2020年8月30日


「われわれのかたち」
創世記 1章26〜28節

1.「前回まで」
 前回は、天地創造の5日目に、神が、海には水の生き物、空には鳥、そして、6日目の最初のところ、地を這う動物、野の獣、家畜などを、その種類にしたがって創造したところを見てきました。「種類に従って」とある通り、神は創造のはじめから世界に数え切れないほどある生物の種類を創造したことを見たのでした。それは一つの小さな海の生物の種類から進化して種類が増え、海から空や陸地に様々な種類の生き物が広がっていったということではなかったのでした。また神はその種類を祝福し、その生物が新しい命を受け継いで地に増え広がって行くようにしました。そのことから、まず祝福というのは神からその御心のままに一方的に出る恵みであることを教えられ、そして、命の尊さと同時に、その誕生と継承も、神の祝福がはじめにあるからこその素晴らしい恵みの出来事であり、決して律法的なことでもなければ、人間の都合でコントールしたり、良し悪しを決めたりできるものではないことも学んだのでした。

2.「われわれ」
「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」26
 人の創造です。ここで神は、他の生物と異なり、その創造の目的や理由を表明しています。その詳細は2章でも書かれていますが、ここでは、神はこれまで創造をしてきて、あらゆる生物を創造した最後に、「さあ人を造ろう」というのです。そこにはこれまでの創造が、この時のために向けられていたことが伝わってきます。これまでの創造されたもの全てに対して、「よしとされた」「よかった」とある通りに、それらは全て神の恵みと目的にかなっていて、一切、誤りも失敗もなく、そして時が至って、準備万端、「さあ人を造ろう」であるのです。しかしこの言葉、日本語だと見えませんが、創造の主語は「私たち」と複数になっています。英語ですと、”Let us make man” と”us”とあるのです。これまでも神はただ一人であると伝えてきましたが、ここで「私達」と複数で書かれているのはどうしてでしょうか?ある解釈者は、これは神学上の重要性を示すものではなく、神の至高の権威や名誉が何重にもあることを複数形で示すための文法的な手法であると言います。しかし、旧約聖書でも新約聖書でも、神が語り行動する時の主語が複数で用いられているのは異常なことではなく、むしろ神は父子聖霊という三つの人格にして一人の神という三位一体の教理を示すものであると言えるでしょう。三位一体という言葉自体は確かに聖書に出てこない言葉ではあります。しかし父子聖霊の三つの人格がありながら一つの神であるということは、紛れもない、事実、実態として、福音書のイエスの出来事、例えば、イエスが洗礼を受ける場面やあるいはヨハネ17章のイエス様の祈りなどで証しされていますし、使徒達もそれが真実であることを証言しています。そして初代教会を正統に継承していった教父達も、三位一体を否定する様々な異端に対して、父とともに言葉と知恵、子と聖霊は存在し、その父子聖霊によって、またそのうちに神は自由に自発的にすべてのものを創造したと教え(リヨンのエイレナイオス)ました。ルターも「ここには「さあ造ろう」と複数で書かれながら、「神は創造した」と単数で、と両方で書かれていますが、それによってモーセは明確にかつ否応無しに、このまさに神と神の創造の本質のうちには、一つの分けることのできない永遠の複数性があることを私達に示している」(創世記講解)と言いました。ですからこの後の「われわれのかたち」も複数ですが、それは神が間違ったのでも、モーセが間違ったのでもなく、神は意図してモーセにそう言わせ書かせたのでした。「われわれ」と。
 この三位一体の教えはキリスト教の中でも理解できない教えの一つです。ですから教会はなんとか分かってもらおう、信じてもらおうと、人間の知恵を絞り出した数々な学説や説明の努力、あるいは、わかりやすくしようという創作の例えを用いて説明しようとします。しかしそれは同時に危険なことでもあります。三位一体は神の神秘であればこそ説明し尽くせいない教えの代表です。人間の合理性に合わせて最もそうな説明をして、なんとなく分かったようになったとしても、それは説明しつくせないことを真理だと思わせていることになるので、本当かどうかわからないことを教えていることにもなりますし、間違ったことを教えている可能性も十分にあることになるでしょう。私達は聖書を通して聖書を解釈するしかなく、聖書を通して示されるところでしか、神に会い、神のなさることをやメッセージを知ることができません。前回述べたモーセの見た「神の背中」であり「イエス様の十字架」です。ですから聖書が伝える、父子聖霊は一つであるという証言を通して、私達は聖霊を通して信じさせられるその恵みと幸いを超えることはできないのです。人間の欲求として探究心や疑問は決して悪いことではありません。しかし知りたい、説明したい、わからせたいが、神のなさることを越える時にはただの偶像にさえなりうるコインの裏表であるともいえます。ここでもわからないことは主に委ね聖霊の生徒であり続けることの大切さがあります。

3.「かたち」
A,「似せて」
 そしてここに「われわれのかたちとして、われわれに似せて」と続いています。この「かたち」とある言葉は、「ツェレム」という言葉ですが、それは物資的な形、フォームが似ているという意味ではありません。古代の中東の思想では、物質的な事物の姿に神々の存在が明らかにされているとされていたようですが、そのような意味ではないということです。英語訳では”image”イメージと書かれていて、日本語では「像」とでもいうのでしょうか。LutheranStudy Bibile を見ますと、その「われわれのかたち」や「似せて」というのは、神の特徴を反映していて、何よりここにそれが「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」とあるように、神が世界を治めているように、人が神の被造物を治める、あるいはstewardという言葉が使われていて、神が創造した被造物を正しく治めるよう務める、仕えるものとして人は創造された、と解説されています。ここに私たちは学ぶことができます。ここに「支配」という言葉がありますから誤解されやすいのですが、人間が世界を強権で思いのままに好き勝手に支配し、人間が被造物の頂点であるかのように理解したり、あるいは、未信者の人々からもそのように理解されて、キリスト教のこの思想が、人間の自然に対する傲慢さを奨励していて、自然破壊や環境汚染の原因なんだと、よく言われるのです。確かにそれはキリスト教を背景とした、キリスト教文化の、経済的にも科学的にも発展した国々によって行われてもいる事実もあり、われわれは検証と反省は必要ではあるでしょう。そして何より聖書は決して、人間が全ての被造物の頂点であり、なんでも好き勝手に利用し支配するようなことは教えていないし、命じてもいないことがここにわかるでしょう。

B,「神がしたように: 仕える姿」
 まず神のかたちは神の似姿なのです。神がしたようにすることが求められています。そうであるなら、人間が造られる前、人間にこの被造物を託する前に、それまで神がなさった創造の過程のようにです。神は被造物を創造し、それをよかったと言い、命あるものを祝福され、その命が命を生み継承していくことを祝福のうちに始めています。それは被造物を神が愛し仕える姿です。そしてその被造物の創造は何より人間を最後に創造するため、人間が平和に生きていくための準備であったでしょう。つまり人間が創造される前から、神は人間のために心を裂き愛し仕えてきたことがわかるでしょう。皆さん。それが神の姿でありその似姿が神の「さあわれわれのかたち」として意図、計画されているということです。そして、

C,「男と女、人と人:互いに仕えあう存在」
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」27節
 とあります。このように男も女も、神のかたちとして創造されています。男だけが神の似姿であり、女性が神の似姿ではないということでは決してありません。しかしその似姿とは、それは仕える神の似姿としての人間としての、男と女です。性の違う、仕えるための人間が二人、男と女に造られたということです。2章を見るとわかります。神は男が一人でいるのはよくないとして女性を造っています。そうもちろんそれぞれに役割の違いはありますが、どちらも神の前に等しい神の似姿であり、互いは、支配しあったり、いがみ合ったり、争い、対立し、命を奪うためのお互いとしては創造されていないということです。ですから互いが支配しあったり束縛しあったり、いがみ合ったり、争い、対立するというのは、それは神の似姿では決してなく、しかしそれが人間同士、異性同士に現にあるということは、まさに神の似姿から堕落している人間の現実を物語っているのです。男と女はいずれも神の似姿です。それは互いに仕えあい、助け合い、協力して、被造物に仕えていく存在だということなのです。人間は、被造物に対して、また異性に対して、あるいは違う皮膚の色や民族や国に対して、決して支配することを命じられていません。どこまでも仕えること、stewardすること、それが神の似姿、それが神の意図、御心、神の命令であり、この自然も、被造物、動植物、大気も海も、どんな皮膚や民族の違う隣人であっても、まさに神が「よかった」と言われて、神が祝福された、全ての被造物です。神のものです。それに正しく仕え、正しく治め、正しく用いる、正しく交わり、ともに楽しむことを神から託されていることを教えられるのです。

4.「神からの「すでに」の祝福にあっての務め」
 そしてその素晴らしい働きも神の祝福から始まっているのが良くわかります。
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」28節

A,「まず祝福がある」
 ここでもわかるように、人間が何かをするからその後に、祝福が待っているというように、神はこの言葉を発していません。神は先に男と女を祝福されました。そしてその祝福からこそ、生めよ。増えよも、支配せよ、つまり仕えよ、治めよも、始まっていることがわかるでしょう。確かに男と女、人は、その被造物を託されました。しかし、この後、神は、自分はもう何もしないと、人間の自立に任せてさせてはいないでしょう。2章を見ていくとわかります。男と女は、神の言葉と共にあったでしょう。男と女は、言葉によって、導かれ、必要を備えられ、食べてはいけないもの、食べては良いもの、が全て与えられて、治め、仕えていきます。つまり、それははじめに神が祝福されたからこそであり、その祝福のゆえに神がともにあり、神のみ言葉があり、神が支えてくださったからこそ、人は被造物に名前をつけ治めることができていたのです。全てを神が与えた課題をその通りにできたから、祝福された、それまでは祝福されていないということではないのです。すでにあった祝福の中で、祝福されたからこそ、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」はなされていったということなのです。つまり背後には神が常に働いているということなのです。ですから、人が支配者ではなく、どこまでも神が主権者、神が治めている事に変わりはなく、人が神になり支配者になったのではないのです。神はどこまでも神なのです。それが崩れ腐敗したのが、罪であり堕落であり、いまの現実ではありませんか。

B,「律法ではなく福音としての祝福の継承」
 ここにもまさに律法ではなく、どこまでも福音があり、恵みが表されているのです。そのようにして、男と女は、神から一方的に祝福された存在として、その祝福を受け継いでいくために、生めよ、増えよだという事なのです。皆さん。ここに幸いがあります。もちろん親は教育をしていくことも必要でしょう。律法も必要です。しかしそれが最終目標ではのありません。男と女に与えられているこの命令は、神にすでに与えられている祝福を、子に受け継いでいくことでしょう。その祝福を教えていくこと、その恵みの素晴らしさを、伝え、教えていく事にあります。ですから教会であればなおさらですが、律法だけ、あるいは福音より律法をより重視で、継承をしていくことは決して不可能です。なぜなら福音こそ真の祝福であり、祝福の証しであり、ゆえに福音こそ祝福を受け継いでいくための唯一のものだからです。その福音で、私達が神にいかに祝福されてるいるのかを伝えていく。何かをするから祝福されるのではない、何か立派だから祝福されるのでもない、ダメだからできないから祝福されないのではない。神は私達をすでに祝福しておられる。その祝福を気づかせ立ち返らせ、その祝福の関係に喜びと平安のうちに戻ることができるようにとイエスを送ってくださり、飼い葉桶の上に生まれさせ、十字架の上で死なせた、しかしそれゆえに誰でも罪赦され平安が与えられる。安心していくことができる。それがいまも変わらない神の一方的な祝福なのです。そしてその福音の祝福に安心してこそ、そこから喜んで平安のうちに従い、愛していくことができるようになるのであり、福音から生まれ始まる良い行いであればこそ、そこで律法は私達にとっては、喜んで従っていける、喜んで隣人へ仕え、敵でさえも愛し、神の「よかった」に仕えていくことができる、重荷ではない祝福の言葉と理解できるのです。

5.「悔い改めと平安」
 人のはじめの記録は、私達の存在についてどのような存在としてこの世に誕生したのか、どのような神の計画があったのかを教えられるとても大事なメッセージです。しかしそれは同時に、互いに仕えることのできない、愛することのできない、罪深い人類の現実、自分自身の罪深さを気付かされる、刺し通される重要な語りかけでもあります。しかし、そのような私達だからこそ、イエスは今日も十字架を指し示しています。そこに遥か昔の最初から約束され、成就され、すでにあなたに与えられてている祝福があると。イエスは今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさいと」と語ってくださり、罪の赦しと新しい創造を常に私たちに行い新しく遣わす、真の祝福が泉のごとくに私達に注がれ、私達から溢れ出させてくださいます。イエスはこの十字架を指し示し恵みを受けるように差し出してくださっています。ぜひ真の祝福、罪の赦しのをそのまま受けて、今日も安心してここから遣わされて行きましょう。


創世記1章26〜28節
26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」"