2020年9月6日


「非常に良かった」
創世記 1章29〜31節

1.「前回まで」
 前回は、創造の6日目の出来事から、神は「さあ人を造ろう」と人の創造を開始されたところを見てきました。人の創造は、6日間の創造の一番最後になりましたが、神は人の創造のためにこそ、これまで1日1日準備をし時至っての「さあ、人を造ろう」であったのでした。神はその人の創造において「われわれのかたち」として「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」と創造されました。しかしその「支配」は、強権で好き勝手にする支配ではなく、「われわれのかたち」とあるように三位一体の神が創造において被造物を見て良かったといい、その創造したいのちを与えた一つ一つを祝福し仕え、人のためにも、やがて誕生する人のいのちを待ち望み愛を持って準備することによって仕えて来たように、人にも同じように被造物に対し仕えさせることを意味していました。つまりそれは人が主権になることを意味しているのではなく、神がどこまでも神、主権であり、人は神から託された神の「良かった」に愛し仕え正しく治めるようにということでした。それは男と女とが互いが互いのために造られたところにおいて何より現れており、人は性が違い、肌の色などが違いがあっても、互いは神の「良かった」であるのですから、互いに争い、いがみ合ったり、差別したり傷つけるのではなく、互いに仕え合い、命を育み、神の最初にあった恵みとしての祝福を受け継いで行くことが、人と人との本当の関係、創造の神のみ心であったのでした。


2.「人が知るより前に神が備える必要」
「神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。」
 神は、ここで初めの男と女に、人間が生きて行くための食物を与えてくださいます。神は、それまでも人間が空気と水と日光と、生きて行くために必要なものを前もって備えてきました。それは男と女も同じで、2章にありますように「一人では一人でいるのは良くない」と男と女とに創造したように、人は、人の関係において生きるように創造し、その必要を備えられたところにも現れています。ここでも神は人間が口から食することによって生きて行く存在であり、そのためにも人の誕生より先立ってその必要を準備してこられたことがわかるのです。神はそのように必要を全てご存知であり、準備される方であることがわかります。しかしその必要は、人間の側で必要だと要求したわけではありません。神の見た必要でした。私達が思う必要は、私達中心で、個々の価値観や、願望や期待、またそこにある予測や計算によって必要だと決めた必要です。それは私達の側で要求する必要でもあり、そしてそれが得られるか得られないかで一喜一憂する必要でもあります。しかし神の用意する必要は、人間が期待し予測する前、要求する前から、その必要を知って準備し確実に与えてくださる本当の必要だとわかります。もちろん私達が願い、期待し、それが得られるように祈り求めることは大事なことですし、イエスも祈り求めるように教えてもいます。私も祈ります。しかしそれは決して神の備える必要に、勝らないということです。神の備える必要は、人間が求めるより先に備えてくださる、本当に必要な必要です。私達の要求する必要というのは、どうしても自己中心性から自由ではありませんし、それが本当に益となるかどうかなど、求めているときは本当に必要で、益になると思っていても、そうでないこともあります。側から見ればそれが本当にそのためになるのだろうかと、私たちも客観的に誰かを見て思わされることはあると思いますが、しかし矛盾することですが、そんな私達は誰でもその本人なると、まさに主観しか見えなくなるものでもあるでしょう。しかし神は人が生まれる前から、人が求めるより先に、愛と祝福を持って、自分のためではなく人の必要のために必要なものを、全て「良かった」というほどに御心にかなって完全に備えてこられたでしょう。神の私達のための必要というのは私達の願い求める必要にはるかに勝って完全だということなのです。イエスはこう言います。
「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」マタイ6章8節
 そのように言って、だからこう祈りなさいと、その後に教えてくださった祈りが、主の祈りです。そしてその同じ山上の説教で、イエスはこうも言っています。
「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」マタイ6章32節
 と。その後にイエスはこう続けています。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」マタイ6章33〜34節
 と。天地創造の始めらからおられ、万物を創造し、人類に命を与え、それに先立って全てを完全に準備されたイエスが、いつの時代も変わらず実行され、同じ恵みを語ってくださっているのがわかるでしょう。人間のいのちのはじめに、しっかりと食物を備え、与えてくださった。人が求めるより先にです。その神が、変わるはずがありません。全ての神から見た本当の必要を満たし、与えてくださるのです。私達基準の必要をはるかに超えた本当の必要をです。だからこそ、私達は祈る時に、主の祈りのように「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と祈り、イエスのゲッセマネの祈りのように「しかし父のみ心がなるように」と祈ることが何よりの私達の平安であり、希望であり、幸いであると言えるでしょう。


3.「神が与えた食物」
「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」
 と。このように、神が与えてくださった食べ物は野菜や果物であったことがわかります。そして動物は含まれていないことが気づかされます。神は動物と植物は区別されています。まず動物には血液が流れています。それを食することは、その命である血を流して殺すことを意味しています。ですから今は私達は肉を食べるのですが、それは創造のはじめ、堕落の前はそうではなく、堕落以後であることが気づかされます。そのように堕落の前の、創造の完全な形としての世界では、人だけではなく動物を血を流して殺すということは存在していなかったようなのです。30節には、このようにもあります。
「また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。」30節
 このように神は獣にも「緑の草を与え」ました。ルターは、ライオンや肉食獣などは今のようではなく草と果物を食べ肉食ではなかった、他の草食動物を捕食するために狩りもしていなかったというようなことも書いています。当初は動物の肉が人や他の獣のためでさえも食べ物として与えられていなかったことは確かなようです。だからと律法的に肉を食うことはいけないという必要もないし、菜食主義でなければということが聖書のメッセージでもありません。

A,「血と命」
 しかし神はこの後見て行くことになりますが、堕落の後、血ということを命と繋げて大事なこととして私達にメッセージを発しています。最初の殺人であるカインに対しても、
「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。」4章10〜11節
 と言いました。レビ記17章に「肉のいのちは血にある」ともある通り、血は人間にとっても動物にとっても、神がそこに与えた生命の重要な要素であり、生命そのものでもあります。まさに神が生命のために与えた最大の必要です。そしてその生命は、神の「良かった」であり、生命を殺すのでも、減らすのでも、蔑むのでもない、生命を育み、祝福を継承して行く、祝福そのものです。ですからその神の「良かった」の血を、それが人間はもちろん、動物も、その血を流しこの世から抹殺する権利を本来は誰も持っていません。だからこそ堕落の後、その罪ゆえにカインの流した、アベルの血の代価は非常に重いしそれを引き起こした罪は深刻であるし、罪はいつでも死を招くのです。神はその罪の贖罪のために命である血の代価を求めますが、人間の血ではなく、身代わりとして家畜の血を用い、生贄として殺し血を流し捧げさせることによって人の罪の赦しのための代価ともしました。それでも完全ではないために、神はイエスを送りましたが、そこで神が用いたのも、愛する一人子の十字架の死、血潮であったでしょう。罪を赦すために多くの人のために流された血の代価でした。そしてここで与えられている食物である植物も食されることによって私たちの肉体に命の血を形成し増やすものでもあるでしょう。肉の命は血にあり、血は命の証しなのです。

B,「生けるものすべての命は尊い」
 私達がそのことから教えられることは、生けるもの全ての命の尊さであり、人の命も尊いということです。神が人と動物にいのちを与え、肉体に血を流し、植物を食することでその体に血を形成し、いのちは育まれ、新しいいのちを生み、増えて行く。神はそのように計画され、そのような命の営みを見て良かったといい、祝福され、一つ一つの血の流れる動物を大事にされました。そしてそれらを仕え正しく治めるようにと人に与えてくださいました。殺すのではなく、神の祝福のうちに増えるように、その祝福を受け継いで行くようにと。それほどまでに、人の命も動物の命も尊い、血を流してはいけない。自分も他者も決して殺してはいけないのです。なぜ自分も他者も殺してはいけないのかの理由は聖書でははっきりと示されていると言えるでしょう。だからと言って食物について律法的になる必要はなく、いま神が私たちに食物として肉を与えてくださっていることを、感謝していただきつつ、肉だけ食べていても人間の身体には良くないという不思議なバイオリズムにもなっているわけですから、神が与えてくださった食の恵みに感謝してバランスの良い食事をして健康を保つことも、自戒を込めて教えられますし、また世界には、人間の罪の結果として、経済的格差や戦争の問題などで、食べられない沢山の人々がいることを覚えて、私達は祈り、そして福音に促され隣人愛を様々な形であらわしていければ幸いことではないかと教えられます。

4.「非常に良かった」
 神は6日目の最後、人間を含めて被造物の全てを見て幸いなみ旨を示されています。
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」31節
 神はお造りになった全てのものを見て「見よ。それは非常に良かった」と私達に語りかけています。これまでも神の「良しとされた」「良かった」とあるのは、造られたものが全て神の意志、御心にかなっているということでしたが、それがここでは「非常に」と、ものすごく大きな「良かった」であったのです。その「良かった」というトーブというヘブル語ですが、それは見ている人、考えている人のその目、心を大喜びさせる、美しさと喜びを表してます。ケムニッツというルーテル教会の牧師は、その言葉が、3章でエバが、悪魔の誘惑の言葉によって、神が食べてはいけないと言われたその木の実を見て「食べるのに「良く」」と使われている事をと関連させ、神の言葉ではなく偽りの言葉、そして堕落、罪によって、人は、その「神の良かった」を正しく認識できなくなったそのあまりの影響の大きさ深刻さについて指摘しています。そこには、神の言葉を覆してまでも、良く無いものを良いように見えてしまう、その罪の恐ろしさを確かに教えられます。この堕罪を境にしての視点の逆説は大事な教えです。

A, 「私たちの理解を超えた「非常によかった」〜神の「良い」を良いと見ない罪の影響」
 その時以来、エバの思った通り、3章でも見て行きますが、今や私達は偽りの言葉の方がもっともであるように聞こえ、一方で聖書の言葉を信じられないようになり、そしてその罪のゆえに、その神の見た、その「非常に良かった」を、私達の自然のままや理性の目、あるいは知識では決して理解できないのです。ですからここには私達が想像できる以上の、いや理解をはるかに超えた「非常に良かった」があるという事です。それは私達が自分達で想像するような私達の命の尊さとか存在の良さ、以上の計り知れない、神の私達を見る目がある事を私たちは教えられます。私達はむしろ、罪の影響で、本当の良いものを、良く無いものとしてしまったり、軽くしてしまったり、脇に寄せたり、あるいは世の私達が見て良いと思うものに置き換えてしまう歪みがあります。政治家を選ぶにしても、人を評価するにしても、私達は何でも見た目と自分の価値観や必要で判断して、そして私達の秤で、良し悪しを決めやすいものであり、それをスタンダードや共通の一般認識だとしてしまいます。

B,「十字架の逆説:イエスの良いことを悪とする肉の目」
 何よりキリストにおいて人々はそうでした。誰が飼い葉桶の上に神が約束された救い主がこようと思ったでしょう。誰が、世界の約束の救い主が、世から忌み嫌われている罪人たちと友となり、一緒に食事をしようと思うでしょうか。人々は、それを見て蔑み批判したでしょう。まさにイエスの良い事を悪と言いました。そして誰が約束の救い主が、社会から罵られ、ローマ兵に鞭打たれ、重罪人の掛けられる絶望の十字架に死ぬことになろうと思うでしょうか。しかしそれはしるしを求めるユダヤ人には躓き、知恵を求めるギリシャ人には愚かであっても、救いを受ける私たちにとっては神の力、救いの力です。世は神の良いものを悪く言います。世にとっては躓きが、神の良いである。聖書にはそのようなことが溢れています。私達は神の非常に良かったを自らでは悟り得ません。しかしその悟り得ない事の一端を、私達はキリストの十字架に見ることができる信仰が与えられていることはなんと幸いなことでしょうか。そのキリストを世に与え死なせるほどに、神の「非常に良かった」が、私達の理解をはるかに超えた大きな愛が、その十字架には現され、私達クリスチャンは今やその十字架のゆえに、神の前に安心して立つことができ、命の門は回復されて、いつでもそのキリストにあって安心して出て行くことができるでしょう。そのように私達の思いをはるかに超えるほどに、「神の非常に良かった」は十字架にこそ表され、あまりにも大きいのです。その「神の非常に良かった」の目は今日も十字架から見下ろす目でもあり、常に私達に注がれています。今も変わることなく。感謝しましょう。安心してここから遣わされて行きましょう。


創世記 1章29〜31節
29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。