2020年8月16日


「神はすべてを準備するA」
創世記 1章 9〜19節

1.「前回」
 前回は、天地創造の続きとして、神が、創造された光を見て「よかった」と言われたところ、そして「1日」という言葉から見て来ました。創造のはじめのところは、今の私達には理解できない信じられないことが溢れており、1日が、24時間の1日としてモーセが述べていることもその一つではあったのですが、しかしそれを信じらず理屈に合わないからと、人間がしがちな人間の有限な知識の枠組みに無理に当てはめて最もそうな理屈を作り出すのではなく、聖書の真の教師である聖霊が教えられることに任せ、私達は聖霊の生徒であることに止まり、わからないことはわからないままにしておくことを改めて気づかされました。それはこれからも何度も繰り返し立ち返るべき、聖書に対する立ち位置であり見方でもありました。そのことを踏まえつつ、2日目の水が上と下に分かれて、三つの空間ができたことも見て来ました。水は上と下に分かれ、その間に大気、そしてまだ下の水の下にあるわけですが、大地が出来たのでしたが、それは偶然出来たのではなく、神が「あれ」と行ったその通りになった結果でした。神はそのみ言葉によって創造を進めていくのです。そのことからも神のみ言葉こそ創造の力であり、神には出来ないことはなく、神が神であるからこそ、人間の頭では理解しせないことも信じ得ないことも、神はなさった。その言葉にはそれを実現する力がある。しかもそれを見て「よかった」と言われるほどに、神のその力、わざ、作品には誤りがない、全ては神の意志に合致し、神の意志を完全に実現する力は、何よりそのみ言葉であることを教えられたのでした。そして創造の一つ一つのプロセス、そこで創造される一つ一つのものは、それは最後に創造される人間が生きていくための準備でありました。そのように神はいつでも人間のために備え、人間は神が準備してくださったものを受ける存在であり、それは何よりイエス・キリストの救いにこそ現れていることでした。私達は「自分達が何か神のためにするから」という律法ではなく、神が私達の救いのために備えてくださったイエス・キリストの与えるものを受け取るからこそ平安が溢れ出てくる。その私達が与えられた新しいいのちを生きる時の恵みの原則は創造の時から全く変わらないのでした。


2.「かわいた地と植物」
「神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。」9節
 三つの空間、空と水と地ですが、今日のところからわかるように、今日のところで「地」と名ずけられるところは、まだ後に「海」と名付けられる「下の水」の下にあったのでした。つまり「乾いたところ」はまだなかったのでした。しかし神は仰せられるのです。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」と。神の言葉です。そして、神はその言葉を発せられると、9節の終わりに「そのようになった」とある通りに、下の水は、一所に集まります。そして渇いた所がその通りに現れたのでした。そして10節、神は言葉を持って名をつけます。かわいた所を「地」、下の水が集まった所を「海」と。さらに神はその言葉を持っていうのです。10節の終わりですが、
「神はそれを見て良しとされた。」10節
 そのかわいた地も海も良かった。つまり、神のみ旨にそぐわないのではない、未完成でも不完全でも失敗でもない、神はそれを見たときに、神のみ旨、意志、計画にしっかりと合致したのでした。そして同じ言葉が続きます。
「神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第三日」11?13節
 地に、まず最初の生物として神は植物を創造します。神はこの植物の創造において、種を生じる草や、種のある実を結ぶ果樹と述べているように、生物は一代で終わるものではなく、植物は最終的には種が生成されその種から同じ植物が生まれていくことが繰り返されていくというように生命を秩序づけています。ここには種が先か、木や実が先かということの答えを見いだすことはできませんし、その回答を出すことが聖書の目的でもないのですが、わかることは、神は「芽生えさせよ」とある通り、その植物の秩序は文字通りで言えば、芽から始まったのでした。そして、それは一種類ではなく、多くの種類を神は創造されています。しかし「種類に従って」とあるとおり、植物も、神の創造した種類という秩序に従って、芽生え、そして育ち、種を生み出していくことを、神はみ旨とされたのでした。そしてその植物と秩序は「良しとされた」とある通り、神の意志、み旨にかなっていたのでした。しかしその次の日の創造は、その最初の生物である植物が、そのように実を結んで種を生み出すための、環境の創造に入って行きます。


3.「太陽と季節、星々」
「神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第四日。」14?19節。
 植物が創造され、その植物が育つための水はすでにありました。しかし植物は水だけでは成長しません。太陽の光が必要であり、そして季節が必要です。日光の量や、寒暖の度合など、季節の移り変わりを経て、植物は、本来、芽を出し、育っては、種を結び、枯れて行きます。植物は、季節を彩るものであり、季節を経て、その一生を送り、種を残していくものです。神はそのことをきちんと計画しています。芽生えさせ、その次の日に、その芽生えた植物が育つために必要な太陽を、天の大空に起き、昼と夜とを区別させるのですが、ただ昼と夜の区別ではない、一年の季節の気候や移り変わりを担わせるのです。そして夜には月と星を置きますが、月の光や星の一点は小さな光ではあっても、夜に月と小さな光が星として無数にまたたいているからこそ、夜は決して完全な闇にはなりません。神様の工夫が見られます。そしてその星自体は平面の黒いキャンバスに地上から同じ距離で輝いているのではなく、計り知れない広大な宇宙の広がりにおいて、私たちにはピンとこないものすごい距離の隔たりで散らばっているものです。そしてその星々の散らばりも偶然ではなく、その置かれた場所において神の意志とデザインがあるわけです。なぜならその太陽と季節も、夜の星々の、果てし無い宇宙の中でのそれぞれの置かれたデザインも、神はそれを見て「良しとされた」とある通り、神のみ旨に完全に合致しているからです。この3、4日目の創造も、美しくもありながらも、私たちの思いや想像をはるかに超えた出来事となっていることに気づかされます。世の人々は、季節や生命の誕生も、宇宙の広がりや、そこに無数に散りばめられている星の数々とその場所も、全ては偶然であるというでしょう。そこには何の意味も意図も計画もないということでしょう。しかし神はその植物も季節も、植物の生成、種類の秩序も、そして太陽と星の広がりもその言葉を持って、そのことを生じ実現させ、それを運行、活動させ、そして、それを見て、すべて「よしとされた」、神は「よかった」と言ったのでした。ですから説明をつかないことを、偶然とする結論も、意味のないとする結論も、結局は、有限な人間の理屈、人間の知識の枠にあたはめた結果です。一方で、なんとかこのところを世界の常識知識や学問や科学に合わせて、解釈して、なんとかこの箇所を信じてもらうと、様々な合理的な考え方や説明をしようとすることも、実は偶然をいう人々と同じように、有限な人間の知識の枠に無理やり当てはめようとすることにすぎません。ですから、存在についての、無信論者や科学のなんらかの偶然による原因の理解も、一方で神を信じるものが神を弁明するために人間の頭で絞り出す聖書解釈も、結局は何ら違わない同類でさえあるということが見えてきます。どちらも聖霊の生徒、聖書の生徒であることをやめ神を神とすることをやめて、人間が神となり人間が聖書の教師となり、有限で罪深い人間の頭の枠に神と聖書を無理やり当てはめようとしてるにすぎないのです。


4.「聖霊を教師として」
 私達は、与えられている信仰で子供のように神を神とし、わからないことは神に委ね、聖霊の生徒として、み言葉はその通りになると信じ聞くとき、このところから、神がこの地上の一つの植物の芽の創造から、その数知れない種類と、季節の神秘、そしてその神秘の広がりが計り知れない宇宙の広がりにおける星々の配置の一つ一つに至るまで、そこに神の完全さ、緻密さが、そして単なる自然や夜空の美しさや感動を超えた、計り知れない創造の美しさ、荘厳さが伝わってくるのではないでしょうか。そこに私達に示されている圧倒的な事実は、み言葉には力があるし、それは私たちのあまりにも小さな存在や知識と比べることができないくらい、大きいし完全であると教えられるのです。
 ですから人間の頭、知識や常識の枠組みや理屈でこのところを理解しようとするなら、ファンタシーか抜け道のない迷路に終わります。イエスは私達に天の賜物として聖霊と信仰を与えてくださり、聖霊はいつでも私達の信仰を導く教師です。その信仰が常に導くところは人間が神となることでは決してありません。むしろそれが悪魔が導いた堕落であることは3章で見ていきます。聖霊が与え、聖霊が導く信仰は、科学への答えや、道徳でもあり得ません。律法の重荷でもあり得ません。神を神とする信仰であり、神を神とすることによって、神が常に与らせる平安です。私達は、ここに信じがたい理解できない神秘を見るなら、人間の価値に当てはまらない矛盾として怪しみ疑うのではなく、その言葉の通り神の秘密のままにしておこうでありませんか。神は聖霊を通して私達が決して理解し得ない、神のなさった神秘こそをここで語っています。そして神を神とする信仰で神秘を神秘として信じればこそ、私達はそこにファンタシーでも道徳でもない、無理な理屈や偶然という無意味さでもない、神のなさることの美しさ、完全さ、大きさ、力強さこそを教えられ信じることで、喜びと安心が湧き出てくるのではないでしょうか。


5.「被造物は神の「良かった」」
 そしてこれらも全て人間のための備えです。植物は酸素を生み出し人間の呼吸と食べ物として準備となり、そのための太陽や水も、乾いた地も季節も人間の生命のために全て必要不可欠なものです。創造の秩序も順序も、全ては創造の完成である、6日目の人間の創造と、7日目の安息の礼拝に向けられています。そして7日で一つの創造であり、それぞれの1日1日は独立していません。全ては人間と、そして礼拝のための備えであることがわかります。
 父なる神、子なるキリスト、そして助け主で教師である聖霊は、創造の初めから、全て計画し、その御心のままに創造をしていきます。「良し」「良し」「良かった」と言いながら。全ては順調です。神の意志に合致してです。それは人間のために、人間のいのち、そして7日目の神の礼拝、そのために。神の人間への思いと愛、そして全て準備ですから、初めからその恵みのみが溢れていることが、このみ言葉から教えられることです。
 そしてだからと言って、植物、その種や実、季節の移り変わりも人間のためとはいえ、現代の人々のようにそれらを好き勝手に用いていいということは決してこのところから導き出されてはこないはずです。人間やそのほかの動物のために備えられているとはいえ、その植物も、季節も、もちろん下の水である海、その上の大気や、上の水の気候なども、神が良かったと言った完全な被造物であり、神が秩序立て「良かった」と言った神のものです。それは神のものであり、神の「良かった」であり、神から託されたものです。その植物は、確かに神が食事のために与えてくださっているものでもありますが、植物の秩序、季節、海や大気、神が良かったと言ったものを、破壊したり、横暴に用いたり、あるいは奪い合いをすることは、神の「良かった」を壊す行為になります。しかしそれが現に行われているところに人間の罪深さがあると言えます。
 私達人間は自然環境を破壊する権限は決して持っていません。人間は自然を支配す神ではありません。神は3日目、4日目に「良しとされた」「良かった」と言ったのです。その神の「良かった」の対象、その被造物を私達は感謝し大事にしていくことが信仰の応答、神を神とする信仰の現れだと言えるでしょう。野菜果物は感謝していただき、そのために争うことなく、いつでも神の「良かった」のみ心を思い、大事にし、互いに愛し合いながら用いさせていただきたいです。


6.「終わりに」
 私達は、その神のみ言葉の完全さ、神を神とする信仰、神の「良かった」に今日教えられるときに悔い改めの心を起こされるかもしれません。そう、私達は今日も、神のこのみ言葉の前にいかに小さく、そしていかに罪深い自分かが気付かされるのです。この混乱と心配と不安の世の中にあって、自分自身のことしか考えられない。家族やだれかを裁いてしまう、攻めてしまう。誰かとの比較で満足しようとしてしまう。そんな私自身でもあります。罪深い一人でしかありません。この偉大な創造の神の前にあって。しかし今日も創造の神であるイエスがこのところに私達を招いてくださり、イエスが命をもって準備しかかってくださった十字架と復活を指し示して語りかけ宣言してくださいます。「悔い改めて神の国を受け入れよ」「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。そのようにイエスは今日も福音で、私達に新しいいのちを更新してくださっています。今日も新しい創造をされるイエスにあって新しくされているのですから、安心してここから出て行きましょう。



創世記1章9〜19節
9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
10 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
12 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。
13 夕があり、朝があった。第三日。
14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。
15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。
19 夕があり、朝があった。第四日。