2020年9月13日


「私たちのための祝福と聖」
創世記 2章1〜3節

1.「前回」
 前回は、6日目の終わりのところで、神は、人に、食物として、「全地の種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」を与え、また「地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために」も「食物として、すべての緑の草を与え」たというところを見てきました。そこから、堕落以前は、人が、食するためとか人間の都合で動物を血を流して殺すことはなかったし、それは獣や動物同士でも捕食のために殺し血を流すこともなかったのでした。そこには、神が「良かった」と言われた、その命の息のある血が流れている人はもちろん動物もとても大事にしていたこと、どんな命も神の前には尊いことを教えられました。そして神はその6日目の終わりに、創造したすべてのものを見て「非常に良かった」とこの上ない喜びを表されたことも見てきました。しかしその「良かった」という言葉を通しても考えさせられました。それは3章で、エバが偽りの声に誘惑されたときに、神の良くないと言われた果物を見て「食べるのに「良く」」と同じ言葉が使われていることから、人は堕罪と偽りの言葉によって、神の「良くない」を「良いもの」として見るようになり、逆に神の「良い」を、「良くない」というようになった、その罪の深刻さを気付かされました。それと同時に、そのことは、私たち人間はその神の見た「非常に良かった」を人間の理解や常識や価値観では決して計り知ることができない、それほど大きな「非常に良かった」であることも教えられました。しかしその「非常に良かった」の神の思いは何より飼い葉桶の上に生まれ、罪人と食事をし、十字架にかかって死なれたイエス・キリストにこそ表されており、私たちは肉の思いでは決して計り知れなくても、そのように今や神が与えてくださった信仰によって、その十字架に神の救いの恵みと「神の非常に良かった」の思いを理解できる幸いを教えられたのでした。


2.「完成」
 1〜3節までは7日目のことが書かれています。
「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。」1節

A,「天の万象」
 1〜3節は「完成」のことが書かれていることがわかります。何の完成か、それは「天と地」とあり、さらに「その全ての万象」という言葉があります。「万象」という言葉は「あらゆる形、形ある全てのもの」という意味ですが、英語訳ESVですと、hostという言葉で「多数、大勢、群れ」という意味になります。語源はラテン語では、敵や軍勢という意味で、hostile「敵意」の語源となった言葉ですが、ヘブル語では“ツァーバー”という言葉が使われています。“ツァーバー”は、軍勢や軍隊を表す言葉として用いられており(士師記4:2、第二歴代誌26:11〜15)、第一列王記22章19節では、「天の万軍が」と天使の軍勢を表し、ネヘミヤ9章6節では天地のすべての被造物、万象をさして「天の軍勢」とも用いられたり、民数記1章52節などでは主の民イスラエルの「軍団」の意味でも使われています(第一サムエル2:22)。この2章1節では、神が地上、海、大空、全宇宙に満たしたあらとあらゆる全てのものという意味になります。そのすべてのもの創造の働きがここで完成したということが宣言されていることになります。そして、この言葉が続いて行きます。

B,「創造の完成」
「神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。」2節
 ここにもあります。第7日目は、これまでしてきたわざの完成であるという宣言をされたと。そして「すなわち」とあり、「なさっていたすべてのわざを休まれた」と。ここで「休まれた」とあることから、神はこれまでの創造のわざにお疲れになり、身体を休ませた、神が神のために何もせず休むことにしたと思われるかもしれません。そのような神の休息だからと、それは何か、創造の神に欠点や弱さがあるかのようにも連想されることにもなります。しかしここでは見てきた通り「なさってきたわざの完成」が書かれ、繰り返されています。また「なさっていたすべてのわざを休ませた」とある言葉も、厳密にはそれは、「なさっていたすべてのわざから離れて」という意味になります。つまり「休まれた」とあるのは、これまでなさってきた創造のわざの完成を示していて、完成したので創造のわざを止められたことを示しています。しかしそれは「創造の」完成であり、神が他の働きを止めたことまでも意味していません。ゆえに3節でも繰り返されています。


3.「聖であるとされた」
「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」3節
 「その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」と。創造の完成、ゆえに創造を止めたことを示しているのです。この3節には「この日を聖であるとされた」という言葉があります。「聖とした」とあるので、何か「神が神のために聖なる日とした。だからと、この神の聖なる日なのだから、人が仕える日なんだと思う方もいるでしょう。そして十戒のことばを掲げるかもしれません。確かに出エジプト記20章8節以下に「聖なる日」、安息日の戒めについて神はこうモーセに与えました。
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」出エジプト20:8〜11
 ほら「主の安息」と書いてあるじゃないか。神は「七日目に休まれたから」と書いてあるじゃないかと。だから主の創造と主が休んだことを記念して、今度は我々が主のために仕え、主のために礼拝をするのだと、思われるかもしれません。しかし、大事なことは、その安息は誰のための安息であり、誰のために安息日とし、誰のためにあえてその日を聖とし、誰のためにその日を祝福の日としたのかということであり、そして神は本当に安息日に何もせず休んでいるのかということです。この十戒でもわかります。

A,「誰のために聖なる日とされたのか?」
「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」
 仕事をするしないは、人のするしないに向けられています。神は神が休むというより、さらには、人が何かをしなければいけない、ということより、むしろ、はっきりと、人が安息するため、人が休むことを想定しています。安息日には人はどんな仕事もしてはならないと。このようん神様はどこまでも人の行動を指して言っています。そして「聖なる日とせよ」とあります。が、その日を聖と宣言したのは、創世記2章3節でも、この十戒でも、紛れもなく神の方です。つまりその日は「既に」神によって聖とされているということです。そして民には、「覚えて、聖なる日とせよ」と言っており、覚えること、休むことが、「覚えて、聖なる日とする」こととされており、私たちが何かを一生懸命頑張って、聖でなかったものを聖とするとようなことは命令されていませんし、むしろナンセンスです。既にその日は神によって聖とされているからです。むしろ民、そして私たちが、何かを神のため、何かを聖とするためにするのではなく、仕事、わざを休むことによって、その神が聖とされた日を我々もその聖なる日としていることになり神の戒めに答えているということであるとわかるのです。「主の安息」とはあっても、それは私たちのためにであり、むしろ神は休む必要は全くないのですが、人間が身体と心を労働から休むことが必要であり、何より神がみ言葉をもって神のみが与えることができる、主の平安と祝福こそが人には必要であることを、人に教えるためにこそ、その日を聖とされたといえるでしょう。「主の安息」は人のためなのです。

B,「律法の完全な解釈者であり説教者イエスはなんと言っているか」
 事実、神は休んでいるのかというと、そうではないことをご自身の言葉である律法の完全な説教者である、エスは説明しているでしょう。これまでも何度も礼拝を考える時に触れていますすが、ヨハネによる福音書5章17節でイエスはこう言っています。イエスが安息日に癒しをしたことに対してユダヤ人はイエスを迫害したのですが、イエスはこう答えています。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」5:17
 と。またマルコによる福音書2章でも、安息日に穂を摘んで食べた弟子たちを責める人々に対してイエスはこう答えています。
「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です」(2:27〜28)
 イエスは、いつでも聖書の律法から説教を、福音を解き明かし伝えてきたでしょう。つまり神の御子イエスは律法の完全な説教者であるのですが、イエスが、安息日は、神のためでもなければ、安息日のために人が創造されたのでもなく、人のためであり、神はむしろその人が休んでいるときこそ、その言葉をもって人の救いのために働き仕えておられることを伝えているのです。このように、神は誰のためにその日は聖とされのか。それは神はご自身のために聖としたのではなく、人のためにその安息日を定め、聖とされたのです。創造の時も、神は人に、被造物を神がしたように正しく仕える務めを与えました。その務めは6日間、人は被造物に仕えるのです。もちろんその間に神はいつでも人に言葉を与え導くことによって神も仕えていますが、神は人が6日間働きずめであることでは肉体が疲れ、身体に良くないことまでも知っていますね。神はいつでも人間の必要を知っておられ方です。その人間が被造物に仕える働きから休むようにと、その日を人のために与えてくださり、人のための聖なる日としてくださったのです。そして神ご自身はその日に休むのではなく、その日に人の身体の安息とともに、人間は心と霊の生き物でもあります。心の安きのため、とりわけ堕落後の人間は、その霊は闇の中にあり安息がありません。その罪の重荷に沈むその心に、何より安息、平安を与えているために、神は言葉と神のその御わざで仕えてくださるお方であることを、イエスは示していたでしょう。しかもその究極の実現は十字架であることまでも示しています。マルコ10章45節でイエスはこう言っています。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)。

C,「神が仕える。全ては私たちの安息と聖のために」
 みなさん、安息日、そして私たちにとって、聖日であるこの日は、神が私たちに「休むように」と与えてくださっています。それを覚えること、そして休むことが、神の戒めの通りに、覚えて、聖なる日とすることです。そしてその日にこそ、イエスが言われるように、神は仕えられるためではなく、仕えるために、私たちに何よりにも勝る幸い、聖なる交わりをしてくださり、私たちをも聖としてくださる。そのように神は私たちに仕えてくださる、そんな素晴らしい恵みの日でしょう。そうであるのに、私たちはなぜ、その日に、逆の、神のために仕えようとするのですか?一生懸命、私たちの何かで、その日を聖としようとするのですか?私たちが何か神のものを聖とできる力があるのですか?ないでしょう。この日は、神はもう創造の7日目に、すでに聖としてくださっているのです。私たちのために。それは堕落の後もなおのこと。3章で見て行くように、人は、堕落しその罪ゆえに、苦しんで、労苦して、食を得なければならないだけでなく、何より闇の中のその心は、いつでも偽りの誘惑の言葉に誘われ、神に背を向けて行こうとして、迷い疲れ果て、疲れ果てる心です。平安のないそんな心ではありませんか。しかし、そんな私たちのために、神は私たちにさらなる重荷を追わせるために、この会堂に集めているのでしょうか? 創造の時と同じように、人となられたイエスのように、神が私たちに仕えるためでしょう。安息日にも主であり、いまも働いておられ、仕えられるためではなく仕えるために来たというイエスがみ言葉と聖餐を与えて、「あなたの罪は赦されています、安心して行きなさい」と、聖とするため、平安を与えるため、身体と心の安息を与えるために。そして、平安のうちに、6日間へ遣わす為に。しかも律法ではなく、福音にあって新しく創造し、平安のうちに良い行いをさせ、隣り人へ仕えさせるようにと。まさに堕落の前の本当の人間がそうであったようにです。


4.「終わりに」
 パウロもこう言っているでしょう。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」(使徒17:24〜25)
 神が聖とされたこの祝福の日、私たちのための安息日。神は全てを創造したその言葉と御子イエスの十字架と復活によって、神の「非常に良かった」を私たちに回復してくださったのです。私たちは今日も、そのイエスとその言葉によって、決して変わることも絶えることもない、創造のはじめからあった安息と祝福を受けることができるのです。それは私たちが何かをするからではない、まさにあのマルタの姉妹マリヤがしていたように、ただ一つの大事なことである、み言葉に聞くことを通して、神はそれを与えてくださるのです。そのイエスが今日も礼拝の真ん中で私たちのために「仕えられるためではなく、仕えるため」「贖いの代価として命を与えるため」と言ってくださり、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださっています。安心して、このところから遣わされて行きましょう。

創世記2章1〜3節
1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。