない、ではないのです。そのように見る見方は、人間が中心、神になり、神と神のことばを僕として従わせている考え方で、危険です。自分の思い通りにならないから、世の価値観に合わないから、楽しくないから、つまらないから、と自分の秤や世の秤で全てを評価し、礼拝をしたりしなかったり、信じたり信じなかったりするようになるからです。でもそのような考え方のクリスチャンは実は少なくないのですし、おまけにそれに合わせようとして組織を維持し成果をあげようとする教会も少なくありません。みなさん。善悪の知識の実も、そしてそれを食べてはいけないという命令も、神が人に仕えて下さっている、神の愛と恵みの本質であり、それが神の恵みであると覚えるからこそ、私たちは強いられてではなく、喜んで、してはいけないことをしないことへ促されるし、その信仰こそ、神への賛美と礼拝にもなることを気づかされます。堕落によってこそ、それは失われてしまっているのですが、神はそのことをいつでも気付かせ、恵みの中に立ち帰らせるためにこそ、イエス様を送って、十字架の死と復活に従わせたことに目を向けましょう。そのイエス様が今日も「あなたの罪は赦されています。あなたは私のものだ。安心して行きなさい」と言って、平安のうちに遣わしてくださいます。安心しましょう。そして平安のうちにここから出て行こうではありませんか。


創世記 2章8〜17節
8 神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
15 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
16 神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。